心のビタミンバックナンバー

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No.21 十字架の愛

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。                          ヨハネ 3.16

 「キリスト教のいろいろなことはわからないけれど、十字架が本物であることだけはわかる」。以前、そう言って、おもむろに古い写真を取り出して見せてくれた方がおりました。まだ20代に見える、若くて美しい女性の写真でした。聞けば、写真の女性はその方のお母さんで、自分を産むと死んでしまったというのです。
 医者から出産に伴う危険を聞かされてなお、産む決意をし、結局、自らの命を投げ出して新しい命を誕生させた母親。そのような愛にはうそがないと、その方は言われました。「死んで自分を生かしてくれ」と願ったわけではありません。母親の声もぬくもりも知りません。けれども、世界中でだれよりも母が自分を愛してくれたことは、その死が証明しているのだと。
 イエス・キリストは私たちのためにいのちを捨てました。ぬくもりも声も知らなくとも、私たちへの愛は、その死が物語っているのです。

No.22 奉教人の死


彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く子羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。                                             イザヤ 53.7


 芥川龍之介は晩年、『奉教人の死』 という小説を書きました。
 修道院で世話を受けていた美少年が、娘に子を宿したというかどで追い出される。しばらくしたある日、大火事が起き、先の若い母親は気が狂わんばかりに火中にいる赤子の助けを求めるが、野次馬たちはだれも応じようとしなかった。
 するとどこからか、あの美少年が火の中に飛び込んで行き、火だるまとなりながら赤子を助け出した。
 しかし彼は死んでしまった。焼けただれた服の間から、女の胸が現れた。彼は女だったのだ。初めから、娘に子を宿したことなど身に覚えがなかったが、「彼」 は修道院で、一切の弁明抜きで黙っていのちを捨てた救い主キリストの話を知り、自分もその教えに従ったのだった。
 「奉教人の死」 −−− キリストの教えに奉じていのちを捨てた人の死です。

No. 23 人生が変わる

イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった。」 と言った。
                             マルコ 15.39

 スウェーデンの作家ラーゲルクヴィストは、『バラバ』 という小説を書いて、ノーベル賞をとりました。バラバについては、イエスに代わって恩赦を受け釈放された囚人であったことが聖書に記されています。
 小説はその後のバラバの様子を描いています。彼は人が変わったようになりました。
 「クリスチャンたちは、キリストが全人類のために死んだと言っているが、それは違う。彼はおれのために死んだのだ。事実彼が死んだことにより命拾いしたのは、このおれなのだ」
 そして、それまで人を踏み台にして快楽を手にすることが人生だと思ってきた彼が、一番大事だったはずの自分の命をキリストのために投げ出して死んでいくのです。
 キリストの十字架の死に出会う時、「すべては自分のため」 から、「すべてはキリストのため」 に変えられるのです。

No.24 弱い者の証しをも

  なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。     
                             IIコリント 12.10

 私たちの教会に、元軍人のお年寄りがおられます。以前は大変頑固だったようですが、すでに亡くなられた夫人に導かれてクリスチャンになりました。夫人はもともと体の弱い方で、心臓病で亡くなったそうです。
 ご主人のアルコール依存症がひどかった頃、彼女がなけなしのお金をはたいて夫に一枚のワイシャツを買って来たところ、彼は烈火のごとく怒りました。「こんな金どこにあった。金があるのなら酒を買って来い!」 と怒鳴ると、せっかくのワイシャツを目の前でビリビリ破ったというのです。すると、夫人は破れたワイシャツを黙って拾い集め、ひとこと、「ごめんなさい」 と言ったそうです。その時、「おれの負けだ。体の弱い妻がどうしてこうも強いのか」 と、ご主人は思い知ったのです。
 そんな夫人の証しの積み重ねが、ご主人の心を突き動かし、やがて洗礼にまで導きました。私たちは弱くても、私たちのうちにおられる方は強いのです。

No.25 壁は崩れる

 主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。
                          使徒 16.31


 先にお話しした元軍人の頑固なご主人は、心臓病を抱えた奥さんに導かれクリスチャンになったわけですが、事の次第はこうだったそうです。
 ある日、奥さんがご主人にきっと叱られるだろうと思いながら、「お父さん、私、洗礼を受けていいでしょうか」 と恐る恐る聞きました。ところが、雷が落ちると覚悟していた奥さんが聞いたのは、「おれも教会に行って洗礼を受ける」 という夫のことばでした。そして実際、ご主人は教会や聖書のことは何一つわからぬまま、奥さんと一緒に洗礼を受けたというのです。
 偉大な伝道者によっても、その家庭に福音が根ざすことは難しかったでしょう。しかし、一人のか弱い女性がまず内にしっかり信仰を握りしめ、家族の中で息長く一つ一つ小さな証しを積み上げていった時、壁は崩れたのです。まず自分がしっかりと信仰をもち、そこに生きることです。やがて福音は浸透するのです。

