心のビタミンバックナンバー

101〜110


No.101 十字架上の苦しみ

 ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出し、イエスがすでに死んでしまったかどうかを問いただした。
         マルコ15・44

 ハーレイ著『聖書ハンドブック』(聖書図書刊行会)に、イエスさまの十字架の死の可能性の一つとして次のような説明が載っています。
 十字架の上で、イエスが一人の兵士に槍でわき腹を突き刺された時、血と水が出てきたとある(ヨハネ19・34)が、それは心臓破裂の可能性もあるのではないか。心臓破裂により血液が心臓の外壁に集まり、血餅と水のように見える血清とに分離した可能性もある、と。もしそうだとするなら、総督ピラトも信じないほど十字架刑にしては短い、六時間で壮絶な死を遂げられたことにも納得がいくというものです。
 マリヤから生まれ、打てば傷つく生身の肉体をもったお方が、全人類の罪を一身に負うということがどれほど苛酷な出来事であったか。内側からいのちが炸裂するかのようにして息を引き取られた、十字架上の重い御苦しみがしのばれます。



No.102 罪がわかると・・・・・

 罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
   ローマ5・20

 「ちいろば先生」として有名な故・榎本保郎牧師は、かつて神学生の身でありながら、本当の意味で十字架がわからなかったそうです。
 ある時、そんな心を見透かされるようにある牧師から、「君はまだ罪がわかっていない。罪意識のない者は福音を理解することはできない」と言われました。
 そのことばに腹を立てながらも、小さい頃からの思い出せる限りの罪を具体的に書き出してみると、出るわ出るわ。分厚くなった自分の罪のリストの便箋を眺めながら、「私のこの罪のために、主が十字架についてくださったのだという実感がわき、感激の涙が目からあふれ出た。私はこの時ほど十字架を身近に感じたことはなかった」と、その時の感激を記しておられます。
 自分がいかに罪深いかがわかると、そのために十字架で苦しまれたキリストの救いの恵みが急に身近に感じられます。私たちの罪のために、キリストは苦しまれたのです。



No.103 告白文


 わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。
   ヨハネ8・11

 昨日お話しした榎本牧師は、三人の方に自分の罪の告白文を送ったそうです。どんなに小さいと思えることでも、伏せておきたいような不名誉なことも、思い出せる限り赤裸々に書き記して投函したのです。
 恐怖がやってきました。告白文を読んだ両親からは勘当を、神学校からは退学を、そして愛する女性からは絶交を言い渡されるのでは・・・・・。罪のもたらす報酬を、身に染みて感じたわけです。
 いよいよ神学校の先生から呼び出しがかかると、観念してまず祈りの時をもちました。すると、「子よ、なんじの罪は赦されたり。安らかに行け」との主の御声を聞くのです。一切の恐れを取り除く新しい赦しの力を得て、彼のその後の歩みが万事益となったことは言うまでもありません。十字架の贖いによる罪の赦しを、自分のこととして体験したのです。
 「今でもあの夜の感動をわすれることができない」と、榎本師は記しておられます。



No.104 神の子だけが

 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった。」と言った。
    マルコ15・39

 カトリック教徒が人口の85パーセントを占めるフィリピンでは、毎年受難日を迎える時期になると、実際に人を十字架に釘付ける儀式が行われ、多くの志願者が出るそうです。十字架に縛られて、両手両足に本物の釘を打ち付けるのだとか。
 私たちも、実際に十字架についてみることはできるでしょうが、はたしてそれで本当にキリストの御苦しみがわかるでしょうか。
 自分の罪のために苦しむことはできても、人の罪を身に負って贖われた主の御苦しみを味わい知ることは、だれにもできません。おぼれて沈みかけている人が、どうして他人を救うことができましょう。
 罪のない神のひとり子だけが、私たちの罪を一身に背負い、身代わりに苦しんで救うことができるのです。百人隊長が「この方はまことに神の子であった」と告白したとおりです。



No.105 罪の清算

 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
    イザヤ53・5

 三十二年も昔の幼女殺しを告白した殺人犯がいました。事件はとうの昔に時効のはずです。けれども三十二年前、水死体で溜め池から発見されて、事故死として処理された幼女を殺したのは、当時十代の少年だった自分だと告白したのです。
 すでに時効が成立しており、だれから追及されたわけでもないのに、いったいなぜ、自ら隠されている罪を告白したのでしょう。
 苦しいからです。清算されないままの罪を抱えつつ過ごした三十二年間が、どれほど罪責感にさいなまれ、恐怖に追い立てられ、平安のない日々であったかを、その後、堰を切ったように彼自身が告白しました。
 人は月日が経つと記憶が薄れ、罪も自然に忘れ去ってしまうのではありません。清算されないかぎり、だれも処理することができない、内に秘められた恐るべき罪。神はその罪を十字架のキリストを通して、完全に処罰してくださったのです。 



