こころのビタミンB・バックナンバー

21〜30


No.21 知らされていない恵み

 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
     I コリント 13:12

 私たちの教会に、ドイツ帰りの素敵な若いご夫妻がおられます。ご主人はドイツ駐在時に、大変な病を患ったということでした。
 ある時、奥さんがこう語っておられました。
 「主人が病気をするとあらかじめ知らされていたら、結婚の決断が鈍ったかもしれません」
 私たちの人生の道程で、来月交通事故に遭うとか、子どもが大病にかかるとか、あらゆる苦しみが事前に知らされていたら、たまったものではありません。
 神さまが支配されている「時」の中で、ある部分が隠されているのは恵みでもあるのです。その先がベールに包まれているからこそ私たちは、結果は神に任せて、この一瞬に賭けて生きられるのです。
 時は、微妙なる神のご支配の中にあるのです。


No.22 仕えて生きる

 あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
     マルコ10:43

 最近洗礼を受けた、この町で評判のパン屋さんと聖書の学びをしていた時のことです。「仕事場で、仕える心を忘れてはならない」と、感想を述べられました。
 「サラリーマンなら、職場で上司や同僚に仕えるというのも想像できるけれど、一人でパンを作る人が人に仕えるとは、具体的にどういうことですか」と問い返してみました。すると、パン屋さんも経験を積んで評判が出てくると、慢心して、「○○時までにパンを持ってきてほしい」というお客さんの注文に、自らのスケジュールを合わせ仕えることに抵抗を感じる時もあるとか。お客さんに仕えてもらうのでなく、お客さんに仕える初心をいつまでも忘れてはならないとのことでした。
 仕える生き方は、どこででも実践可能です。たった一人の職場でも、です。イエスさまは、どの場面でも仕える生き方に徹しておられました。私たちも日々の生活の中に「仕える姿」を刻み込みましょう。


No.23 信仰第一

 あなたの死なれる所で私は死に、そこで葬られたいのです。
     ルツ1:17

 夫を失ったモアブ人のルツ。ここがルツの正念場でした。ここから彼女の生涯は大きく変化していくのです。故郷に帰り、再び人生をやり直すか。ただしそこは、子どもを生きたまま火の中にくべるケモシュの神を拝する偶像の町。ユダヤ人の姑ナオミについてベツレヘムに行き、聖書の神を信じる信仰を全うするか。ただしその地では、ルツは軽蔑されているモアブ人であり、外国人の嫁として肩身のせまい生活が待っています。
 だれもいない所で彼女はナオミに、冒頭の命がけの告白をしました。故郷に帰り再婚して幸せな生活を送る道を捨て、苦しみの待ち受ける、信仰第一の道を選んだのです。だれが聞いていなくても、神がこの告白を見逃すはずはありませんでした。
 ユダヤ人でなくモアブ人でもいい。王の娘でなく、貧しくてもいい。ナザレの貧しい娘マリヤを主の母に選ばれたように、神は、イエスさまの祖先として、信仰のキラリと光るこのルツを選ばれたのです。


No. 24 堅い信仰

 ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと堅く決心しているのを見ると、もうそれ以上は何も言わなかった。
     ルツ1:18

 十年もいっしょに生活したのですから、最初、姑のナオミは、嫁のルツが離れ難いのは情のせいだと思ったでしょう。ところがこの決意が並々ならぬ信仰からきていることを知り、説得をあきらめたのです。
 私たちの教会で洗礼を受けた方が、ある事情から最近、ご主人に毎週礼拝に行くことを禁じられてしまいました。相談を受けた牧師の私は弱気になり、毎月一回の礼拝出席妥協案を示しました。すると彼女は、「礼拝に出ない生活は大きな支障をきたすので、どうしても毎週来たい」と告白され、ご主人への説得を再び試みるとの返答でした。牧師の私は恥ずかしくなりました。
 人生の基礎にまず堅い信仰を据えましょう。信仰がはっきりしないのでは何も起こらないし、期待できないのです。信仰の姿勢が定まった時点で、嵐のような試練にも耐え、その先に用意されている祝福をもいただく新しい旅路が始まるのです。


No. 25 人生を投げない

 どうぞ、畑に行かせてください。・・・・・・落ち穂を拾い集めたいのです。
     ルツ2:2

 十年にわたる外国での生活で、夫とふたりの息子を失ったナオミは、故郷のベツレヘムに戻りました。ナオミとは、日本の名前なら幸子さんとでもいうのでしょうか。しかしもはや幸せとは縁遠い彼女は、自分の名前を幸子とは呼ばずに「苦しむ」(マラ)と呼んでほしいとまで言っています。(1:20)。
 ところがです。モアブの国から共に来た嫁のルツは、決して人生を投げ出さず、捨て鉢にならなかったのです。彼女は自ら落ち穂拾いの仕事に出ることを申し出ました。初めてのユダヤ人の社会で、どんなにか肩身のせまい思いをしたことでしょう。白い目でも見られたかもしれません。けれども、そんな彼女の生き方が、この家に大きな祝福をもたらす呼び水となりました。後に彼女は、町の女たちから、「七人の息子がいるよりも、この嫁が一人いるほうが勝る」(参照4:15)とまで言われるのです。
 どこまで落ちても、人生、投げやりにならないことです。


