心のビタミンバックナンバー

121〜130


No.121 実を結べ

 さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。
   イザヤ5・1

 聖書にたびたび登場するぶどう畑。イスラエルを訪れた時に、ユダヤ人の口から畑作りに多くの苦労があると聞きました。
 テラロッサと呼ばれる良質の土に植える際、まずはゴロゴロした岩や石を取り除きます。次にその石で傾斜伝いに石垣を張り巡らし、やがていばらやあざみを生い茂らせて獣や盗人の侵入を防ぎます。さらには、残りの岩石で見張りやぐらをそこかしこに立てて、大切な収穫期には二十四時間体制で見張るのだそうです。
 そこまで汗水を流して、初めて植えられるぶどうの木。まことのぶどうの木であられる救い主キリストも、何千年来の旧約の歴史の土壌が耕され、準備が整った後に、時満ちてお生まれになりました。
 私たちはその救いの幹に接ぎ木するかたちで救われました。旧約聖書からの過去何千年の霊的遺産を無償で吸収し立てられている私たちには、実りが期待されているのです。



No.122  期待にこたえて

 彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。
   イザヤ5・2


 中日ドラゴンズの中村捕手が日の目を見ない頃、星野監督に「おまえを日本一の捕手にしてやる」と言われたそうです。当時の彼の、どこにどれだけの可能性を見いだしたのかわかりませんが、とにかく彼は燃えました。
 仮にも、日本一の捕手にすると監督が言ってくれた。監督は、そこまで自分に期待してくれている−−−。彼はどの選手よりも早くグラウンドに行き、どの選手よりも遅くまで練習しました。今では、その熱心さと、どんな怪我でも這い上がってくる闘志は有名です。
 だれからも期待されていないと思えば、やる気をなくすのは当然ですが、大きく期待されていると知ったら、奮闘せずにいられないのもうなずけます。神は私たちのうちに可能性を見いだし、熱く期待しておられるのです。神の祝福を感じて立ち上がりましょう。



No.123 来て、見てください

 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。「来て、見てください」。
    ヨハネ4・28,29

 私たちの教会には、多くの教会にあるよう水曜祈祷会がありません。田舎なのでバスや電車などの交通の便が悪く、遠くの村や町から集まるのが難しいことがその一因です。その代わりに、町や村々で地区集会(家庭集会)や地区婦人祈祷会が毎週十ヶ所から十五ヶ所で開かれています。
 ある時、その一つの集会にふだん来られない方が出席されました。どうして来られたのか尋ねますと、八十歳を過ぎた身体の弱いおばあさんが、健康な人の足で歩いて十五分の距離を、一時間以上かけて道々腰を下ろし休みながら歩いてやって来て、「今晩おいでください」と誘ったのだというのです。なるほど、そこまでされては行かないわけにはいきません。さすがに帰りは、車で家までお送りしたとのことでした。
 私たちもわざわざ足を運んで、「来て、見てください」とキリストのもとにお誘いする者でありたいと思います。



No.124 一致結束

 キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し・・・・・。
   エペソ4・12,13

 「建て上げる」とは建築用語です。土台から始まって、大工さんから電気、内装屋さんと多くの種類の技術者たちの手を介して初めて一つの建物が完成します。
 もしも屋根をふく人や電気工事をする人が、バラバラに勝手な考えでやり始めたら、大変なことになります。だから「一致」が必要なのです。
 多くの教会で分裂したとか、目と鼻の先に別の看板を掲げて教会を開いたといった話を聞きます。各々に複雑な事情があり、よほどのことがあったのでしょう。けれども、ただでさえ小さな一つの教会が分裂して、最終的に喜ぶのは他のだれでもない、サタンなのです。私たちは、「また一つ、地上の教会を骨抜きにした」といって彼らを喜ばせてはなりません。一致結束して、教会の中心は見えないかしらであり、設計士でもあるキリストなのだと、証ししたいものです。



No.125 おとなになって

 完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
  エペソ4・13

 口語訳聖書(日本聖書協会)は、キリストの「身たけ」を「徳の高さ」と訳しています。教会は、そのからだを構成する一人びとりが、目標であるキリストの「身たけ」すなわち「徳の高さ」を目指してこそ初めてキリストの教会なのです。
 教会は単に目的を一つにして仕事をする集団ではありません。その営みの一切を通して、彼らを生かし、彼らのうちに働くキリストをあぶり出しの絵のように映し出してこそ初めて真の教会なのです。
 キリストは不完全な私たちを通してもご自身を現そうとしておられます。性別や年齢、考え方や生い立ちも違うはずの私たちが、一つキリストの御名のもとに集まり、不思議に一致し、キリストの香りを放ち始める時、人々ははっきりと教会の営みの背景におられる生けるキリストの姿を見るのです。自分勝手にふるまう幼子のような姿から脱却して、私たちもおとなのクリスチャンを目指しましょう。



