心のビタミンバックナンバー

81〜90


No.81 使命の優先順位


 するとモーセのしゅうとは言った。「あなたのしていることは良くありません。」
        出エジプト18・17


 この時モーセは、女性や子どもも合わせるとおそらく二百万人近くいたと思われるイスラエル民族を、ひとりその肩に負っていたにもかかわらず、異邦人のしゅうとイテロの唐突な助言を受け入れました。「地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」(民数12.3)彼でした。
 大事件から些細なもめごとに至るまで、すべてがモーセの肩にのしかかっていました。ですからモーセには、遠い将来を見通す余裕もなく、ひたすら目前の事柄の処理に忙殺されていたのです。いつか、どこかでこの悪循環に終止符を打たなければならないことは、明らかでした。
 モーセには、神から託された、モーセにしかできないことをなす必要がありました。彼はしゅうとの助言に従って、この後、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長を任命し、少しずつその重荷を分かち、使命の優先順位を明確にしていくようになるのです。



No.82 変革への挑戦


 あなたも、あなたといっしょにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。
               出エジプト18・18


 二百万人近い人々があらゆる問題を抱えて、たった一人の人に押し寄せて来たとしたら、、どうなるでしょうか。
 イスラエルの民は皆、モーセでなければ満足しない。モーセもまた、事の大小にかかわらず、すべての問題を処理しようとする。やがてモーセの手が自分のところへ回ってこないことへの不満が噴き出す。モーセの中にも、積もる一方の仕事からくるプレッシャーが増大していく。そして民は、自転車操業のようなその場しのぎの営みに疲れ果て、長期的な旅の展望や備えもないまま、やがて自滅に向かう。
 これは、下手をすると教会にも起こりそうな出来事ではありませんか。幸い、モーセは勇断し、意識を変革して長旅にも耐え得るような組織づくりに着手しました。教会にも、勇断しなければ、にっちもさっちも身動きが取れなくなる場合があります。柔軟な心をもって、必要とあらば勇気を奮いましょう。



No.83 思い切って


 モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、すべて言われたとおりにした。
        出エジプト 18・24


 エジプトから民を率いて脱出し、さまざまな苦労をしてきたモーセ。そのモーセにイテロは変革を迫る助言をしました。「善し悪しは別にしても、もしも助言をするなら、自分も共に苦労してから言え」とでも言いたくなるような状況でした。けれども、モーセは思い切って決断し、これを行動に移したのです。
 私たちの場合にも、これまで半ば習慣となって続けてきたことを同じやり方を踏襲して継続したほうが、問題も抵抗も少なく、楽な場合が多いのではないでしょうか。薄々まずいと感じていても、変革に着手するその当人に率先してなるのは、たいそう勇気のいることです。
  しかし主は時に、私たちに対して新しい世界に旅立つことを求められます。長年腰を下ろし続けてきたあり方にピリオドを打って、思い切った改革に乗り出すことを求められるのです。主のチャレンジに信仰をもって応答しましょう。



No.84 新しい世界


 モーセは、イスラエル全体の中から力のある人々を選び、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民のかしらに任じた。
                   出エジプト18・25


 新しい体制がつくられて、ようやくモーセは解放されました。聖書には、どれほどの期間をかけて二百万人近くのイスラエル民族の問題を処理し、リードする組織づくりを成し終えたのか記されていませんが、おそらく相当の歳月を要したことでしょう。しかし、このことのおかげでモーセはそれまでの苦労に十分報いて余りある、解放感を実感することとなったのです。
 牧会五年目に、私は大きな壁にぶち当たったのですが、結果的には、このことが新しい教会の流れを生み、教会全体の体質を変化させる恵みの経験となりました。教会に有給の事務員が置かれ、家庭集会の持ち方も変化し、役員会のあり方や教会の雰囲気にも変化が訪れました。
 恐れずに立ち上がり、信仰をもってチャレンジするならば、主は必ず壁を壊し、新しい世界を開いてくださるのです。



No.85 新しい皮袋


 だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。
   マルコ 2・22


 新しい皮袋と古い皮袋。そんなことが私たちの教会にもありました。少しずつ人が増え、活動も多岐にわたり始めた頃、古い教会観や、伝統的な教会運営が、もはや古い皮袋となりつつあったのです。
 牧師がすべての家庭集会を回らなければ満足しない伝統は、改革する必要がありました。組織の編成替えをし、新しく招かれた人を十分にフォローできる受け皿づくりへと乗り出す必要がありました。さもなければ、せっかくの新しい魂がむだになるか、教会がやがて大きな困難に直面するか、いずれかだったと思います。
 皮袋は変わらないのが尋常なのではなく、内なるいのちの変化に応じて変革されるのが正常なのです。主は、キリストのからだなる教会に、絶えず新しいいのちを注いでくださるのです。



