こころのビタミンB・バックナンバー

31〜40


No.31 愛の出どころ

 

 「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これがたいせつな第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
     マタイ22:37〜39

 1979年にノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサのことばに、こんな一節があります。
 「キリストは見えませんから、キリストご自身に愛を表すことはできません。でも、傍の人はいつでも見えます。もしもキリストが見えたならして差し上げたいと思うことを、その人たちにするのです」
 彼女にとって、神を愛することと人を愛することとは、別々の次元ではなく、重なり合う一つの道として、調和していたようです。もしもキリストが目の前におられるなら、直接なんでもして差し上げたい。けれどもその方が目に見えない今、主ご自身がしたいと願われたであろうそのことを彼に代わって、彼に対する信仰の告白として心を込めて人に行う。ヒューマニズムの愛とは、愛の出どころが違います。



No.32  二つの顔

 そいうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
     ローマ7:21

 「ジキル博士とハイド氏」(スティーブンソン)は、単純なストーリーの中に人間の本性を突いていると思います。
 富豪の家に生まれ、すぐれた才能に恵まれ、生来勤勉な医師ジキル博士のもう一方の顔は、世にも恐ろしい薬を発明しては服用し、脆弱で顔色の悪い小男に変貌して次々と悪を行うハイド氏でした。下劣で激情に身を任せて悦びに浸るハイド氏となった彼は、ついに路上でステッキを振りかざして老紳士をめった打ちにして殺してしまいます。
 興味を引くのはその後です。慈善家としても有名なジキル博士に戻った彼は、罪を償おうと一層の熱意をもって救済活動に励むのです。
 はたして、罪は善行によって消えるものでしょうか。いいえ、顔とは裏腹に私たちのうちに巣食う深刻な罪の事実は、十字架上で成し遂げられた購いの事実をもってしか、拭い去ることはできないのです。



NO.33  与える生きる力

 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、購いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。
    マタイ20:28

 1983年、日本キリスト教団・日立教会の牧師の娘であった藤崎るつさんがフィリピンのルソン島の海で命を落とされました。大学に留学中の出来事で、溺れかけた二人の友人を助けようとして力尽きたのです。
 日立駅を通過するたびにこのことを思い出すのですが、彼女が卒業した桜美林学園には、写真が飾られ、毎年チャペルで語り継がれているそうです。
 しかし、だれよりも彼女の死を深く胸に刻み込んでいるのは、命を助けられた当人たちでしょう。
 多くの日本人が金にものを言わせて快楽をむさぼり、森林資源を利用するためにやって来る中で、自らの命を与えた日本人がいた。現地に住む人々もまた、このことを決して忘れはしないでしょう。私たちも、奪う生き方ではなく、与える生き方へと変えられたいのです。



No.34 死を超えて

 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
     I テサロニケ4:13

 以前教会生活を共にしたある友人が、五年ほど前、突然二人目のお子さんを亡くされました。急性死幼児症候群とのことでした。
 人一倍子ども好きだったご夫妻は、どんなにか心を傷められたことでしょう。満五ヶ月の誕生日を前に、かわいい盛りだったのです。
 ところが、このことがきっかけとなって、故郷に住む坊やのお祖父さんが洗礼を受けました。愛するわが子の葬儀の席で、「感謝します、感謝します、感謝します、神さま」と自ら選んだ聖歌を歌い、「どんなときにも神を信頼せよ」とのみことばを神に示されたと語る息子夫婦の姿に、お祖父さんははっきりと天国での再会の希望を見て取られたのだそうです。
 死は一時の別れの悲しみではあっても、決して永遠の別離や絶望ではありません。



No.35 死に打ち勝つ

 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。
     詩篇119:71

 食道がんのために天に召されたニュースキャスター山川千秋氏の『死は「終わり」ではない』(文藝春秋)は、ずいぶん多くの人々に読まれたようです。この本には、まるでキリスト教出版社から発行されたかのような、正面切っての信仰の証しと天国への希望が綴られており、多くの日本人に対する宣教の機会になったのではないかと思います。
 この中に、当時14歳の長男に残した遺言が載っています。
 「君の父は召された。君はわずか14歳。・・・・・しかし、冬樹よ、ただ悲しんではいけない。すべては主の御計画によるのだから。しかも私は病気によって、主の啓示をうけ、信仰をもつことができた。これは何よりも、どんなことよりも、貴重であり、すばらしいことだと思わないか」
 死に直面して信仰に至り、信仰により湧き出る喜びをもって、死に打ち勝つ。「死は終わりではない」のです。



