こころのビタミンB・バックナンバー
51〜60
No.51 中身で勝負
しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは・・・人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
I サムエル 16:7
神さまが二人目の王としてダビデ少年を選ばれた時のことです。預言者サムエルは、兄たちのほうが背たけや容貌からいってふさわしいと思いました。しかし、主はうわべで判断はしないとおっしゃるのです。
イエスさまが、弟子たちの前でいちじくの木を呪ったことがありました〔マルコ11章〕。翌朝、その木が枯れていたのを見てペテロたちは驚きましたが、そこで語られたのは、葉を豊かに茂らせて実があるように見せかけながら〔イスラエルのいちじくは、葉が茂る時にすでに青い実がなる〕、近づいて葉をかき分けてみると何も実っていない、いちじくの木のような生き方への警告でした。
私たちは表面を取り繕いながら互いに生きています。しかし、主は中身をご覧になるのです。うわべを飾るのではなく、中身で勝負する者になろうではありませんか。
No.52 エゴイズム
私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。
ローマ 7:19
フランス在住の犬養道子さんが、キリストを求めるきっかけとなったのは、あの65年前の祖父犬養毅首相暗殺の5・15事件だったそうです。
大切な祖父を殺した将校たちの犯した罪。それはあくまで自分の考えを中心とし、それを押し通そうとするものでしたが、やがてそれと同じ人間性が、自分の中にも巣くっていることを彼女は知るようになります。
後に大志を抱いてアメリカに留学した彼女は、結核の病に侵され、3年間のサナトリウム生活を強いられます。自分より早く快癒して退院する人を祝福するよりも、やっかむ自分。他の人からもっと大事にされたい自分。もらった花を隣の病人に分けたくない自分。結核菌より恐ろしい、そんな自分の心の醜さに、彼女はとことん直面します。
私たちはエゴイズムに直面した時、その先に立つ救い主キリストを真剣に探求し始める者となるのです。
No.53 彼方の生き方
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
ヨハネ 15:12
前途の犬養道子さんは、アメリカで結核療養のため貧しいサナトリウム生活をした時、名も知れぬアメリカ人から療養費を受け続けたそうです。彼女はいつかお礼をしたいと願いましたが、事情を知る神父から、「独立した社会人となった時、今のあなたのように一人ぼっちで逆境にある人たちのため、あなたが今していただいているのと同じことをなさい」と申し渡されたとのこと。
エゴイズムの塊のような醜い自分の心を発見し、どうしてもそこから脱却できずに苦しんでいた時、無償の愛をもって彼女の療養費を払い続け、しかも最後まで名を明かさなかった一人の人の生き方に出会ったのです。
イエスさまが無償の愛をこの世界に表されて初めて、罪の原理に支配されて自分中心にならざるを得ない生き方の対極が示されました。私たちも、そのような生き方へと移り行きたいのです。
No.54 酌量の余地なし?
あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり・・・・・・・。
創世 3:5
「あなたがたが神のようになり」ということばが目を引きます。このサタンのことばに誘惑されて、アダムとエバはエデンの園の善悪の知識の木の実を取って食べ、罪に陥ったのです。
しばらく前、私の住む福島県で殺人事件が起こりました。強盗殺人犯の男が、仮出所した三ヵ月後、スナックのママを殺害して現金を奪ったのです。法廷で裁判長は、死刑の判決を言い渡しました。理由は、「金目当てに見ず知らずの人を殺す自己中心の罪は、情状酌量の余地がない」というものでした。同じ殺人でも、自己中心の罪は最も重く、情状酌量の余地なしというわけです。
人は皆、神をその座から退け、自らを主とする行き方に向かって激しい勢いで進んでいます。私たちは、「自己中心の極みゆえ、情状酌量の余地なし」と宣告される前に、イエス・キリストを信じて罪の赦しをいただきましょう。
No.55 緊急事態
そこでアモン人ナハシュは彼らに言った。「次の条件で契約を結ぼう。おまえたちみなの者の右の目をえぐり取ることだ。」
I サムエル 11:2
今から三千年以上も昔のイスラエルの国での話とはいえ、こんな無茶苦茶な条件をのんで、「はい、そうですか」と全員の右目をえぐり出すわけにはいきません。しかも、突きつけられた契約の返答期限は、七日しかなかったのです。
けれどもこの緊急事態は、青年サウルが初代の王として立ち上がっていく好機として用いられます。やがてサウルの呼びかけに呼応して、三十三万人もの人々が結集し、この難局を跳ねのけるのです。
いつどこで、何が用いられるかわかりません。私たちはしばしば緊張して追い詰められた時、そこから偉大な主のみわざが起こるのを見ます。ハンナがいじめられ泣いて祈った時に、偉大な神の器サムエルが生まれました。ダビデは妻子を奪われ、家来に殺されかけた時、奮い立って勝利が与えられました。