No.126 厳しい旅路

 もはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく・・・・。
  エペソ4・14

 なぜ、いつまでも子どものクリスチャンであってはいけないのでしょうか。それは、クリスチャンを取り巻く状況は厳しく、命取りになる危険さえあったからです。
 実際エペソの町にはアルテミスの神殿があって、クリスチャンといえども魔術から足を洗い切れずに再び悔い改めを迫られたり、異教の地ゆえ、キリスト教会に対する大迫害も起こる町だったのです(使徒19章)。
 狼の中の羊です。のんびり構えて、自然と天の御国にたどり着く順風の船旅とは違います。ここでいう「悪巧み」とは「立方体」からきたことばで、もともとはサイコロ転がしのペテンを言ったようですが、いつまでも子どもでいては、まんまとだまされ、最後は波にもてあそばれるというのでしょう。
 地上の旅路が厳しければ厳しいほど、私たちは大人のクリスチャンを目指したいと思います。



No.127 越前水仙

 さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
     ヤコブ1・2,3

 NHKニュースで越前水仙が紹介されていました。厳しい日本海の岩肌で潮風にもまれながら、どんな温室でも育たない、二倍三倍もの強烈な香りを放つ水仙だということでした。そして、そこでしか育たない貴重な花を、危険を覚悟で摘んでいる人の姿が映し出されていました。
 厳しい自然環境の中でしか育たない、独特の強烈な越前水仙の香り。信仰者も、二重苦三重苦のような厳しく苦しい状況に追い込まれてこそ、信仰の底力が発揮できるのです。私たちに植えつけられた信仰が、こんなにも力強いものであったのかと改めて見直すことのできるチャンス到来です。
 厳しい向かい風や大洪水、また大嵐の日々の中でも、これまでの二倍三倍も強い、キリストの香りを放つキリスト者となろうではありませんか。



No.128 試練の中で

 燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。
     I ペテロ4・12,13

 以前、私たちの教会に来ておられた台湾の方から、現在の李登輝総統は尊敬すべき熱心なクリスチャンだと聞きました。
 確かに、著書『愛と信仰』(早稲田出版)を読むと、若い頃、洗礼を受ける前夜に、夢の中で将来伝道者になるようにとの示しを受けながらも果たせないでいることへの心残りなど、神への真摯な姿勢が随所ににじみ出ています。
 とりわけ目をひいたのは、ひとり息子をがんで亡くした時の話です。深い悲しみの中でも、天国での再会を信じ、信仰によって乗り越え、公務を全うしていくその姿。
 また、台北市長時代には、ダム決壊の危機の中で必死に祈り、台風の進路までも神が変えてくださったという証しが記されています。つぶされて当然と思われる数多くの状況下でも、見事に信仰の花を咲かせていることを知りました。



No.129 涙の祈り

 ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。
      I サムエル1・10

 涙の祈りをささげても何も起こらない、などということがあるでしょうか。そんなはずがありません。
 士師の時代とダビデ王からキリストの王国にまで続く節目の人物、サムエルは、母親ハンナの涙の祈りのうちに生まれた神の器でした。
 ハンナの状況は複雑でした。一つ屋根の下、一人の夫に二人の妻がいました。しかも、ハンナは不妊であるのに対し、もう一方の妻ペニンナは子宝に恵まれているのをいいことに、これ見よがしに意地の悪いいやがらせをハンナにしてくるのです。ハンナの女性としてのプライドは傷だらけでした。
 逃げ場のない袋小路のような所で生きる苦しみの中で、彼女は涙の祈りをささげ、やがてあの偉大なサムエルが誕生するのです。苦しみは涙の祈りを生みます。そして芯の強い、不退転の決意を秘めた祈りは、やがて必ずや偉大な神のみわざを呼び起こすのです。



No.130 献身の信仰

 それで私もまた、この子を主にお渡しいたします。この子は一生涯、主に渡されたものです。
    I サムエル1・28

 サムエルのサムエルたるゆえんは、少年の頃から神の御声を聞き、どんな時にも神の御前に出て神の側に立つ、きっぱりとした献身の信仰にありました。
 後にイスラエル民族がサムエルとその子を退けて新しく王制を求めた時にも、感情的にならずに神の声に聞き従って、その道筋を自ら整えていく懐の深さがありました。
 そのような信仰は、母ハンナから譲り受けたものでした。不妊であったハンナは、もし、男の子が与えられたなら、その子の一生を主にささげるとの誓願の祈りをしたのです。
 ようやく与えられたこどもでした。しかし彼女は、神との約束を果たして、最初の誓約通りナジル人として(1・11)、一頭の雄牛のはん祭とともに献身の告白をもって(1・25)サムエルを主にささげ、手放したのです。その子が、早くから特別な主の器として用いられていくのもうなずけます。