No.36  天国の花嫁

 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
     ヘブル 11:13

 明治から昭和にかけて、キリスト教の内外に多大なる影響を与えた指導者内村鑑三は、原因不明の病で娘のルツ子さんを亡くした時、「祝すべきかな、病」と言いました。
 六ヶ月にわたる病苦を通して肉体は滅びたが、彼女の霊魂は純化されて信仰の成熟を見たというのです。
 特に、死の五週間前からはひたすらに信仰に生き、臨終の三時間前の聖餐式では、顔面いっぱいに歓喜を表して「感謝、感謝」を連発し、最期に「もう行きます」と言ってすっと天に旅立ったということです。
 まさにキリストの花嫁として天に凱旋した娘を前に、彼は娘を天国の良縁に出した心地で、不思議な安心と喜びに満たされたのでした。
 「この式を葬儀とはみなさない。ルツの結婚式だ」と語った理由がここにあります。



NO.37 くらげのように

 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。・・・・私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
    ピリピ3:7,8

 内村鑑三は、娘ルツ子さんの死を通して大きな信仰のチャレンジを受けました。信仰者として、すでに政治的、文学的、科学的、また社会的野心を捨て去ったはずでしたが、なおその他の不純な野心が心に息づいていたことを知らされたのです。
 それは、日本の使徒として偉大なる働きを成し遂げようとする宗教的野心、聖書を翻訳して後世に残そうとする野心、さらに慈善行為を行って多くの人々を救おうとする、善行的な伝道の野心などでした。
 あらゆるものを脱ぎ捨てて、キリストの花嫁となって天国を目指した娘の死を目前にして、彼は、自分がしがみついていたものがいかにくだらないものであったかを悟り、深く恥じました。そして、彼はもう一度自分を神の御前に投げ出して、「くらげのごとき者になった」と述べたのでした。



No.38 満足

 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
     詩篇23:1

 詩篇23篇は、世界中の人々に愛されてきた有名な聖句です。多くのクリスチャンが暗唱している箇所ですが、ここには神のみもとにある信仰者の生涯がどんなに幸いなものであるかが記されているのです。ちょうど羊飼いのもとに憩う羊のように。
 「乏しいことがありません」とは不足がない、十分満足しているという意味ですが、これは親のもとで何事も心配していない子どもの姿を連想させます。もちろん、他を見ればもっと豊かな人もいるでしょうし、将来にさまざまな必要も予想されます。けれども、ここに親がいれば大丈夫、そのつど足りないものは満たして養ってくれる、という信頼からくる安心感があります。
 他人と比較をし、だれよりも豊かになることを求めていたのでは、いつまでたっても真の満足は得られないでしょう。私たちは、恵まれた条件のもとに置かれて満足を得るのではなく、信頼する方のもとに身を寄せて心満たされるのです。



NO.39 休息

 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
     詩篇23:2

 親に抱かれる時、全身に力を入れて固くなり、緊張する子どもがいるでしょうか。信頼を寄せている親の腕の中で、力を抜いてリラックスし、安心しきっているものです。羊飼いに導かれた羊も同様です。今日のみことばには、羊が緑の牧場でのびのびと過ごし、休んでいる姿が描かれています。しかもそこには「いこいの水」があります。「いこい」とは、静かな休息を表しています。
 どんなに勇ましく出帆しても、故障した時はいつでも帰ることのできる母港が、船には必要です。私たちも旅に出っぱなしではなく、疲れたらいつでも帰って羽を伸ばせるわが家が必要です。それは、あまりに厳しい人生の荒波の中で、いつでもさっと逃げ込める魂の逃れ場です。
 ふるさとでしばらく休んだ後、再び力を得て厳しい仕事場に繰り出していくように、羊飼いなる神のふところを得て、私たちは再び立ち上がることができるのです。



No.40 義の道へ

 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
     詩篇23:3

 魂の逃れ場に入ること、それは現実からの果てしない逃避を意味するのではありません。神のみもとで十分な休息を得た後、そのいのちはみずみずしくよみがえり、そこから再び人生に繰り出して行くのです。
 神のみもとでいやされない傷はありません。ですからクリスチャンは、後退から一転して、積極的に前進を試みる生き方をすることができるのです。
 羊は珍しく方向感覚のない動物だと聞きました。目先の草を見つけては食んでも、その先どの方角に何があるのかわからず、群れからはぐれて迷いやすいのです。わがまま勝手に進んだ結果は、岩場から落ちてけがをしたり、戻るに戻れず鳴き叫んだり・・・・・。
 けれども羊飼いなる神は、決して私たちを見捨てはしないのです。いやし主なる神は、私たちを義の道へと力強く、着実に導かれる神なのです。