さて、私たちはどうでしょうか。
No.56 一歩退いて
しかしサウルは言った。「きょうは人を殺してはならない。きょう、主がイスラエルを救ってくださったのだから。」
Iサムエル11:13
この時の青年サウルは立派です。戦いに勝利し、名実ともに王となったサウルのもとに、勢いに任せて、「サウルが王であると認めなかった者を殺しましょう」と進言する者たちがあったのです。けれども彼はその声を押さえ、この勝利は神さまがもたらしたものであることと、自分が感情や利己的動機に流されて人殺しをする権力者でないことを、身をもって示したのです。いかにも主にふさわしい品性です。
ところがサウル王、この調子で進めばよかったのですが、後に預言者サムエルを待ち切れずに、分を超えて祭司の務めであるいけにえを自らの手でささげ、離れてくように見えた民の心を留めておこうとする大失敗に陥りました(13:9)。
あくまでも神さまが中心、私たちは一歩退いてよしとすべきです。一歩退くならよし、出すぎて神さまの前を走るようなら危険信号です。
No.57 先回りすると
今にもペリシテ人が・・・・・私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです。
I サムエル13:12
サウルは王に立てられましたが、祭司ではありませんでした。王になった後、この場所で預言者サムエルを待ち、彼がいけにえをささげ、彼に聞いてから行動に移る手はずでした(10:8)。しかし、目前に迫るペリシテ人の脅威と離れていく民の心を前に、いても立ってもいられずに、「思い切って」祭司が果たすべきいけにえをささげてしまったのです。
神さまを押しのけて、先回りしてしまうことが、人にはあります。今しばらく待てばよかったものを、待ち切れず自分の浅知恵で立ち振る舞ったばっかりに、主のみわざを見ることができなかったということが。
イエスさまにいやされた悪性の皮膚病の人が、口止めされたにもかかわらず、それを言って回ったために、イエスさまの伝道計画が狂ってしまった事件を思い出します(マルコ 1:45)。他山の石として自戒したいものです。
No.58 神に叫べ
あなたがたは、アモン人の王ナハシュがあなたがたに向かって来るのを見たとき、あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、「いや、王が私たちを治めなければならない」と私に言った。
I サムエル12:12
イスラエルの民は、エジプトでの苦しい奴隷生活の中で主に叫んで救い出され、カナンに定住の後も東からモアブ人、西からペリシテ人に圧迫されてはそのつど、主に助けを叫び求めて救い出されてきました。
ところが、ここにきて彼らは北のモアブ人の攻撃を前に、王に救いを求めたのでした。ここに単純に神に救いを叫び求めるのをやめ、代わりに王を立て、王制というシステムをもって危機を乗り切ろうとする信仰上の重大な問題がありました。
何でも直接、神に願い、祈っては神を叫び求める単純な信仰の営みを繰り返すのに、疲れてはなりません。
いちいち神に叫び求めなくても済むような手段を求めるのではなく、いつまでも単純に神を呼ぼうではありませんか。
No.59 身を寄せて
主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。
詩篇118:8
イエスさまは、38年間も病に伏している人に向かって「よくなりたいか」と問いかけられました(ヨハネ5:6)。
40年近くも悩みの中にある人に、「よくなりたいか」とは何事でしょう。「そうです。主よ、助けてください」と、今しがた生まれたばかりの乳飲み子が、乳を求めて母親に泣きすがるように、素直に単純に新鮮に、主を呼び求めてやって来る第一声を求められたのではないでしょうか。
八木重吉は29年間の激しく燃えた信仰の生涯の中で、こんな詩を残しました。「人を打つもの/それは巧な知慧ではない/素直な信ばかりだ」(『神を呼ぼう』新教出版社)。
赤ちゃんはお母さんに泣き叫び、お母さんに反応し、お母さんとの単純な関係の中で成長していきます。私たちもイエスさまの名を呼ぶことを、最上の仕事としましょう。巧みな知恵のみに頼らず、一筋の川の流れのように神を思い、神に身を寄せたいと思います。
No.60 内から外へ
さあ、今、主の前、油そそがれた者の前で、私を訴えなさい。私はだれかの牛を取っただろうか。
I サムエル12:3
神に助けを求めるのではなく、王を立てて王に助けを求めようとしたイスラエルの民。冒頭のことばは、その彼らを前に指導者サムエルが言ったものです。相手を責め立てる前に、彼はまず、自らのうちを点検しているのです。「指導者としての権威を笠に着て、迫害したり、わいろを取ったりしたことがあったか。あったなら今、私を訴えるがいい」と。
イエスさまも山上の説教の中で、「偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」(マタイ7:5)と教えられました。
私たちはいつも内側から出発しましょう。外側から押し迫るものに、まず内側から改革の手を広げたいのです。内側にメスが入り、変革を遂げることで、外の世界にもどんなにか大きな影響を与えることでしょう。