こころのビタミンB・バックナンバー

41〜50


No.41 苦楽を共に

 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
     詩篇 23:4

 「そんなうまい人生があるものか」と斜に構えて、詩篇23篇を眺める人もあるかもしれません。しかし、これは絵に描いた「うまい人生」ではありません。そこには「死の陰の谷」もあります。山あり谷あり、数々の試練や苦しみの中で、地に足のついた人生が描かれているのです。
 「わざわい」とは不幸の意味ですが、ダビデの生涯には実に多くの不幸がありました。息子同士の殺し合いがあり、ある息子には反旗を翻され、命からがら逃げ惑って家族の醜態をさらす場面もありました。
 時には叱責のむちも飛んで来ました。人妻を奪い取り、その夫を殺害するという罪を犯して道を踏み外した彼の人生に、神はむちや杖をもって臨まれ、矯正をしてくださったのです。苦楽を共にしてくださる神と歩む人生は、なんと現実味があふれていることでしょうか。



No.42 不思議な平安

 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
     詩篇23:5

 不思議なみことばです。万事問題が解決し、その上でゆったりと食事をしているわけでありません。目前には敵がいます。けれども、彼の心は平安に満たされていました。
 この箇所を読んだ小学生の子どもに、「お父さん、油を注いでも火傷しないの」と聞かれたことがあります。熱いてんぷら油を想像したようですが、ここでの油は、オリーブ油から作られるもので、王が任職される時や、神の祝福を表わす時に注がれるものを指しています。
 ダビデはしっかりと神に握られていました。彼には神がついています。彼を羊飼いから召し、王に任じたのも神ご自身でした。そしてその神が、今再び敵陣を前にして、しっかりと彼をつかみ、「大丈夫だ」と語りかけてくださるのです。だから、何も動じる必要はありません。信頼する方が共にいてくださると知った時、私たちはどの場面でも平安なのです。



No.43 ダビデの賛歌

 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
     詩篇23:6

 ダビデには未来に希望がありました。才能があるからとか、十分な備えをしたからではありません。主が共におられるからです。
 鶏と卵の関係ではありませんが、行く所行く所、後から後から恵みが追いかけて来て、自分の歩む所に恵みが注がれるか、それとも、あらかじめ恵みが備えられている所に一歩踏み出しているのか、わからなくなってしまう。そんな状態が「いのちの日の限り」続く、と彼は確信しています。
 苦しみも悲しみも、自分の罪が引き起こした苦々しい思い出もありました。けれども今、その足跡を振り返った時に、神の慈しみと恵みのみが浮き上がって見え、圧倒されてしまうのです。
 ですからこの詩篇には、人生の悲哀を歌った嘆きの歌ではなく、神のすばらしさを歌った「ダビデの賛歌」の表題がつけられているのではないでしょうか。



No.44 羊飼い

 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
     ヨハネ10:11

 以前イスラエルの荒野で、羊飼いが羊を導くのを見ました。崖下に降りて行ったり、座り込みを始めたり、なかなか言うことをきかない羊もいますので、そうそう甘い顔ばかりしているわけにはいきません。彼は羊を傷つけないよう、手に持った石をみごとにすれすれに投げては立たせ、動かしていました。かつて、羊飼いの少年ダビデが石一発で、巨人を倒した記述もうなずけます。
 ある方から、牛追いと羊飼いの違いを聞いたことがあります。牛追いは、一番最後にいて牛の尻をむちで打ち叩き、痛がって先に進んだ牛の角が前にいる牛の尻を突くかたちで楽に全体を動かすのだそうです。
 ところが羊飼いは、いつも先頭に立って自らの身を盾にし、草むらに潜む蛇に最初にかまれたり、獅子や熊と命がけで戦いながら羊を導くというのです。戦ったり逃げたりできない弱い羊を利用するのではなく、愛して命がけで守るのです。



No.45 手を離せ

 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。
     創世13:9

 よくぞアブラムはこうまで言ったものだと思います。
 神さまの声に従って故郷を離れ、ここまでやって来て、祝福された彼でした。金銀家畜は増え、豊かになった彼とともに旅をしたからこそ、甥のロトの財も増えたのではなかったでしょうか。
 けれども、双方のしもべたちとの間に争いが起こった時に、年上で伯父の立場でもあるはずのアブラムは自ら身を引き、最良の土地を選択する権限をロトに与えました。そして自らは、その残りの土地に甘んじたのです。
 貧しかった時には肩を寄せ合い、パンを分け合って生きてきても、豊かになると、親の財産相続をめぐって骨肉の争いが起こり、裁判沙汰にまで発展したという話をよく聞きます。大切なものを失わないためにも、今しがみついている目の前のものから手を離すことも必要なのです。



