心のビタミンバックナンバー
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No.41柔軟さ
私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
I コリント9.19
以前、アメリカのある教会に出席した時、二種類の礼拝が用意されていることを知って考えさせられました。一つはパイプオルガンに聖歌隊、牧師はガウンを着て説教を語るというオーソドックスな礼拝。もう一つは、Тシャツやショートパンツ姿の多くの若者が集い、ギターの伴奏で賛美する礼拝。
原理原則は大切ですが、教会の側でのちょっとした工夫が、多くの人や世代に福音を届ける結果をもたらすならば、その努力を惜しんではならないと教えられたのです。
そこで前に記しましたように、私たちの教会学校では一ヵ所に大勢集める昔ながらの考え方をやめ、毎週七ヵ所で教会学校を開き、より多くの場所で広い範囲の子どもたちに届くようなあり方に変えました。
正面から体当たりしてだめでもあきらめないで、こちらの態勢を変えてみて、斜めからトライしてみませんか
No.42伝道のスピリット
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。
II テモテ4.2
アメリカのある教会を訪問した際、日本の牧師が来るということで、着いてみたら、その町の日本人を招待しての伝道夕食会がセッティングされていました。
私は考えさせられました。もし私たちの教会だったら、タイからクリスチャンたちがやって来るといって、果たして事前に自分たちの町に住むタイの人々を調べ、お誘いし、彼らに福音を伝えるべく努力をするだろうかと。
うっかりすると、初めから自分たちの町に住む外国人に伝道する使命があることにも気づかないで、このような機会をとらえて福音を伝えようという発想すら思い浮かばないのが現状のようです。
先のアメリカの教会では、その町に住む外国人に福音を伝えるための専任の働き人や、遠方にある大学にも大学生伝道専門のスタッフを派遣しているということで、頭が下がる思いでした。私たち自身の心の壁をまず打ち破っていただきましょう。
No.43世界宣教の幻
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
マタイ 28.19
私たちの教会は、五十年ほど前に当時二十五歳のアメリカ人宣教師によって始められました。その母体となった教会は、ミネソタ州ミネアポリスから車で何時間も走り、「大草原の小さな家」 の舞台となった場所に近いロングプレーリーという町にあります。フィルム一本買うにも、いつも店に置いてあるとはかぎらないというほどの田舎町です。
しかし、その教会を訪れた時、前日に日本宣教のために祈り献金を募る集会をもったばかりだとかで、ホールには日の丸や日本をアピールする品々が飾られていました。礼拝堂正面には、「まだ福音が届いていない国がある。主よ、私を遣わしてください」 と世界宣教をアピールする幕が張られていました。
田舎の教会だから世界宣教などできない、小さな教会だからその力がないと言わないようにしましょう。「主よ、私を遣わしてください」 と立ち上がりたいものです。
No.44迫害の中でも
わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
マタイ 5.11
以前マニラで、二十年以上も中国で投獄されていたという牧師に会いました。食事を共にしながら、中国の教会の様子をうかがい、後には私たちの教会の礼拝で感銘深いメッセージをしていただきました。
信仰ゆえに髪の毛を剃られても、福音を恥とせずに堂々と歩むようになったという娘さんの証し。拷問にあっても、苦しみの中で十字架を思い祈ると、不思議に痛みを感じなくなったという婦人の証し。
そして牧師自身は、祈っても助け出されない獄中生活で、さすがに不信仰の心が起こったことを正直に告白されました。しかし、病弱な一人の兄弟が母親から送られてきた貴重な粉ミルクを、「牧師先生に・・・・・」 と言って彼の口に押し込んできた時、彼はキリストの愛に圧倒され、二度と神に不平を言わなくなったということです。
迫害の中で見事に咲く信仰の花もあるのです。
No.45 赦しの実践
主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。
マタイ 18.21
九十年一月、十七名の教会員で韓国のビリー・キム師の教会を訪問し、ホームステイさせていただきました。
滞在を終え、帰国の途に着くために空港に向かうタクシーの中で、私たちを迎える責任をもたれていた副牧師が語りだしました。
「私の父は戦争中、突然日本に取られていなくなった。父親のいない母子家庭は貧しさのどん底で、自分は子どもながらに、大人になったら必ず、父を苦しめ家族を不幸にした日本に行って敵を討つのだと念じながら生きてきた。ところがその後クリスチャンになり、キリストの十字架の赦しを知って、証しとして七を七十倍するまで赦す愛の実践をしたいと、今回自ら日本人の来訪歓迎の責任をもった」
