心のビタミンバックナンバー

111〜120


No.111 新しいいのち

 戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
     ヨハネ20・26

 イエスさまが復活後どうなったかを、あまり考えたことのない方もいるようですが、イエスさまは、再び病気や事故や寿命などで死なれたわけではありません。生きたまま、新しい復活のからだをもって天に帰られたのです。
 このからだが二度と死を見ることのないまことのいのちであることを表すかのように、その間、実に多くの人々の前にご自分を現されました。(Iコリント15・6には五百人以上の人々に同時に現れたとある。)冒頭の箇所にも、不思議にも閉じられているはずの戸の中に突然、復活の主が現れたことが記されています。ヨハネ自身、このいのちとからだとを目撃したために、こうして書き記したわけです。
 私たちが望むのは、蘇生して再び朽ち果てていくむなしいいのちではありません。二度と死を見ることのない、まことのキリストの復活のいのちとからだなのです。



No.112 駆けつけた女たち

 彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。
   マルコ16・3

 それにもかかわらず、彼女たち(マグダラのマリヤ、ヤコブの母マリヤ、サロメ)はきリストが葬られた墓に急ぎました。弟子たちがイエスさまを見捨てた後、十字架上で果てていくイエスさまを最後まで見守ったのも彼女たちでした。それゆえに、復活の主は十二弟子たちよりもまず、この女性たちに復活のご自身を現され、その喜びを示されたのではないでしょうか。
 復活の主をお祝いするには、この信仰が大切です。そこに番兵がいようがいまいが、仮に墓石が自分たちの力で動かせないと予測できたとしても、それでも暗闇の中、イエスさまのところに一番で駆けつけたい一心で安息日が明けるのを待ってひた走る。一切の計算や、理屈を超えた信仰です。その信仰の延長線上に、思いもしなかった主との対面がありました。私たちも一歩踏み出しさえすれば、すぐ傍らで、今も生ける復活の主が待っておられることを知るのです。



No.113  紙一重

 信じない者にならないで、信じる者になりなさい。
   ヨハネ20・27

 イエスさまから、このように論されたのは十二弟子の一人、トマスです。
 トマスは、他の弟子たちから「私たちは主を見た」と聞かされても、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」(20・25)と答え、固く心を閉ざしていたのでした。目で見たなら信じてもいいように思うのですが、このトマスは手を差し入れなければ信じないとまで言い切ったのです。
 これは、積極的に「私は信じない」という立場に立つ不信仰の宣言にも見えます。けれども、そんな心の壁は、圧倒的な復活の主の臨在の前に、たちまちのうちについえ去りました。トマスは実際には見ただけで信じたのです。否、そこに主がおられるという事実に直面し、信じなかった時に組み立てた理屈の一切が瞬時にして崩れ去りました。信仰と不信仰は紙一重です。



No.114 天国への希望

 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
   ヨハネ3・16

 一足先にご主人を天に送られたHさんは、七十七歳になられました。現在、自らも病の中にある身ですが、彼女は天の御国への希望を確信して疑いません。そのわけは、ご主人が天に召される時の光景が目に焼きついているからです。
 亡くなる一年前に信仰をもったご主人は、「僕もイエスさまを信じているから大丈夫だ。心配するな」と言い残し、「さようならと言っておこうか」と別れのことばを告げてしばらくの後、眠るようにすっと天に召されたそうです。その光景があまりにも自然で、あたかもこちらの部屋から向こうの部屋に移されるかのごとく、この地上から天に移されたのだな、と確信させられる素晴らしい瞬間だったようでした。
 天に召される一年前だろうが、三十年前だろうが、キリストを信じ受け入れた者には、何の差別もなく、無条件で罪の赦しと永遠のいのちとが与えられるのです。



No.115 死がいのちを

 女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
   ヨハネ16・21

 これはイエスさまが十字架につく直前の、弟子たちに対するいわば告別説教の一節です。新しいいのちを生み出すために、イエスさまがご自分のいのちをささげようとして、苦しみや悲しみを味わっておられる様子がうかがえます。確かに、新しいいのちを生み出すためには、産みの苦しみが必要なのです。
 私の住む福島県の海沿いの川には、毎年秋になると数年の歳月を経て大きく成長した鮭が、子を産むために戻って来ます。いや、死ぬためといったほうがよいかもしれません。新しいいのちを文字どおり生み出すために、自らのいのちを捨てる覚悟で川を上るのです。そのような光景は、いずれの世界でも感動的です。
 イエスさまはただ死ぬためにこの世に来られたのではなく、自らが死ぬことによって、新しいいのちを生み出すために来られたのです。



