心のビタミンバックナンバー

61〜70


No.61 神のゴーサイン


 殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう。
          I サムエル26・9


 サウル王から逃げまどっていた、ダビデの長くつらい日々。しかしこの期間、きっと天の父はダビデがひたすらに神の時を信じて待ち、自らの身をゆだねるのを見つめておられたのだと思います。
 ダビデにとっての闘い・・・・・それはもちろん、命の危険という外的なものもあったでしょうが、同じくらい大きな闘いは、内的な、彼自身の心の中に起こっていたものだったと思われます。
 何度も、狂気のようなサウル王に手をかけて殺すチャンスが巡ってきました。そのつど、家来たちは「今こそ討ちましょう」 とアドバイスします。けれども、ひとりダビデだけは、他の声を静め、自らの内なる誘惑の声に打ち勝つ闘いを経験していたのです。
 それゆえに、神のゴーサインが出て、サウル王が退けられ、ダビデが王位に就いた後の祝福は大きかったのではないでしょうか。すべてのことに、神の時があるのです。



No.62 備えをせよ


 ダビデとその部下はケイラに行き、ペリシテ人と戦い、彼らの家畜を連れ去り、ペリシテ人を打って大損害を与えた。こうしてダビデはケイラの住民を救った。
                                           I サムエル23・5


 何年もサウル王の前を逃れていたダビデは、無為な空白の期間を過ごしたように見えるかもしれません。
 けれども、彼は、ただ逃げ隠れしていたわけではありません。逃れた先でその土地の住民を助け、そこかしこで人々の信頼を勝ち得ていました。知ってか知らずか、将来に備え、いつ神のお約束どおり王の地位に就けられてもいいように地道な努力を積み上げていたのです。
 ここが、大切なところです。事実、後に突如サウル王が退けられ、ダビデが王位に就いた時も、国民の間に違和感はなく、すでに多くの人々からの評判を得ていたからです。
 転んでもただでは起きない。クリスチャンは死んでも一粒の麦となって証しをするといわれますが、神を信じる者の生涯は、後退しているようでも前進し、つぶされるように見えても実を結ぶのです。



No.63 一歩退いて


 ナバルはダビデの家来たちに答えて言った。「ダビデとは、いったい何者だ」。
                                            I サムエル25・10


 以前イスラエル旅行をした際、聖書に記されている、頑迷で行状の悪いカレブ人ナバルの住んでいたと思われる土地を訪れました。
 彼はどうやら、自分が肥沃な土地で安隠とした生活を送っていたので、自分のしもべたちが荒野の厳しい最前線でどんなにダビデたち一行に救われ助けられる経験をしていたのかを、少しもわかっていなかったように思われます。
 恐るべきは、裸の王様。心の目が開かれず、自らの狭い了見がすなわち世界だと思い込んで生きることの愚かさを、当時の事件の結末は教えてくれます。
 ダビデに感謝する心もなく、助けられたら助け返すことも知らないナバルは、ついに神に打たれます。自らをすべてとする生き方の延長線上に待つ神の裁きを、度肝をぬくような形で、この事件は物語っているのです。まず人生の中心に神を認め、一歩退いてすべてを眺める、信仰者としてのゆとりをもちたいものです。



No.64 訓練の時


 私の神。どうか、このことのために私を覚えていてください。
              ネヘミヤ 13・14


 ネヘミヤは五十二日間という驚くべき速さで、エルサレムの城壁の再建を果たしました。しかし、彼には内と外に人知れぬ闘いがあったようです。
 十五年前の四月、私は今の教会に就任しましたが、その翌月に臨時総会が開かれ、会堂建設の決議がなされました。初めての土地で、まだ牧会もままならない時でした。会堂建設といっても、どのような段取りで進め、だれに相談すればよいのか、資金はどうやって集めるのか、皆目見当がつきません。ただ、「来年建てる」ことだけが決議されたのです。
 会堂建設は、教会に独特の緊張を生みます。確かに逼迫した状況下での献金は、真剣な信仰の表れです。が、それが原因で心のゆとりをなくし、難しい問題を引き起こすこともあるのです。
 しかし、このことも私にとってはよい訓練の機会となりました。息が詰まるような緊迫した状況の連続は、すなわち忍耐しながら主を仰ぎ見るチャンスだったのです。



No.65 祈りに打ち込め


 すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
             エペソ 6・18


 週に一回、たいていは土曜日に、教会員のために名前を挙げて必ず祈るようにしています。以前ある牧師から,水曜日には一切のことを離れて、教会員一人ひとりのためにとりなしの祈りをささげると聞いたのがきっかけです。
 これは何も珍しいことではなく、どこの牧師もしておられることだと思います。けれども、私にとってはなかなかの闘いだったのです。休まずにこれを続けていくことが・・・・・。
 牧師として当然のことを継続するのに、意識して自らの身を祈りの生活に押し出していく必要をいつも感じさせられました。
 放っておけば自然と祈り、暇さえあればとりなしの祈りを始める、というのであれば、どんなにかよいでしょう。けれども、少なくとも私に関するかぎり、放っておくと祈らなくなる自分の顔を神に向け、意図的に時間を割き、場所を聖別して、とりなしの祈りに打ち込むように仕向けていく必要を感じています。