No.46 祈ると変わる

 そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。
     創世13:4

 「そこ」とは、べテルとアイの間のことです。アブラムは旅の途中、そこかしこでよく祈りました。その結果はどうでしょう。金銀家畜や使用人が増え、豊かな財を持つようになりました。しかし、彼は、財に執着することなく、自らの心をコントロールするみごとな生き方をすることができたのです。
 人間は、ひとたび豊かな財を手にすると欲に目がくらみ、自分を見失いやすいものです。そのため周囲の人との間に隔壁が生じ、生涯にわたる恨みつらみにまで発展するということは、よくある話です。
 けれども、神の御前に立ってひとり祈り、神の光に自らの姿を照らし、行くべき道をいつも神に問うたアブラムは、親戚同士の複雑で難しい財産がらみの問題にも、適正に処置することができたのです。それは、主がアブラムの祈りの姿勢をごらんになって、彼の心を変えてくださったからにほかなりません。



No.47 落とし穴

 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
     創世 13:10
 
今はなき悪名高きソドムとゴモラの町々も、死海の南端と目される場所に滅ぼされてしまう以前には、ずいぶん栄えていたようです。アブラムの甥ロトは、見た目に惑わされてしまいました。まるで「主の園のように」見えたと記されていますが、ここが曲者だったのです。
 人は見た目に左右されます。今はよくても、将来、必ずや神の裁きが待っていることが、見えないのです。損得勘定から言えば、だれが見てもロトの選択は、賢く得な選択だったでしょう。けれども、それがはたして霊的、また信仰的な意味でどうだったかとなると、話は全く別です。
 普通の人の目から見た賢く得な道の選択が、長い目で見ると、しばしば霊的、信仰的な落とし穴になります。損得勘定から離れた、純粋な信仰による決断が求められるのです。



No.48 この場所から

 ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。」
     創世 13:14 

 「残り物には福がある」ではありませんが、甥のロトが選択した一等地の残りで満足したアブラムは、神さまに祝福されました。一見ベストではない土地から、全世界に及ぶアブラムを通しての神さまの祝福は始まっていったのです。
 詩篇15:4には、真に神さまの祝福を受ける人とは「損になっても、立てた誓いは変えない」人だと書かれていますが、確かにアブラムは一見損と思われる土地に甘んじて、最後には祝福されたのです。
 神さまの働きは、いつどこから何がきっかけで始まるのかわかりません。目前の状況だけでは判断できないのです。
 ですから、がっかりするのはやめましょう。世に言う最高の場所にいなくても、神さまが私たちを祝福してくださるのに、いささかも問題はないのですから。今置かれているこの場所で、神さまの祝福をいただきましょう。



No.49 変化は祈りから

 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。
     マルコ11:25

 祈りとは不思議なものです。祈っていると、今日の生活の中で自分のなすべきことが示されるからです。
 また、祈りは純粋に自分対神さまの関係であって、他者との関係ではありません。ところが、心を注ぎ出し信仰をもって祈っていくうちに、人との関係についても、最初はおぼろげだったものが、どのようにすることが主が喜ばれることなのかが次第にはっきりと示されてくるのです。
 教会員のある方が、朝、「きょう、だれかにイエスさまを証しできるように」と祈ったそうです。昼、会社で出会った人と話をするうちに自然と教会の話題になり、聞いてみるとその人は牧師の家の隣に住んでいるとか。気がついたら、朝の祈りが答えられていたわけです。神さまは祈りを通して私たちの日常生活に介入し、変化をもたらし、見えない御手を現してくださいます。祈りから、生活の変化が始まるのです。



No.50 神の御手

 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
     箴言 3:6

 「靴屋のマルチン」の主人公は、妻子を失ったおじいさんですが、彼が聖書を読む生活を始めると、日常生活のそこここで神さまの導きだと思われる出来事に遭遇するようになりました。たとえば、雪かきをして冷えきった老兵士にお茶を一杯出したり、凍え死にそうな赤ちゃんと母親を助ける場面がそうです。
 私たちの町に住むパン屋を営むKさんは、まだ洗礼を受けて一年ほどですが、最近、町で病気になった人のために祈ったことがあったそうです。すると、その日のうちに本人が店に来てパンを求めていったというのです。ひどく神妙な気持ちにさせられたとおっしゃっていました。ふだんは店にやって来ないその人が、お祈りをした日に姿を現したのですから。
 靴屋のマルチンならずとも、私たちも、日常生活のそこここで神さまの御手を認め得るのです。



No.51 中身で勝負

 しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは・・・人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
     I サムエル 16:7

 神さまが二人目の王としてダビデ少年を選ばれた時のことです。預言者サムエルは、兄たちのほうが背たけや容貌からいってふさわしいと思いました。しかし、主はうわべで判断はしないとおっしゃるのです。
 イエスさまが、弟子たちの前でいちじくの木を呪ったことがありました〔マルコ11章〕。翌朝、その木が枯れていたのを見てペテロたちは驚きましたが、そこで語られたのは、葉を豊かに茂らせて実があるように見せかけながら〔イスラエルのいちじくは、葉が茂る時にすでに青い実がなる〕、近づいて葉をかき分けてみると何も実っていない、いちじくの木のような生き方への警告でした。
 私たちは表面を取り繕いながら互いに生きています。しかし、主は中身をご覧になるのです。うわべを飾るのではなく、中身で勝負する者になろうではありませんか。