No.116 夫婦の関係

 神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
   創世2・18

 アメリカの夫婦は二組に一組の割合で離婚すると聞きます。やがて日本でも、そんな日が来るのでしょう。
 悲しいかな大半の人々は、「好きだから結婚して、嫌いになったから別れる」「自分で見つけてきたのだから、別れるのも勝手」と思い込んでいます。離婚に至らなくても、互いに憎み合ったり、愛の完全に冷えきった家庭内離婚のような夫婦の関係が、なんと多いことでしょう。
 夫婦という単位は本来、神からの賜物です。人の定めではなく、神の定めによるものなのです。この点に目が開かれて、互いにまず感謝するところから始めなければなりません。最初に人間の側で配偶者を求めたのではなく、神の側で人の幸せのために、先回りするかのようにして素晴らしい夫婦の定めを備えられたのです。人はこの神に立ち返って、初めて、真の意味での夫婦の関係が成立するといえましょう。



No.117 十字架こそ金字塔

 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
      ヨハネ15・13

 かつて私の住む村の近くの町で殉職した消防署員のことが、ラジオで語られました。いつどんな状況で亡くなったのか、この町の人々は知りませんが、とにかく人命救助のため火中に自らの命を投げ打ったその方の死を、彼らは決して忘れないというのです。
 おぼれている人に岸辺から「助かりなさい」と言っても、何の意味があるでしょう。火事の最中に、遠くから「がんばって」と呼びかけてどれほどの意味があるでしょう。十字架を前にイエスさまが語られたように、最後には自らのいのちを投げ打ってこそ、初めて人を助けることができるのです。
 助けられた人が、命をかけて救ってくれた人の命を、いつまでも忘れないのは当然のことです。私たちのために死なれたイエスさまの十字架を、自らが救われた日としていつまでも記憶し、感謝し続けるのも、当然のことではないでしょうか。



No. 118 神の期待

 神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
      エペソ1・4
 
黙示録に登場する七つの教会の多くは、エペソ教会の伝道によって生まれたのではないかと言われます。
 テアテラやスミルナやフィラデルフィヤなどの教会です。エペソ教会には、単に地元での伝道と教会形成にとどまらない、大きな期待が寄せられていたのです。
 パウロは世界の基の置かれる前からの神の選びを主張していますが、果たして、当時のエペソ教会員たちが自分のこととしてこのような意識をもっていたかどうかは疑問です。アルテミス神殿があり、魔術が盛んなこの異教と偶像の町で、せいぜい信仰を失わないようにするのが精一杯だったかもしれません。
 しかし、確かに主はこの教会にただならぬ期待を寄せておられたのです。それゆえに、神はパウロやテモテやヨハネなど、名だたる牧会者を次々とこの教会に送り込まれたのではないでしょうか。



No. 119 熱いまなざし

 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。
   エペソ2・10

 長女が小学校一年の時でした。
 学校から持ち帰った朝顔を、それはそれは大切にいつくしんで育てました。朝、起きると朝顔のもとに走り、帰って来ると水をやり、日に当てたり家に取り込んだり。その喜びと期待が、小さな心一杯に広がっているのがわかりました。
 どんなに自分はつまらない者と自覚していたとしても、世界の置かれる前から選んでいたと主張される神が、私たちにいかほどの期待も寄せられていない、などということがあるでしょうか。私たちのちっぽけな自意識をはるかに超えて、神は私たちに期待し、注目していてくださるのです。
 異教と偶像の町エペソでは、信仰の道は困難だったかもしれません。日本でも、教会もクリスチャンもまだまだ少数派です。けれども数少ないからこそ、主は私たちに注目し、熱いまなざしを注いでいてくださることを覚えましょう。



No. 120 熱い期待

 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
    エペソ1・5

 私の住んでいる所は、車で五分も走るとすぐ海に出られます。
 ある日、家族で海辺を散歩した時のことでした。長女が一つの貝殻を拾い、それがひどく気に入ったようでしたが、「これ持ってて」と家内に預けて遊んでいました。ところが帰り際、家内はポケットから取り出そうとして、その貝殻がないことに気づきました。
 どうせただで拾ったものです。似たようなものはいくらでも落ちている、と親は考えましたが、ついに長女は納得せず、一日中機嫌を損ねていました。
 親の目にどう映ろうと、彼女にとっては、自分で選んだ二つとない特別な貝殻だったわけです。
 私たちも、「なぜこんな私を・・・・・」と考えることがあります。けれども神は、二人といない神の民として私たちを取り上げ、磨き、大いなる期待を寄せていてくださるのです。なぜだか理由はわからなくても、熱い期待は感じるのです。