No.26 クリスチャンホーム

 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。
                  エペソ6.4


 ある牧師の息子さんが、子どもの頃を振り返ってこう話していました。
 「(日曜日の礼拝で) 運動会の昼食は、いつもひとりぼっちだった。両親が教会を休んで運動会に来るべきだ、などと思ったことはないけれど、子ども心を察してほしかった・・・・・」
 ややもすると、あれもダメ、これもダメで、暗くて重苦しいクリスチャンホームになりがちです。「クリスチャンホームに生まれて本当によかった」 と子どもに思わせるような喜びを大切にしたいと思います。日曜日の運動会が無理だったら、別に日に時間をとり、家族一緒に楽しい時を過ごしたらどうでしょう。必ず、「 お父さんお母さんは、僕のことを大切にしてくれている」 と感じるはずです。
 ゴルフのつきあいや仕事を口実に家族を二の次にする家庭とは、ひと味違ったクリスチャンホームの良さを、子どもたちに実感させてあげたいものです。

No.27 子育ての物差し


 かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。
                 エペソ 6.4


 長女が、「今日は校内マラソン大会だから行きたくない」と言ったことがあります。どうやら走ることが苦手らしく、練習ではクラスでビリだったようなのです。そこで、こう助言しました。「ビリの前になれ」。
 ビリの前にならなれるかもしれないと思ったのでしょう。気を取り直し学校に向かい、走った彼女は本当にビリの前になりました。ケーキを買って来て、夕食後、みんなでお祝いをしました。ビリの前のお祝い。彼女はよほどうれしかったらしく、後日そのことを作文に書き、クラスで読まれたということです。
 勉強でもスポーツでも、一番だけが素晴らしいのではありません。ビリの前も素晴らしいのです。均一均等の物差しで子どもを測り、下手をすると親の見栄のために、他の子どもと競争をさせて勝つことに躍起になりがちです。信仰の物差しをもって、主の教育と訓戒によって、神さまから預かっている大切な子どもを育てたいものです。

No.28 永遠への思い


 神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。
                 伝道者 3.11


 しばらく前、子どもの電話相談のラジオ番組で、小学6年の男の子が、「先生、僕は死んだらどうなるのでしょう。怖くて夜も眠れないのです」 と質問していました。すると一人の先生は、輪廻思想を説き、「牛や馬になって生まれ変わる」 と答え、他の一人は、「物理的には無になる」 と答えました。
 両方の答えに満足しない男の子に向かって最後は、「子どものうちから死ぬなどということを考えないで、スポーツしたり勉強したり遊んだり、もっとやることがあるでしょう」 とねじ伏せました。
 そうでしょうか。犬や猫ならいざ知らず、人間は衣食住が足るだけでは満足できないのです。なぜ自分は死ぬのか。だれが死を定めるのか。そして、死後はどうなるのか。永遠への限りない問いを足がかりに、永遠への思いを人の心に与えられた、永遠の神に到達したいものです。

No.29 人間の本能


 空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。

                 伝道者 1.2


 海がめは不思議です。母親が卵を産み落とし、海辺で割れて新しい命が誕生する頃には親がめはすでにいないのに、すべての子がめは、山のほうにではなく海に向かって一匹迷わず歩き始めるというのです。人の心には「永遠」 の二文字が刻まれています。ちょうど海がめの子に、だれが教えなくても自分たちは大海原で生きるのだということが、本能として刻まれているように。
 伝道者の書はあのソロモン王が書いたといわれます。彼はだれよりも偉大な人物となり、後世にまで名を残す名声、あり余るほどの財を手にしました。三千年前、世界中のすべての人々は、「ソロモン王のようになったら幸せに違いない」 とあこがれていました。しかし、彼の第一声は、もしも死んで終わりの人生であれば、どんな物を得たところで、すべては「空の空」だ、というものでした。人間には、永遠の神に結びついて初めて、満たされる心が与えられているのです。

No.30 地上がすべてか


 祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。
                          伝道者 7.2

 昔イタリアで一人の男の死が話題になりました。
 彼はかつて公営賭博で三億円を当て、「今、イタリアで最も幸福な人」 と一度はいわれた人物だったのです。ところがその後彼は、「一度当たったものが二度当たらぬはずがない」 とせっかく得た三億円に加え、それまでレンガ積み工員として蓄えたささやかな財産までも注ぎ込み、ついにはすべてを失ってしまいました。
 そしてある日ミラノ駅で、子どもに故郷に帰る指定席を買ってやる余裕もなく、止まり切らない列車に飛び乗り席を確保しようとして線路に落ち、列車の下敷きになって死んだのでした。
 彼にとって、大金を得たことが幸せだったのかどうか。それが彼の人生を狂わせ、一番大事なはずの命までも失ってしまったのです。
 地上のものがすべてという錯覚を捨て、究極の幸いを見いだしたいものです。