心のビタミンバックナンバー

141〜150


No.141 目標にジャンプ

 あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、務め励みなさい。
    II テモテ2・15

 神学校を卒業して間もない頃の私は、牧師として特に熟練した説教者になりたいと、ずいぶん背伸びをしたように思います。とりわけ年4回の伝道集会と聖書学校には、著名な先生方をお招きして、すばらしいメッセージを語っていただきました。
 そして、私にとってのメッセージの訓練の時は、いつもその翌週にやってきました。最高の説教を味わった教会員を前にして、その直後にいかにも見劣りする私のメッセージを語らなければならないのです。
 けれどもその格差からくるプレッシャーがバネとなって、少なくともスピリットと気迫だけはもつようにと、主に導かれてきたように思います。
 目標を目指してジャンプしてみましょう。たとえ届かなくても、少なくともスピリットだけは養われたいのです。何とかして、主がここまで来なさいとおっしゃるレベルまで前進したいのです。



No.142 足跡は重く

 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
     ヘブル4・15

 理屈っぽく頭から入る話は人を動かさないが、心にグッと迫る話は、人を突き動かすと言われます。聖書がいつの時代も世界中の人々の心に響くのは、きっとそれが理屈の世界ではなくて、血の通った人間味あふれる感動の世界だからでしょう。
 神が天から私たちを眺め下ろさず、ひとり子としてこの地上の世界に、私たちの傍らに、割って入るようにして来られたということは、なんという感動でしょうか。切れば血が流れる生身の体をもつ人として、この地上を歩まれたという事実そのものが、理屈を越えて感動なのです。
 そのイェスさまが発せられた一言一言が、頭にではなく、心に入って私たちを突き動かし、生き方を変えてしまうのは、考えてみれば当然といえましょう。神が救い主となってこの地上を歩まれた足跡は、ずっしりと重いのです。

No.143  とりなしの祈り

 私は祈っています。
      ピリピ1・9

 開拓二年目で六十名近い礼拝に達している教会のY牧師にお会いしました。「別に特別のことはしていない」とおっしゃる先生の中に、私は祝福の秘訣を見る思いがしました。その一つは、とりなしの祈りです。
 Y先生は一週間に三回、全教会員のために名前を挙げて祈っておられるのです。週に三回も、牧師に祈られる教会の信徒は幸せだと思いました。
 私も週に一度は教会員とその家族のために名前を挙げて祈りますが、それさえ、継続するにはさまざまな闘いをおぼえます。週に三回、つまりほぼ二日に一回の割合で教会員全員のためにとりなしの祈りをささげ続けるとは、なんと尊い働きでしょうか。
 かつて投獄中のパウロは、愛するピリピ教会員の一人ひとりの顔を思い浮かべながら、祈りを積み、その結果、「私は祈っています」と言い切ることができました。私たちも、とりなしの祈りにおいてパウロに負けないくらいの熱心さを保ちたいものです。



No.144 パウロの遺言

 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。
   II テモテ4・2

 先にお話ししたY牧師から、こんなことを聞きました。「神さまは、恵みのうちに毎週の礼拝に不思議なほど新しい人を送ってくださった。ところが、ある時、トラクト配布をやめた途端、新来会者が途絶えてしまった」。
 トラクト配布の努力が、直接の成果を生むというのではありません。実際にトラクトを手にした人が、次の礼拝に来ていたわけではないのです。けれども、気をゆるめずにたゆみなく伝道しなさいと主が教えてくださったというわけです。
 確かに、主は私たちを励ましておられます。棚ボタ式ではありませんが、いつしか宣教のスピリットを失い、あぐらをかいて、来る人を待つような落とし穴に陥ることがないように気をつけたいものです。
 時が良くても悪くても、福音を宣べ伝えなさいーーパウロが処刑前に書いたと思われる獄中からの絶筆の一節は、私たちに対する遺言でもあるのです。



No.145 腰を落ち着けて

 それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。1時間でも目をさましていることができなかったのか」。
   マルコ14・37

 1日3時間の祈りに挑戦し始めた、という牧師にお会いしたことがあります。その結果、どんなに豊かな霊の世界の恵みを受け取られたかは、いちいち書き記すまでもないと思います。
 もちろん、祈りは時間の長短で測るものではありませんが、やはり時間も無視できないと思うのです。ちょこちょこっと祈っては、主の御前を通り過ぎるような祈りではなく、じっくりと腰を下ろし、熱く深く主と交わるような長い祈りも必要です。
 このみことばは、十字架を前にしたイエスさまの約1時間の祈りの間に、ペテロたちが眠ってしまったという場面です。この後、合計約3時間は続いたと思われるイエスさまの祈りに、再度彼らがついていけなかったのも想像できます。
 主の御前で、じっくりと腰を落ち着けて祈ろうではありませんか。