No.26 仕える生き方

 彼女は、「どうぞ、刈る人たちのあとについて、束の間で、落ち穂を拾い集めさせてください」と言い、ここに来て、朝から今まで家で休みもせず、ずっと立ち働いています。
     ルツ2:7

 ルツの健気に働く姿は、次第に村中の評判になりました。
 外国人の嫁でありながら、どのユダヤ人の嫁もここまではできないという姿勢で働き、さらに、一つ屋根の下でお姑さんにもよく仕えていたのです。白い目で見るどころか、脱帽です。
 後に結婚に導かれる素敵な男性ボアズの耳にも、すでに評判は届いていました。「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています」(2:11)
 仕える生き方は、最後には勝利します。天から地に下り、徹底して仕える生き方を全うされたイエスさまの祖先に、仕える女性ルツこそ、最もふさわしかったのです。


No.27 仕えに仕えて

 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。
   ピリピ2:6,7

 私たちの教会に、かつてお姑さんから信仰を反対された方がいました。それで彼女はどうしたか。嫁として、心を込めた完璧な家事炊事を心がけ、仕えた末、理解とゆるしを得たとのことです。
 以前、四国のある教会で、元校長先生の葬儀に立ち会ったことがあります。昔は大のキリスト教嫌いだったそうですが、奥様の、長い祈りと仕える証しの生活が、最後にはご主人の心を溶かしたようです。召される一年前に信仰をもたれ、それからは手のひらを返したように熱心な信仰者となられたのでした。
 私が牧師になって最初に洗礼を授けた婦人は、信仰をもってから、職場から帰って来るお嫁さんに真心からお茶を入れるようになったそうです。お姑さんが逆にお嫁さんに仕える姿もいい。
 いずれにしても、仕えて生きてみることです。


No.28 誠実な人柄

 しかし、私よりももっと近い買い戻しの権利のある親類がおります。
     ルツ3:12

 ルツもボアズも、お互い人を見る目があったようです。ボアズは決して若々しいとは言えませんが、ルツは、他の若い男性には目もくれず、誠実なボアズに心ひかれました。
 ボアズも、密かに心寄せる女性ルツが、夜中にひとりでやって来て求婚したというのに、指一本触れた形跡もなく、欲望に流されずに自らをコントロールする生き方を身につけていたようです(13節)。
 さらに彼は、自分より先にルツと結婚する権利の立場にある親類がいることを彼女に伝えました。その男性にきちんと話をつけた上で、だれからも後ろ指をさされることのない正式な手続きを経た後に、結婚へとこぎつけます。
 若々しくはあっても、情に流され、はやる心を押さえ切れない人ではこうはいきません。派手さはなくても、誠実でなかなか味わいのあるボアズの人柄がうかがえます。こんな二人が結ばれて、祝福されるのは当然といえましょう。


No.29 祝福から祝福へ

 あなたを愛し、七人の息子にもまさるあなたの嫁が、その子を産んだのですから。
     ルツ4:15

 ルツは素敵な男性ボアズと結ばれて、幸せな結婚生活をし、赤ちゃんが生まれました。そして村の女性たちは、姑のナオミにこのような祝福のことばを述べたのです。普通ならどうでしょう。外国から来た女性が、素敵な男性を射止めたら、同性からはその幸せを妬んで皮肉ったり、やっかんだりする声も聞こえてきそうです。しかしルツは、同性から、このような心からの祝福を得たのでした。
 彼女は故郷を捨ててまでも、信仰を第一にしてここに来て本当によかったと、赤子を抱きながらどれほど実感したでしょうか。そして神は、この子がやがてダビデ王やイエスさまの祖先となるという祝福まで用意しておられました。ルツは、自分の名が新約聖書の第一ページに載り、ルツ記として旧約聖書に記に組み込まれ、世界で多くの女性がルツと名付けられるようになるなどとは、想像だにしなかったでしょう。
 神さまの用意されている祝福は大きいのです。



No.30 すべての人の救い

 義人はいない。ひとりもいない。
     ローマ3:10

 小学校六年生の女の子が、校舎の三階から飛び降り自殺を図り、死に切れずに、あごと腕の骨を折るという事件が起きました。最近では珍しくないいじめが原因ですが、なんとも痛ましい話です。
 その頃クラスでは、誰かを無視する悪趣味なゲームがはやっていて、あまり協力的でなかった彼女があることから攻撃の的となり、皆から無視される恐怖を味わうはめになったとのことでした。日本では、死ぬより怖いとされる村八分。仲間外れのいじめの恐怖は、時に子どもの世界のほうが露骨で残忍なようです。
 子どもの世界は純真無垢で、人は大人になるにしたがって汚いものを身にまとうなどという人間理解は当てはまりません。人は、民族、年齢、性別にかかわりなく、皆、内に恐るべき罪を秘めているのです。それゆえに、全人類が生来抱え持つ、そんな罪の性質の身代わりに十字架についてくださった救い主イエスさまが、すべての人に必要です。