No.106 イースターの喜び

 ここにはおられません。よみがえられたのです。
    ルカ24・6

 日本では社会でも教会でも、クリスマスと比べるとなじみが薄いイースターを、見直して盛り上げようという試みが各地の教会でなされているようです。私たちの教会でも、クリスマス祝会と同じようにイースター祝会をもっています。
 かつてヨーロッパでは、受難週の期間は静まった生活をして、イースターの到来とともに一斉に明りをともしてキリストの復活をお祝いしたそうです。受難週には卵を食べず、イースターの日曜日に解禁となり、十字架や永遠のいのちの希望を表す赤や緑や金のイースターエッグが教会で配られた慣習は、今でもよく知られています。いずれにしても、復活の喜びを身体一杯で表現し、味わっているのです。
 日本の教会には、暗くて重苦しい十字架の死のイメージはあっても、その先に突き抜ける復活と希望のメッセージがないなどと言われないように、イースターを心から喜び祝いたいものです。



No. 107 空っぽの墓

 週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。
   マルコ16・2

 イエスさまの墓に着いた三人の女性たちは、空っぽの墓と、キリストは復活したと伝える御使いと、ついによみがえられたキリストご自身に出会うのです。それは週の初めの日、つまり日曜日の早朝でした。
 なぜ私たちは日曜日に、キリストの死体のない十字架を掲げている教会で、毎週礼拝をささげるのでしょうか。それはキリストが預言どおりに、金曜日の十字架刑から数えて三日目の日曜日の早朝によみがえられたからにほかなりません。
 死んだままのキリストを救い主とあがめて、いったいどこにいのちがあるのでしょう。毎週日曜日に空っぽの墓を確認し、死の暗闇を敢然と打ち破ってよみがえられた、この方をあがめてこそ、初めていのちある礼拝となるのです。
 教会の十字架には、もはやキリストの死体をかたどった像はありません。よみがえって今も永遠のいのちの希望として輝き続けるこの方を、救い主としてあがめましょう。



No.108 教会の出発点

 キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
   Iコリント15・14

 今日、キリストの復活を証しする教会が全世界に存在している事実は、キリストがまさに復活されたということを物語っているといえないでしょうか。新約聖書も今日の全世界のキリスト教会も、すべては復活の事実から出発したからです。
 もしも、キリスト教会の出発をたたきつぶすつもりがあったなら、祭司長たちは、死後三日経っても五日経っても復活しないキリストの遺体を、人前にさらせばよかったのです。
 それができない彼らは苦し紛れに「夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った」(マタイ28・13)とまことしやかなデマを流したことが、聖書に記されています。
 小ざかしい一切の説明を排除して、私たちは聖書が昔からストレートに語るように、「キリストはまことによみがえりたまえり」と告白したいものです。



No.109 腰抜けから勇者に


 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
   I コリント15・7


 キリストの死体をさらすことのできない祭司長たちが、苦し紛れに「弟子たちが死体を墓から盗んで行った」と言ったことは、前に記しました。
 ところで、あのペテロからトマスたちに至るまで、貝のように口を閉ざし、キリストの弟子であったことを否定する行動に走った彼らが、どんな勇気を振り絞れば、ローマの番兵の待つキリストの墓から死体を盗み出すことができたというのでしょうか。
 仮に、奇跡的にそれができたとしましょう。しかし、四日過ぎても一週間過ぎても息を吹き返さず、むなしく腐っていく死体を前にして、いったいどうしてキリストの虚偽の復活にいのちをかけられたというのでしょうか。
 事実、彼らのほとんどは、後に殉教しているのです。
 人は真実のためなら奮い立ち、いのちもかけるのです。腰抜けのようになった彼らが、こつ然と復活の証人に変えられたのは、その境目に復活の事実があったからこそです。



No.110 キリスト仮死説


 そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。
   マタイ27.66


 キリストは仮死状態だったにちがいないなどと考える人がいます。当時の十字架刑とその前に受けるむち打ちの刑が、どれほど苛酷なものかを調べれば、ピラトが念を入れて死の再確認をとったことや、十字架の上で死体のわき腹に槍を刺した事実を見るまでもなく、そのような説明が成り立たないことは、わかるはずです。
 万が一仮死状態であったとしても、虫の息の状態で、どうして内側から大きな石を動かせるというのでしょう。(マルコ16.3には、女たちの力では、その墓石を動かせなかったことが記されている)。仮にできたとしても、その上どうやってローマ兵の番する中を脱出できたでしょうか。不可能です。
 数々のあり得ない説明を駆使して、キリストの復活をつぶしにかかる者ではなく、復活の事実を認める者となりましょう。復活を認めて初めて説明のつく数多くの事実が、私たちを取り巻いているのですから。