No.146 父の厳しさ

 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
     ヘブル12・8

 ニュースで、タンチョウヅルの子が親離れしてひとり立ちする光景を見ました。
 昨日までと同じようにエサを求めて親ヅルに寄り添ってくる子どもに対し、親は敢然として拒絶します。もうエサはあげない。自分でエサを見つけることを教えるために、冷たく厳しく、近づいてくる子どもをくちばしでつついては、追い返しているのです。
 子どもたちは、親の心がわからずに、いったい何が急変してこうなったのかを受け止めきれずに泣き続けているのでしょう。悲しみの泣き声はいつまでも遠くこだましているようでした。
 けれども、親ヅルはきっと、それ以上に大きな痛みを飲み干し、心を鬼にしてわが子を突き放したのだと思います。
 私たちを思い切って突き放し、痛みをおぼえながらも私たちの成長のために、時に厳しく訓練を施される父なる神の愛を知りましょう。



No.147 自由

 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい」。
     創世記2・16

 聖書の神は、あれもダメこれもダメと言う禁欲の神なのでしょう、と創世記を指して言う人がいますが、この誤解を解きましょう。
 まず第一に、アダムとエバは罪が入った毒りんごを食べたわけではありません。その木は、善悪の知識の木でした。第二に、まず禁止事項から始まったのではなく、みことばにあるように、「どの木からでも思いのまま食べてよい」という自由から出発したということです。
 私たちはややもすると、一点のみを誇張するあまり、そもそもの前提を見失いがちです。十円玉を目の前に置いて、大きな太陽を隠してしまうような愚かなことを繰り返してはなりません。神さまは人をまず縛りつけようとされたのではなく、自由を享受する恵みを与えてくださったのです。私たちは、それを神さまから引き離して用いない限りにおいて、根本的に自由なのです。



No.148 大前提

 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。
    創世記 2・17

 人間は基本的に限りなく自由な存在として造られました。ただし、神を中心に据えて、その御教えを基準としてそこに従って歩むという大前提があってのことです。
 それではまことの自由とはいえない、と言う人がいるかもしれません。しかし、ここが大切な点なのです。人が人として幸せに生きるための侵すべからざる絶対条件が、実は皆この一点にかかっているのです。
 「善悪の知識の木」は、人間が自由にしてよい領域ではありませんでした。これは神の領域です。善悪の物差しを自分で決め、意のまま欲望のままに生きる人間が真の意味で幸福だといえるでしょうか。何が善で何が悪であるのかは、神が決めることです。
 私たちは創造主なる神の御手の中に出て聞き、受け取り、それを基準として歩むのです。神の御前に出て、神に従って生きてこそ、初めて人間たり得るのです。



No.149 回復のプログラム


 あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。
     イザヤ37・30

 預言者イザヤの時代、アッシリヤ帝国からの脅威の中で、心注ぎだして祈ったヒゼキヤ王に与えられた励ましの預言がこれでした。
 アッシリヤの王は自国に帰り、神のさばきに遭うというのです。そして、国が守られるしるしが、この三年にわたるプログラムなのです。
 一年目は落ち穂から生えたものでしのぎ、二年目も忍耐。三年目になってようやく収穫の時期を迎えるというのです。地震の前には地鳴りがし、出産の前には身ごもりの時があります。アッシリヤに荒らされた国土が回復し、新たな収穫期を迎えるのに、神は三年の期間を用意されました。
 実を見た後で神に栄光を帰すことは、だれにでもできます。しかし信仰者は、実を見る前にこそ、やがて現れる主のみわざの胎動を感じ取りたいものです。



No.150 祝福のプロセス

 ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。
     イザヤ37・31

 1992年、箱根駅伝で優勝した山梨学院大学の上田監督は、「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ」ということばが好きだそうです。
 創部6年で箱根駅伝に出場し、15位から11位、7位、4位、2位、そしてこの年の優勝へと上り詰めた歩みは驚異的です。その背後に、どれほどの練習と、実として現れない下積みの期間があったことでしょう。
 確かに、やればすぐに成果が現れるというわけではありません。けれども、上に実が結ばない時にも、黙って手をこまねいているのではなく、見えない大地の下で底深く、下へ下へと根を伸ばせというのです。
 根を張らずして実はなりません。実は目に見えますが、根は外からは見えません。ややもすると私たちは、たちどころに成果が現れるものを求めがちです。大地にしっかりと根を張るというプロセスを飛び越えることなく、確かな形で実を結ばせていただきましょう。