心のビタミンバックナンバー

bP〜bP0


bP そこから祈れ

主を待ち望むものは新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。
イザヤ40:31

鷲が力強く翼を買って、天高く舞い上がっていくようすが目に浮かぶみことばです。
私達も、果てしなく落ちていく歩みではなく、いったんは地に落ちたとしても、どん底
から天来の力をいただき、顔をしっかりと神様に向けて、
天に舞い上がっていく人生でありたいものです。
 ユダヤ人の歴史において、預言者イザヤの時代は悲惨でした。
他国の脅威にさらされ、国内の治安や道徳は乱れ、信仰は忘れ去られ、
退廃と自暴自棄の嵐の中で、壊滅寸前の状況にありました。
 しかし、だからこそ主を仰げというのです。
すべてに絶望している今こそ、主にのみ期待し待ち望むようにと。
私たちは、いつでもどこからでも祝福を受けられます。
その鍵は、どこにへたり込んでいようとも、
自在に引き上げることがおできなるお方に向かって、祈り求めるか否かにあるのです。

 bQ 天を仰いで
主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。   詩篇 127.1
これは私の最も好きな聖句です。
  神学校に入学した時、私は真の意味で祈ることを知りませんでした。
祈ることを知らないのですから、
 自分の力で勉強をし、人間関係をこなし、奉仕をやり抜く以外にありません。
  しかし、やがてがんばりは限界に達し、すべてに行き詰まり、
新たなる力の必要を感じ始めました。
前後左右に行き詰まると、人は自然と顔が上を向くようです。
内側に渇きをおぼえた私はどうにもしようがなくて、
初めて一対一で神に向かって叫び求めました。
神の前に出ることを知ったのです。
  行き詰まらなければ祈りが身に付かないのですから、情けない気もします。
けれども、とにかく神との個人的な、直接のパイプがつながったのでした。
  祈りのない生活から、祈りを呼吸として現実に生きる生活へ。
なんという変化でしょう。
  「神の祝福とはこのようなものだったのか」と体感し始めたのは、それからです。

No.3 新しくされる

あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。  創世記32:28

  私はヤコブが好きです。おそらく目の前にしたら、好かれるタイプの人間ではないでしょう。
しかし、彼は執拗に神に向かい、神の使いと格闘までし、新しく神の前で生まれたごとく、「イスラエル」という名前をいただいたのです。
 神学校を卒業し二十五歳で福島県の教会に就任した時、私はよく田んぼの畦道を歩きながら祈りました。
夜中の二時、三時に祈ったこともあります。
すると、田舎のことですから星が美しく、その背後におられる神の臨在を不思議な感動をもって体験することがありました。
 ここから、心を注ぎ出して祈るならば、必ず主がこの地でみわざをなしてくださる。
必ずや、この神が偉大なことをなされる。
わけもなくそんな確信に満たされ、夜空の星の下、思わず知らず心が躍ったことを思い出します。
 主の御前に出て、心を注ぎ出しましょう。主が私たちを新しくしてくださるのです。

bS祈りの足跡


彼がベヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた                                       創世記32:31

  ヤコブはびっこを引いていました。神と直接闘って打たれたのですから、仕方がありません。けれども、太陽の下でびっこを引いて歩くこの時のヤコブの心には、おそらく、一点の曇りも後悔もなかったことでしょう。
 私はどういうわけか、座ってじっとしていると、なかなか祈りに集中できません。苦肉の策でよく外を歩きながら、景色を眺めたり天を仰いだりして祈るようになりました。
 ところが数年前から、特に寒い冬の日には、外を歩くことができなくなってしまいました。ひざが痛むようになったのです。雪や大雨の日まで、合羽を着て外に出て歩いたためではないかと思います。
 けれども今、あの山この道で、熱い願いを主の前に心注ぎ出した日々や足跡が懐かしく思い起こされます。ヤコブはびっこを引きましたが、祈りの足跡はいつまでもさわやかに残るのです。

bT聖書を読もう


生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。 
   
                             Iペテロ2・2

 遅ればせながら、神学校に入学後、初めて心を注ぎ出して祈ることを覚えた私でしたが、恥ずかしいことに、日々みことばを読み、みことばに養われる生活は、牧師になった後も身に付いているとはいえない状態でした。
 遣わされた教会は連日の家庭集会で忙しく、その準備に追われる私はそれをいいことに、説教の準備自体が私の「みことばの時」だと理屈をこねていました。
 しかし、それは長続きしませんでした。毎日人に聖書を説きながら、自らはみことばの養いを受けていないことの非を示されました。
 そして、三十歳を機に一つの決心に導かれました。五十五歳までの二十五年間に百回聖書を読んでみよう。そのために、原則として一日に二十章の聖書通読の目標を立てました。たった一度しかない地上の信仰生涯で、せっかく与えられたこの聖書を徹底的に読んでみようと思うに至ったのです。

