心のビタミンバックナンバー
171〜177
No.171 躍動感にあふれて
「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである」ということばは真実です。
I テモテ3・1
台湾の高雄市に行った時、ここ数年で急成長してきたという教会を訪問しました。
その教会の牧師は、長年の会社勤めを辞め、人生半ばにさしかかってから献身し、神学校に進んで牧師になりました。そのせいか、とにかく生き生きと労しておられるのです。
喜んで牧会し、その使命に全力投球している姿が清々しく伝わってきました。ああ、私が携わっている仕事はこんなにもやりがいに満ちた、栄えある務めだったのかと思いました。ややもするとクリスチャンの少ない日本では、小さくなって申し訳なさそうに生きてしまいがちです。
当日、説教の通訳をしてくださった他教会の人が、「この教会は、教派を越えて台湾全体の中でも注目されています」と言われました。生き生きと躍動に満ちてこの栄えある仕事に携わる時、主はどの国の教会をも祝福してくださるでしょう。
No.172 大きく羽ばたけ
すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。
ピリピ2:14
先にお話しした、台湾の教会を訪れた時のことです。日曜の夕方、アメリカ人宣教師の送別会が行われました。すると突然、宣教師が台湾の牧師の前でこう告白を始めたのです。「ここの牧師は、いつも大きなことばかり言っていて、実は私は心の中で反発していました。台湾のどの地域でも伝道は困難で、そんなに目覚ましく働きが進展するはずがないのに」。ところが、その教会は見る見るうちに成長し、人が増え、建物もせまくなり、二度三度と大きな会堂に移転したのでした。
彼はさらに、「アメリカ人宣教師の私が、台湾の牧師から教えられた」「初め、心の中で彼を見下していた私のほうこそ信仰が足りなかった」と涙ながらに告白しました。二人の抱き合う姿は感動的でした。
信仰の世界に、アメリカ人もアジア人もありません。私たちは、お互いに教えられ合いながら、信仰をもって大きく羽ばたいて行きたいと思います。
No.173 純粋に告白
それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々はわたしをだれだと言っていますか」。
マルコ8・27
この後イエスさまは、「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と問われ、ペテロの口から、「あなたは、キリストです」との告白を引き出します。
自然神を祭る偶像の町、国主ピリポや皇帝カイザルの名を戴く権力の象徴の町としても有名なピリポ・カイザリヤでのことです。わざわざ、人々の自分に対する評判を意識させた上で、主は真実なキリスト告白を弟子たちに求められたのでした。
「人が何と言ってもかまわぬ/どの本に何と書いたあってもかまわぬ/聖書にどう書いてあってさえもかまわぬ/自分はもっと上をつかもう/信仰以外から信仰を解くまい」
これは二十九歳で亡くなった八木重吉の詩です。明治から大正にかけて、純粋に信仰を貫いた八木重吉。
私たちも、どんな時も「あなたこそキリストです」と告白したいものです。
No. 174 自己を一切空しくして
ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。
I コリント1・22,23
『神を見いだした科学者たち』(いのちのことば社)の中に、長年、東京大学工学部長を務めてこられた菅野猛博士の「科学者としての証し」という文章が収められています。
博士は、「私の信仰的立場は極めて明瞭で、聖書はすべて神のことばであるという所に基礎を置いている。したがって聖書に書かれていることはすべてそのまま単純に信じるというのが私の基本的態度である」と記され、「だいたい、不完全な小さな人間の頭脳で全能の神のご計画を理解するのが不可能なことは当然のことで、神さまを知るには、自己を一切空しくして、信仰によって霊的に神を知る以外には手段がないのである」と述べておられます。
確かにだれでも、自己を一切空しくし、身を低くして神の御前に出る時に、初めて信仰は息づき、良い地に蒔かれた種のようにいのちの躍動を始めるのです。
No.175 理屈を超えて
知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。
I コリント1・20
ベツレヘムのイエスさまが誕生されたと言われる場所に、聖誕教会が建っています。強盗から守るためとも説明していますが、なぜか入り口は、背の低い日本人でさえ腰を曲げずには入れません。世界中どの国の人も、王様も子どもも入れるけれど、へりくだり、頭を低くしなければだめだとも言われます。
先に引用した八木重吉の詩に、こんな詩もあります。「何も言い訳する必要もない/議論する必要もない/ただ信じ/ただ信仰を述べたらいい」。彼の詩がいつまでも人々のたましいを打つのは、いよいよ純化され透き通っていく信仰のプロセスを見るからではないでしょうか。
彼の生涯は短くても、神のみもとへと一気に上り詰めていくかのようです。濁った川は奥深く見えますが、真にいのちを生かすのは、透き通って底が見える清流です。巧みな理屈の世界を脱却して、幼子のような心で信仰の世界を旅しましょう。
No.176 熱い視線
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
イザヤ43.4
日曜日の運動会に行けませんので、代わりに平日、わが家の末の息子が通う保育所に予行練習を見に、夫婦で出かけました。
道端に立って、フェンス越しにじっと息子の姿を追い続けていると、最初は気づかなかった五歳の彼が、自分一人にじっと注がれる特別な熱い視線をにわかに感じ始めたようです。気恥ずかしいのか、初めはわざと気づかないふりをしていましたが、そのうち、グラウンドを行進する彼の手と足が、ぎこちなく動き始めました。その緊張ぶりに、思わず吹き出してしまいました。
ところで私たちは、神さまの熱い視線をどれほど感じて生活しているでしょうか。
神さまは、私たちをその他大勢の一人としてではなく、特別な存在として注目しておられるのです。イエスさまを信じた私たちは、もうすでに世の光、地の塩として特別視され、いとおしまれているとはなんと幸いなことでしょう。
No.177 その場所で
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。
箴言3.6
口で筆を持ち、美しい草花を描き、心に染みる詩を綴られる星野富弘さん。彼は、中学の教師をしていた時の事故が原因で、手足の自由を失った生活をしておられますが、その中でこんな詩が心に残りました。「木は自分で/動きまわることができない/神様に与えられたその場所で/精一杯枝を張り/許された高さまで/一生懸命伸びようとしている/そんな木を/私は友達のように思っている」(『風の旅』立風書房)。
植木の本を眺めていたら、木にとっては人間の都合で無理に他の場所に植え替えられるのは、はなはだ迷惑なのだと書いてありました。木は、種が落ちて置かれた場所で、精一杯根を張って生きようとして、現在の形になったのだと。星野さんは自由に動けない体なので、種が落ちたその場所で精一杯生きようとする木の姿を、身近に感じられるのかもしれません。私たちも、なぜ自分はこんな人生なのだと言わず、置かれたその場所でまず主を認め、主のみわざを体験したいものです。
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