心のビタミンバックナンバー
71〜80
No.71 立ち上がれ
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。
イザヤ 55・11
私たちは日々みことばを読み、毎週メッセージに触れて、どの程度成長しているでしょうか。聞いても触れても感じないとするならば、少々考えものです。
神のみことばが右から左に聞き流され、素通りして何ら影響を受けなくとも差し支えないものとなってはいないでしょうか。
教会員の八十歳過ぎのおばあさんは、長年寝たきりの生活をしておられたのに、メッセージのテープを熱心に聞くうちにやがて立ち上がり、歩く練習を始め、ついには礼拝に出席できるようになりました。
ある人は自分にできる奉仕を主にささげたいと願って、身近なことから始めるでしょうし、またある人はもっと積極的に、家庭集会を開きたいと思うかもしれません。人それぞれ、主に示されることは異なるでしょう。しかし、みことばを聞いたら心燃え、立ち上がって一歩前進するキリスト者になりたいものです。
No.72 互いに祈って
私たちのために祈ってください。
ヘブル 13・18
牧師は教会員を指導するために立てられた器ですが、実際には教会員が牧師を育てるという面があると思います。もちろん、「教えてやるんだ」 などと勘違いをしたら大変なことになりますが、もしも互いに謙遜になって仕え合うならば、牧師も信徒も成長し、教会にはさらなる可能性が開けることでしょう。
若くして牧師となった私は、就任当時、何の経験も持ち合わせていませんでした。しかし、みことばを説き明かすため神に立てられた器であるという一点では、年輩の教会員が私を立てて認め、尊敬してくださいました。そのことが励みとなって、何とかここまで務めを果たすことができました。もしも、教会員が若輩の私に不平不満を並べていたらどうしたでしょう。とうの昔に私はつぶれていただろうと思うのです。
牧師は信徒を愛して使命に全力投球し、信徒は牧師を立てて敬い支える。そして何よりも互いのために祈り合う。このような歯車のかみ合った教会形成をしたいものです。
No.73 欠けはあっても
牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる。
箴言 14・4
教会といえども、人の集まりですから、集まれば当然何かしら問題は起こります。けれども、主はそこに集う一人ひとりを通してみわざをなそうとしておられるのです。
ひとりの人間の発想と力には限界があります。牧師はメッセージを語りますが、立ち上がって具体的な発案をし、それを実行に移していくのは教会員の人たちなのです。
主はみことばに触れて燃え上がり、賜物を用いようとする一人ひとりを組み合わせて、キリストのみからだなる教会を建て上げようとしておられるのです。
まず、みことばに感動し、主からのチャレンジにこたえようとする原点から出発しましょう。そして自らに示される行動を主の御前に誓い、しばらくの祈りを積んだ後、思い切って具体的な一歩へと踏み出すのです。おそらく困難はあるでしょう。しかし、主は欠けのある私たちを用いてくださるのです。
No.74 整えられて
兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。
I コリント 3・1
ひとくちに賜物を用いるといっても、簡単なことではありません。
生来の感情や自我をむき出しにしたまま、各々が賜物や願いを主張したのでは、教会は混乱に陥ってしまうでしょう。
パウロ派だのアポロ派だの、果てはキリスト派まであったというコリントの教会。それは、世の組織形成や分裂のプロセスと何ら変わりのない、キリスト教会とは思えないような混乱状態でした。
このように弱い、醜い私たち人間は、ひとつのみことばの勧めの前に全員がへりくだり、整えられる必要があります。みことばを出発点にしていながら信仰抜きの思いのままの教会形成は、大変な危険をはらんでいるのです。
まず、お互いがみことばに聞き、へりくだって、その上で共に用いていただこうではありませんか。
No.75 教会形成のシステム
そせは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるため・・・・・・・。
エペソ 4・12
キリストはなぜ、教会に牧師や伝道者をお立てになったのでしょうか。
それは、彼らが自ら教会を形成するためにではなく、キリストに呼び集められた人々にみことばを説き、彼らを強め、整えるためであったことがわかります。ここでの「整える」とは、もともとは「強くする」という意味があったようです。
牧師や伝道者によって、共通のみことばの教えを受けた教会員が、強められ、整えられてキリストによるひとつの指示系統に従って、不思議に調和した見事な教会形成に用いられていくのです。
年齢、性別、生い立ち、社会的立場がそれぞれ異なるにもかかわらず、クリスチャンがひとつとなって、教会形成というわざに参画することができる。その後ろ姿に、人々はキリストの姿を見ることでしょう。まず、へりくだってみことばに教えられ、整え強められましょう。