彼は心の中で、自らの過去や生い立ちや憎しみと戦いながら、そのすべてをのみ込んで、私たちを歓待してくれたのです。十字架の赦しの実践は重いのです。
No.46泥水の中でも
患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す。
ローマ 5・3,4
家の近くにアヤメ園ができました。紫や黄色などの美しい花が咲きそろいますが、近くに寄ってみると汚い泥水の中に咲いています。星野富広さんの詩ではありませんが、よくぞ泥水を吸ってこんな美しい花を咲かせるものだと思います。
トルストイの『靴屋のマルチン』 は、おじいさんが奥さんを亡くし、さらに一人息子も病気で失い、生きる力をなくしているところから始まります。ところが、聖書を読むように示されて読み始めると、不思議な生きる力が内から湧き上がってくるのを体験するようになるのです。
聖書の語る希望は、災いや困難から守られた無菌状態での希望ではありません。かえって、試練の中でどうして立っていられるのだろうと思うような、天来の力に満ちた希望なのです。泥水の中に身を置いてなおキリスト者は、いぶし銀のような信仰からくる希望の花を咲かせることができるのです。
No.47 喜びと悲しみ
患難さえも喜んでいます。ローマ 5・3
なぜに主が、わざわざ患難の中を通らされるのかはわかりません。けれども主のご計画の中には、喜びや悲しみが見事に織りなされていることを私たちは知っています。
私たちの教会に、未熟児で生まれた子どもを持つ若い夫婦がいます。ぜん息や発熱などで病院通いが絶えず、大変です。けれども、どうでしょう。普通の子以上に心配をし、手をかけて育て上げたあとの喜びや感激というのは、順調に育った子以上に大きいものがあるのではないでしょうか。
人間が生活する上で縁は必要です。しかし、田舎に住んでいると縁のありがたみがわからず、コンクリートジャングルに住んで初めて、自然の縁にホッとし、その価値に気がつくものです。
苦難があり悲しみがあって、喜びが映えます。主のご計画は完璧です。私たちは笑ったり泣いたりしながら、感動のある生涯を迎えることができるのだと思います。
No.48 喜びと悲しみ失って後見いだす
片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
マルコ 9・45
私たちの教会で信仰生活の長い、ある一人の教会員は、小さいころ、高熱のため体が不自由になり、その後ずっと車いすの生活をしておられます。
若い時は人生をのろい、母をのろったそうです。しかし信仰をもった今は、病に出会わなかったら自分は神を信じることができなかったろう、と言われます。
確かに、五体満足で何不自由ない人生であっても、神を見いだす動機も関心も生まれぬままその生涯が果てていったとしたら、決して幸せとはいえないでしょう。
イエス・キリストが教えられたように、片足を失ったとしても、それで心の目が開かれて神に向き、ついには永遠のいのちの希望を見いだすならば、それに勝る幸いはないのです。
失って初めて得るもの、失ってみなければ見いだせない世界があるのです。
No.49 一粒の麦
一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
ヨハネ 12・24
四十数年も昔、小学校三年生で集団赤痢のため天に召された仁子ちゃんという女の子がいました。
教会学校に熱心に通っていた子でした。家に帰ると、「お父さんお母さん、お兄ちゃんもお姉ちゃんも、小鳥さんもねずみさんもみんな集まれ」 と言っては、「イエスさまはね・・・・・」 と、教会学校で聞いてきたことを一生懸命話す子どもだったということです。
その子が亡くなって何十年か経って、かつては、「また仁子の話が始まった」 とばかにしていたお姉さんが救われました。彼女も数年前天に召され、私たちの教会で葬儀をしたのですが、その信仰は幼子のように純粋でした。さらにそのご主人も導かれて洗礼を受け、天に召されていきました。
思えば、あの小学校三年生の仁子ちゃんのうちに宿った信仰が、長い歳月を経た後に実を結んだのだと思います。
No.50 死んでも生きる
彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
ヘブル 11・4
先にお話しした仁子ちゃんのお姉さんのお墓は、第二会堂のそばにあります。自ら死期を察し、召される前に、詩篇二三篇のみことばを刻んだ十字架の墓石を注文し、その一年後に天に旅立ったのでした。
彼女がそのように自らの死の備えをする姿に打たれて、教会の門をたたいた方もありました。あんなにも率直に自分の死を見つめられる行き方があるのかと。
その彼女は、かつて妹の仁子ちゃんに信仰が宿った第二会堂が新築されることを、亡くなるまでずっと祈っていました。
彼女の死後、一人の婦人が彼女の祈りに突き動かされて多額のお金をささげ、さらに教会員全員もそれに動かされるようにして、とうとう新第二会堂が建ったのです。
新しくなったその会堂に足を踏み入れるたびに、冒頭のみことばを思い出し、死んでも語り、死んでも生きる信仰の力を知らされます。