bU母の祈り


この子のために、私は祈ったのです。       Iサムエル1.27

  ハンナはその子サムエルのために祈りました。サムエルが用いられた第一の理由は、母の祈りにあったといってよいでしょう。
 私の母もクリスチャンです。「写真結婚」だったらしいですが、嫁ぎ先では嫁姑問題などがあって苦労し、そのような中で、たまたま私たち兄弟を教会の幼稚園に入れたことがきっかけで、信仰をもちました。三十数年も前です。ところが私は、中学から高校にかけてすっかり教会から離れてしまいました。母はずっと、祈り続けていたようです。
 さて、高校も終わりかけた頃、突然自分から教会に戻り、洗礼を受けて大学に進んだ私は、卒業をひかえて、牧師になる決意を母に告げました。すると、「あなたは二歳の保育園児の時、将来ボクは教会の牧師先生になると言った。以来私は、そのために毎日祈り続けてきた」という返事が母から届きました。
 牧師になって十五年。その背後に母の祈りが二十年積まれていたのです。

bV母の祈り天幕を広げなさい


あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。 イザヤ 54.2

 九一年度の私たちの教会の目標は、「あなたの天幕を広げなさい」でした。会堂も第四会堂の建設に向かって動き始めましたが、同時に、教会学校の数も毎週七ヵ所に増えました。土曜日に並行して五ヶ所と日曜日の朝に二ヵ所です。
 田舎でも、昔のように、映画会をやるとすぐ百人もの子どもが集まる時代ではなくなりました。大きな壁を前に苦悩し、右往左往していた気がします。
 けれどもある時から、一堂に百人集まらないといってがっかりすることをやめました。その代わり、家々や会堂で、また教会学校専用の建物を建てて、あちらでもこちらでも広域に教会学校を開くようにしたのです。
 するとどうでしょう。一ヵ所は十人二十人であっても、合わせると毎週百名前後の小学生が出席するようになりました。がっかりしないで、天幕を広げることに挑戦してみるならば、道は開けると思います。

8そこにとどまれ


その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。 詩篇 1.3

  私たちは、場所を変えると祝福されると勘違いしていないでしょうか。今この場で、まず祝福されることを求めてほしいのです。
 私が遣わされた教会は福島県の人口一万人の小さな町ですが、ここで神さまは祝福してくださる、と信じることが大切だと教えられています。
 うっかりすると、他の教会と比較してがっかりしてしまいがちです。若い人は高校を卒業すると、百パーセント当地を離れます。大学も短大も専門学校もなく、就職口さえないといってもいい所ですから。
 でも、残る生涯を誠実に主に仕えたいと願っている年輩の方は多くいらっしゃいます。そして、実に味のある奉仕をなさいます。ワープロも事務も草むしりも、そのほか教会の裏方の仕事は、年輩の方々の心を込めた奉仕のささげものです。まずこの場所で祝福をいただきたいのです。

9天に通じる告白


あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。      ルツ 1.16

 モアブ人の嫁ルツは、すべてを捨ててでも神を第一に生きていくという精一杯の信仰告白をしました。そして、神は確かにこの告白を聞き届け、彼女のその後の生活を祝福されました。
 私たちの教会に八十歳を過ぎたおばあさんがいます。若い頃から体が弱く、今は一週間寝たきりの生活ですが、それでも何とか礼拝だけは守りたいと願っていらっしゃる方です。しかし、暑いある夏の一週間、食事はもとより水ものどを通らないほど弱って、さすがに、次の日曜日は教会に来られないだろうと思われました。
 ところがです。日曜日が来ると、いつもと同じように彼女は自分の礼拝の席に座っているのです。前日に共に祈り、食事がとれるようになったという不思議な備えもありました。けれども、どんな状態でも礼拝だけは死守したいという、彼女の願いが天に通じたのだと私は思いました。真実な信仰の告白は、祝福を受けるのです。

10神第一


私は決して、わが家の天幕にはいりません。私のために備えられた寝床にも上がりません。
  詩篇 132.3

  何を差し置いても、主を礼拝する神殿を建てたい。自分の生活のことよりも、まず主の御住まいを大切にするダビデの信仰がよく伝わってきます。
 私たちの教会に、最近マイホームを建てたご夫婦がいます。ご主人が以前にこう話していたことを、今も覚えています。
 「あまり早く自分の家を建てたいとは思いません。『ローンの支払いが大変だから、会堂献金はできない』とは言いたくないのです」
 立派だと思いました。そして、そのような姿勢は必ず祝福されると思いました。
 要は、第一のことを第一に考えることです。神さまのことを犠牲にしたり、後回しにしたりして、自分のことを最優先したいという誘惑に待ったをかけることです。徹底して神さまを第一にしていく時に、結果は最善に導かれるのです。