No.66 祈りのくさび


    絶えず祈りなさい。
            I テサロニケ 5・17


 車を運転する前に、声を出して祈ること、これは私たちの教会では多くの教会員が実行しています。時々忘れたり、面倒になって省略しようとすると、後ろの座席の子どもたちに「お父さん、お祈り」 と諭されたりするから大変です。
 韓国のクリスチャンの多くは、決まって礼拝堂に入ると、ぺちゃくちゃおしゃべりをせずに、まずひとり静まって席に着き、ひとときの祈りをささげると聞きました。
 型やスタイルの問題ではない、と片付けることもできます。しかし、同時に型やスタイルも、大切な要素だとはいえないでしょうか。礼拝堂に入るとまず、隣人とおしゃべりを始めるのと、静まって神の前に出て祈ることから始めるのとでは、ずいぶん違うはずです。
 私たちは、強いて祈りに身を押し出さなければ、生活の中からどんどん祈りを省略してしまう自分の弱さを知っています。祈りの型をも大切にし、生活の中にさらに祈りのくさびを打ち込んでいきたいものです。



No.67 熱心な祈り


 もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
      マタイ 18・19


 私たちの教会の第二会堂が、集団赤痢で亡くなった小学生の女の子の信仰から発して出来上がったことを、先に記しました。
 後に、その信仰を引き継いだお姉さんは、妹がかつて通った教会堂が新築されて再び主の栄光が現れるようにと祈りました。それこそ昼も夜も、天に召されるまで熱心に祈ったのです。
 特に印象深いのは、古い第二会堂でもうひとりの婦人とともに、心を合わせて早天の祈りをささげ続けたことです。やがて、お姉さんが召されてから、会堂新築のために多額の献金がささげられました。それは、召されるその瞬間まで続けられた真摯な祈りに感動しての献金でした。祈りが天に通じたのです。
 心を一つにした熱心な祈りは、人の心を突き動かし、天の窓が開かれるのだということを教えられます。



No.68 第一の使命


 私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。
       I テモテ4・13


 神学校で「祈りとみことばによって牧会しなさい」 と教わりました。卒業し、牧会者として何の信念ももたない私は、このことのほかに頼るべきものを知らず、単純な理念ひとつを握りしめて福島の地へ赴任して来ました。
 会堂建設や人間関係の調整、組織作りなど、なすべきことはさまざまありましたが、基本的には祈りとみことばの説き明かしのために自分は来たのだと念じていました。
 当初の五年ぐらいは、日曜日の礼拝メッセージの準備に二十時間を確保することはなかなかできることではありません。また、時間をかけたからといって、よいメッセージになるわけでもないこともわかってきました。
 しかし、それにもかかわらずに、私にとって自分の第一の使命はどこにあるのかを明確に自覚するという意味で、ひとつ覚えの理念は有益だったのです。



No.69 熟練した者に


 あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。
        II テモテ2・15


 振り返ってみると、牧師となった当初の私には、説教は型通りの準備をして、調べたことを全部語り尽くさないと損をする、という意識があったように思います。その時期も必要だったろうと思いますが、そこをベースに「熟練」を目指して努めるという点に欠けていました。
 五年を過ぎた頃から、原稿に頼らずに準備したものを暗記し、構成を組み替えたりするようになりました。さらに、語りっぱなしではなく、実際に聖霊に導かれて語った説教を後から書き留めて、説教ノートに付加しておくようにも導かれました。
 いまだに、「こんなメッセージしかできなくて信徒に申し訳ない」と叫びたくなったり、恥じ入って消えてしまいたいと思うことが多いのですが、主のあわれみと教会員の祈りによって、熟練を目指すように励まされ押し出されています。



No. 70 一歩二歩前進


 それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。
           ピリピ 3・16


 私は、日曜日の説教と週報に掲載しているメッセージの原稿をストックするようにしています。
 牧会者となって最初の頃は、説教準備に追われ、原稿書きに四苦八苦して、いつも十分でないという思いの残る奉仕をしていました。その悔しさから私は、スケジュールに追われる生活から、スケジュールを追いかける生活へと切り替えたいと願ったのです。
 説教のストックも善し悪しだと思いますが、少なくとも私の場合、週末に向けて秒読みで追い立てられるような余裕のなさからは解放されました。
 同じ作業をして、同じ時間をかけるのでも、目前のものに比べて、少々先の準備をする場合には心に余裕が生じるものです。ですから、準備した説教を見直すゆとりもできてきました。
 ともかく、現在達しているところから、一歩でも二歩でも前進していきたいものです。