No.76 時を見分ける
天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
伝道者 3・1
神に用いられる人々には、神の時を見分ける独特の感覚が必要です。昨日決断すればうまくいったことも、今日に延ばしたことで失敗したり、あと五年待てば神の時が満ちたのに、待ち切れずに熟さぬ実をもぎ取るようなことをして、後々まで悔やまれるということもあります。
このような経験を、会堂建築の際にしました。第二会堂は、最初の献金があってから二年以上もひたすら時が満ちるのを待ち、その間、より賢い段取りを模索するように導かれました。第三会堂決議の際は、最初の献金があってから、間髪を入れずに即決するように導かれました。
いずれも原理原則を超えて、生ける神ご自身が、それぞれの時と状況の中で「今がその時」と手取り足取りして私たちを導いてくださったのでした。
主の細い御声を察知して、絶妙なる主の時を嗅ぎ分ける知恵をいただきたいと思います。
No.77 いろいろな時期
くずすのに時があり、建てるのに時がある。
伝道者 3・3
以前、礼拝後に年代ごとに分かれて聖書を学ぶ「分級」を取り入れ、うまくいかなかったことがあります。よその教会でうまくいったからといって、あまりに安易に導入したことも原因ですが、もうひとつには、時ではなかったのだと思います。
あと二、三年が過ぎ、教会の雰囲気がまた少し変わり、教会員の考え方にも変化が見え始めた頃にスタートしたら、あるいはうまくいったかもしれません。
何をやってもうまくいかず、ひたすら忍耐するしか手がない時もあります。そんな時は、じっと神の時が満ちるのを待つことです。
別の時期には、教会学校のソフトボールチーム結成や礼拝時のネームタッグの導入など、次々と新しい事柄が容易に受け入れられたことがありました。そんな時は何をやってもうまくいくものです。キリストのからだである教会には、いろいろな時期があります。がっかりしないで、時には忍耐しながら、前進しましょう。
No.78 地上での幻
幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。
箴言 29・18
よく「幻なき民は滅びる」と言いますが、これは「地獄に行く」という意味ではありません。将来に希望やビジョンがないと、主に従って励んで律法を守る生活をするのが難しいという意味です。
エジプトを脱出したイスラエルの民も、乳と蜜の流れる地への希望があったからこそ、荒野での苦しい旅を忍び、異教徒のような偶像や不品行に流される刹那的な生き方からも守られて、主の教えに励んで従っていくことができたのです。
クリスチャンには、天国の希望があります。けれども同時に、この地上の旅路においても、主のご計画があるのです。それなのに、その希望がないかのように無為に生きることがあってはなりません。
地上での私たちの歩みは、天国に入る前の待合室ではありません。主は一人ひとりに、またそれぞれの教会に期待し、具体的な幻を用意しておられます。
No.79 ビジョンを掲げて
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ・・・・・・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
エレミヤ 29・11
七十年のバビロン捕囚の後、ユダヤ人は必ず解放される---この冒頭のみことばは神からの希望のメッセージでした。
私たちの教会でも、ビジョンが示され、信仰によって文章化して公に掲げました。主は不思議な方法でアメリカ人宣教師を遣わされ、彼は尊い犠牲を払って福音の種を蒔いてくれた。主はこのような田舎の教会にも期待しておられる。ならば、南北八十キロに渡るこの地に福音を満たし、やがて海外にも宣教師を送り出して、その恵みにこたえようではないか、と。
現在その幻に従って、広域伝道をさらに推し進めようと願い、祈っています。また、まもなく宣教師もアジアに派遣されて行く予定です。
主が期待しておられると知り、ビジョンを掲げて前進することは、なんという恵みでしょう!
No.80 新しい節目
あなたはすぐれた指揮のもとに戦いを交え、多くの助言者によって勝利を得る。
箴言 24・6
止まっている自転車を動かすのは大変です。けれども、一度勢いがついて動き出した自転車をさらに加速させ、軌道修正するのは、案外楽なものです。
教会も、スタートの時は理屈よりも、まず押し出して何とか教会の形を整え、流れを作るほかありません。
しかし、もし動きが見え始めてきたならば、いつまでも成り行きに任せるのでなく、明確なひとつの方向に全体を引っ張ってまとめていく作業が必要となってきます。
すなわち、その場その場で対応していく教会のあり方から、今度は教会自らが主導権を握り、主の示されるビジョンを高く掲げる。そして、そこに向かって段取りを組んで、一丸となって祈りを積みつつ前進していく。このような新しい節目を迎えるのではないでしょうか。新しい節目を迎えたなら、無我夢中で受け身の教会形成から、ビジョンを掲げて加速、前進する教会形成へと脱皮していきたいものです。