こころのビタミンB・バックナンバー
61〜70
No.61 深いふところ
まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。
I サムエル 12:22
神を退け、王に救いを求めていったイスラエル民族でしたが、それでも神はこの民を捨てず、導かれるというのです。こう語ったサムエル自身、「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない」(12:23) と続けざるを得ませんでした。
自分が民に退けられ、サウルが王として立てられてもそれを受け止めたことなど、サムエルに見るふところの深さは、きっと彼自身が体験した神のふところの深さに由来しているに違いありません。
普通なら、「私のおかげでこれまで幾度も救い出されてきたのに、別の者に頼るというのなら、勝手にしろ」と、捨てぜりふの一つも言いたくなるところです。けれども、神がそれでも見捨てないと言うのに、まさかサムエルが見捨てるわけにはいきませんでした。神の赦しと愛とは、限りなく深くて広いのです
No.62 いのちの日の限り
私は、一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。
詩篇 27:4
創造科学研究会の働きで活躍しておられる宇佐神正海先生のお母様は、84歳で亡くなられました。彼女は私たちの教会のメンバーだったのですが、召される一週間前の家庭集会に姿を見せ、こう話されました。「耳が全く聞こえませんが、集会の場にいたいのです。」
補聴器の具合などで、聞こえ方に幅があったようですが、確かにその日、彼女の耳は全く聞こえませんでした。聖書の話も祈りの声も、讃美歌の何節を歌っているのかも、わからなかったはずです。けれども、「ここがいい。ここにいたい」と言われました。外界とのコミュニケーションが遮断されたかに見える世界にあっても、聖書が開かれ賛美や祈りがささげられる、神のおられるこの場所に身を置きたい、と。
神のみそば近くに身を寄せましょう。私たちはいのちの日の限り、主の家に住み続けたいのです。
No.63 キリストの香り
私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
IIコリント2:15
私の住む地方のある小さな診療所に、台湾からクリスチャンのお医者さんが来ておられました。昔、日本の大学の医学部に学び、定年後は日本の無医村で恩返しをと、台湾の大学の医学部教授退官後に来られたのです。
先生は、そのような立派な経歴をおくびにも出さない謙遜な方で、たちまちのうちに村で評判となりました。
おじいさんたちがどんなことを聞いても、いやな顔ひとつせず、いつも笑顔で答えてくれる先生。夜遅くなっても往診に来て、親身になって診てくれる先生。入院中のご老人が弱ってきてたいそう手がかかるようになっても、診療所が責任をもってお世話すべきだと主張して、頑として譲らなかった先生。現代版赤ひげ先生です。
私たちは、クリスチャンに対しても、そのほかの人々に対しても、キリストのかぐわしい香りを放とうではありませんか。
No.64 あわれみの神
「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」
創世 18:32
ソドムとゴモラ。そこは同性愛など、堕落を極めた町として有名になっていました。この町の衰退を描いた映画を観ると、恐るべき神の裁きと怒りとが印象に残ります。
ところが、聖書の記述をよくよく見てみると、神は天から裁きを下すことをよしとする恐ろしい方ではなくて、何とか人を滅びから免れさせたいと願っておられる、あわれみ深い方であることがわかります。
そのあわれみに拠りすがるアブラハムに対して「もしも十人の正しい人がいたならば、それに免じて町を滅ぼさない」と答えられた神。
しかし、残念ながら当時のこの町には、神の目にかなう者が十人すらいなかったようです。
神は時には、厳しく裁く方です。しかしまた、あわれみの神でもあられるのです。