心のビタミンバックナンバー

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No.31 自分のルーツ


 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか」。
                           ルカ15・17


 中国の残留孤児は毎年毎年どうしてあんなにもたくさん、肉親捜しにやって来るのでしょう。高額のお金を借りて資金をつくり、来日したとしても、大半は手がかりも得られないというのに・・・・・。
 現在すでに生活の基盤があり、中国に家族があったとしても、自分のルーツがわからず、自分がだれから生まれ、どこから来たのかが説明がつかないのでは、今をどのように生きて、将来どこに向かって歩めばよいかわからないのではないでしょうか。ルーツの解明は、現在と未来の生き方につながるのです。
 放蕩息子は我に返りました。私たちも父なる神の御前に立ち、自分がどこから来たのか、自分のいのちは何のために与えられたのかを確かめる必要があります。神の御前に立つ時に、私たちは自分のルーツを知り、必ずや現在と未来の生き方に変革をもたらすことになるのです。

No.32 死の備え


 こうしてついに、銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉のかたわらで砕かれ、滑車が井戸のそばでこわされる。
 伝道者12.6


 突然やってくる人間の死を描写した箇所です。今までどんなにみずみずしく、生き生きしていた命も、死んだらそれまでで、二度と修復はできません。
 末期がんの患者のケアに携わっておられるクリスチャンの柏木哲夫先生は、「生の延長線上に死があるのではなくて、私たちは日々死を背負って生きている」 ( 『生と死を支える』 朝日新聞社 ) と述べています。
 確かに、人生八十年の時代とはいっても、個人的にはだれも八十年の寿命を保証されているわけではありません。ある日突然、死が宣告されたとしても、揺るがない人生観が私たちには必要です。生と死は裏表。生きているということは、死に刻々近づいている証しでもあるのです。
 生と死の一線を超えた人生観をいただいて、死の備えある地上の生涯を、信仰のうちに全うしたいものです。

No.33 いのちの息


 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。
     創世2.7


 以前、筑波大学で肺がんの研究をしておられるクリスチャン医師の木村雄二先生が、赤ちゃんの出産の不思議について次のように記していました。
 赤ちゃんが胎内から出た瞬間に「オギャー」と泣くのは実に不思議である。それが少しでも早ければ、体内で羊水を吸って死んでしまい、遅くてもまた酸素欠乏で死んでしまう。しかし、早くも遅くもなく、絶妙のタイミングで「オギャー」と泣く。実は、その前に肺に息を吹き込まれるので、胎外に出た瞬間に息を吸い込み、そして吐き出す結果、「オギャー」と言うのである。
 では、いったいだれが赤ちゃんの肺にいのちの息を吹き込むのでしょう。手足が四本あれば自動的に人間なのではありません。土から造られた肉体に、神がさながら口移しの人工呼吸のようにいのちの息を吹き込まれるので、人は人となるのです。古来、聖書が教えるとおりです。


No.34 御国をめざして

 ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る
     伝道者12.7


 神学生のとき出席していた教会で、牧師が、お父さんを亡くした小さな子どもに、「死」 についてお話をしているのを聞きました。子どもなので難しいことはわかりません。けれども、「蝶がさなぎからかえるように、イエスさまを信じるお父さんも、病気の体を地上に置いて、天の御国に向かって飛び立ったのだよ」 との説明にうなずいている様子でした。
 子どもだましではありません。私たちの魂はイエスさまを信じ十字架の血潮によって罪赦されるならば、天の御国に帰るのです。
 事実、人間の体は半分以上が水で、あとは炭素やカルシウムなど、土地のちりと同じ成分でできているそうです。土から造られた肉体は土に帰ります。そして神がお与えくださった私たちの魂は、なきがらを地上に残して神のみもとに帰るのです。
 罪だらけの魂がそのままでは聖い神の前に立てません。イエスさまを信じ罪の赦しをいただいて、天の御国を目指しましょう。


No.35 罪からの救い

 人の心は何よりも陰険で、それは直らない。
     エレミヤ17.9


 時々、私たちの教会学校で、子どもたちに向かってこんな質問をします。「天国に行きたい人!」。全員が手を挙げます。「一回もうそをついたことがない人!」。しばらく考えて、だれも手を挙げません。
 子どもは正直です。「うそつきの心のままで、きれいな一点の汚れもない天国に行けると思う人!」。だれひとり手を挙げません。
 その後、「だからイエスさまを信じて罪を赦していただいて、そのうえで天国へ行きたい」と子どもたちは素直に答えて、祈ります。
 どんなにわが子がかわいくても、泥だらけの服のままの子を抱く親はいません。私たち人間は、少しでも自分を顧みるなら、ねたんだり憎んだり淫乱であったりと、とてもそのままでは聖い神の前に立てないことに気づくはずです。そのために十字架で死んでくださったイエス・キリストを信じ受け入れる以外、他にどんな救いもないのです。