No. 86 すべてをかけて


 私は、死ななければならないのでしたら、死にます。
   エステル4・16


 この時、エステルは文字どおり死を覚悟して決断します。「ペルシヤの法律を侵してでも主に従うことが求められているのでしたら、私は従います」との彼女なりのギリギリの告白でした。そして事実、この後ユダヤ人救出のため命をかけて、彼女は分不相応の願い事を王に向かって直訴するのです。
 古い歴史のある教会で、さまざまな伝統や意識の改革に着手するように導かれた頃、しばしばこれと似た決意が私の内に起こりました。「死ななければならないのでしたら、死にます。」と、すべてをかけなければ、とても生半可な気持ちではやれない。これで牧師生命が終わろうとも、前進するほかない。そんな緊張に身の引き締まる思いをしたことを今でも思い出します。
 体質改善とか、長い間続けてきたことの改革ということには、多くの犠牲が伴います。しかし必要ならば、主を信じて、そこにすべてをかけて着手したいものです。



NO. 87 死の影の谷


たとい、死の影の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。
   詩篇23・4


 このみことばを、自ら十字架の墓石に刻んだ方があります。数年前、天に召されたご婦人です。
 私たちは実際、人生の途上で死の影の谷に遭遇することがあるでしょう。
 牧師になってまだ十五年ばかりですが、それでも幾度かは逃げたい、死んでしまったほうがよっぽど楽だと思ったことがあります。寝てはうなされ、起きては気がふさぎ、長い出口のないトンネルからこのまま出られないのではないかと本気で思い続けました。目の前の壁があまりに高く、それに比べて自らの力の弱さを意識する時に、ただただ恐怖の念に襲われました。
 しかし、詩篇二十三篇の作者ダビデに限らず、多くの牧師や伝道者、また信徒も同じような経験をしておられることを知りました。たとえ死の影の谷を歩くようなつらい経験があったとしても、主は私たちと共におられ、必ずその壁を越えさせてくださるのです。


No.88 信仰・希望・愛


 いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
   I コリント13・13


 数年前、教会の納骨堂を新築しました。天国への希望を積極的に証しする、記念碑のような意味をもつこの建物は、大理石や鉄筋コンクリートを基礎に、屋根には銅版を使い、恒久的な素材を用いて生まれ変わりました。
 中には三枚のステンドグラスがはめ込まれています。一枚は、キリストの十字架から流れる血潮をデザインした「信仰」、一枚は地上から黄色い光が天国まで立ちのぼるイメージの「希望」。そして朝日の方角には、豊かな水の流れを表わす水色の「アガペーの愛」。この三枚が三角形の建物の三方に組み込まれています。
 クリスチャンは死者を大事にしないというあらぬ誤解が、特に田舎ではありますが、これを払拭するという目的ばかりではなく、天国の希望を証しするという積極的な意味をこの納骨堂はもっています。受難週が近づいています。キリストがお与えくださった三つのものを大切にしたいと思います。


No.89 大切なもの


 いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
           I コリント 13・13


 新約聖書の時代には、コリントの町はエーゲ海に面する貿易の盛んな港町として有名でした。
 「コリント人のようだ」と皮肉ったことばは、コリントが物質にあふれて快楽に走る退廃した町として知れわたっていたことを表しています。
 その町に立つ教会に、パウロは冒頭のことばを手紙に書いて突きつけたのです。信仰、希望、そして愛。この見えないものを度外視して、目に見える物の中でひた走る人生は、一見どんなに豊かであっても、死んでしまえばそれで終わりの空しいものなのだ、と。
 台湾、韓国、フィリピン・・・・・どこに行っても日本人があふれています。金をちらつかせて羽目をはずし、金持ちではあっても尊敬されない日本人の姿がそこここに見られます。
 「あなたはいかにも日本人らしい」と皮肉たっぷりに言われないように、本当に大切なものにこそ、目を注ぎたいものです。



No.90 信仰


 愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。
    詩篇14・1


 新約聖書に記されている「信仰」ということばは、「真実」とも訳されます。
 信仰というと、特殊な人たちがもつものだと思う向きもあるでしょうが、これは本来、人として当然もつべきまことの道なのです。
 グリコ森永事件が起こった当時、チョコレートの売り上げは極端に減りました。安全かどうか、いちいち確かめないと食べられないと考えたのでしょう。ですが、今はどうでしょうか。だれも、毒が入っているのでは、などと疑いも調べもせずに信じて食べています。
 また、日航ジャンボジェット機が墜落した事故の直後にも、やはり乗客が減りました。けれども今は、いちいちパイロットについて調べはしないでも、信じて乗り、大切な命を預けています。
 造られた天地を見、与えられた命を確かめ、偉大なる創造主を認めて信じて生きることは、人として当然です。「神はいない」などと勘違いしないようにしましょう。