No.36 二つのいのち


 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
                ローマ6.23


 私たちの教会に、農業を営んでおられる方がいます。その方は種を蒔く前に、すべてを蒔かずに、まず水の中にしばらく入れ、浮くか沈むかでいのちの有無を確かめて、いのちのある種だけを蒔くと言われます。
 いのちがあるかないか、見た目ではわかりません。イエス・キリストを信じて永遠のいのちをもっている人も、まだそこに至っていない人も、見た目にはわかりません。
 国木田独歩は若い頃、明治期のキリスト教会の有名な指導者であった植村正久牧師から洗礼を受けました。しかしその後信仰から離れ、死の床で植村牧師から「国木田君、祈れ」 と勧められても、「祈れません」 と答えたということです。
 同じ小説家でも、正宗白鳥は若い頃洗礼を受け一度信仰から離れたようですが、晩年、夫人の熱い祈りもあり、再び悔い改めたと聞きます。
 ちょっとした差ですが、第二のいのちの別れ道があったのでしょうか。

No.37このお方のために


 神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。
              黙示録21.3,4


 私の尊敬しているクリスチャンが交通事故で召されました。医者の処置が悪かったことも、大事に至らせてしまったようです。
 しかし、その後出版されたその方の遺稿集を読んで驚きました。奥様が、「私は主人を轢いた人を恨まない。医者をも恨まない」 と書かれていたからでした。「主人は死にのまれたのではない。生涯信じて待ち焦がれてきた父なる神の御もとに帰ったのだ」 というのです。大切なご主人を取られて、やる方なき憤懣を加害者や医者にぶつけたとしてもおかしくなかったでしょう。
 遺稿集の表紙には、亡くなったご主人の筆跡で、「このお方のために生きればいい」 とありました。「このお方のために生きればいい」 を遺言に、別離の悲しみを乗り越える夫婦の絆。生きても死んでも変わらずにひとりのお方を仰いで生きる、さわやかな信仰があるのです。



No.38 良い知らせを伝える


 良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。
             ローマ10.15


 91年の夏、私たちの教会で初めてELI英会話伝道に挑戦しました。アメリカから6週間の予定で来日したトムさんは、日本に着いてすぐ盲腸炎になり手術をしましたが、1週間後には退院し、3時間半特急電車に揺られて私たちの教会にやって来ました。
 このために長い間祈り、お金を貯めてやって来た彼。「盲腸なんかで断念しない。必ず教会へ行く」 と心に誓ったそうです。
 聞けば、神学生の彼は将来宣教師として日本に来ることを決めているとか。彼の属する教団では、「日本伝道はお金がかかるし、なかなか日本人の間に福音が根差さないので、もう宣教師を送らない」 との方針だそうですが、それでも彼は、他の方法で必ず日本にやって来たいと言いました。
 はかばかしい結果が出なくても、良い知らせを伝えにやって来る人々。その人たちを動かしている、背後におられる神の愛に、私たちは何とかこたえたいと思います。

No.39 大事なものをささげて


 天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
            マタイ13.44


 ELI英会話伝道のため日本に来ていた二十三歳の青年に会いました。
 聞いてみると、立派な大学を出て資格を取り、IBMにコンピューター技師としての就職が決まっていたのに、それを蹴ってやって来たというのです。一度就職すると、夏に一ヶ月以上も休暇がとれないということで。結局彼は、その後日本のコンピューター会社に就職しましたが、給料は半分になりました。
 アメリカでは友人たちから、「たった二ヶ月の伝道の計画のために、一生の就職を棒に振るなんて、頭がおかしいんじゃないか」 と言われたそうです。けれども彼は、「魂の救いのために働けたのだから後悔はない」 と感想を述べていました。
 大事なものに対して、自分の大事なものをささげる。この世から見たら非常識であっても、信仰の世界では当然のことなのです。


No.40 感動とスピリット


 感動した者と、心から進んでする者とはみな、会見の天幕の仕事のため、また、そのすべての仕事のため、また、聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。
            出エジプト35.21


 ELIスクラム伝道で初めて来日し、山形県の田舎の教会で英語を教えていたアメリカ人が、こんな感想をもらしていました。
 「私の出席している教会は素晴らしい。三十人の礼拝なのに、まるで百人で礼拝を行っているような雰囲気だ」
 その教会に流れている賛美や祈り、主に仕える姿勢のスピリットを指しているのでしょう。
 実際には三十名であっても、生き生きとした感動をもって、百人で礼拝をささげているかのようなスピリットが流れる教会。
 「この霊的な刺激を受けただけでも、はるばるアメリカから来て、日本の教会を体験したかいがあった」 と彼が心躍らせて語るのも、理解できるというものです。主にお仕えする感動とスピリットを大切にしたいと思います。