こころのビタミンB・バックナンバー

11〜20


No.11 飛び込んで来られた


 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。
     ピリピ2:6,7

 テレビから流れてきたのは、冬のアメリカで起きた飛行機事故の場面でした。
 氷の張る川にひとりの女性が浮かんだり沈んだりしています。やっとのことで上空に救助のヘリコプターがたどり着くと、ロープの着いた浮輪が投げられました。しがみついた彼女を見て、私も救われたと思いましたが、次の瞬間、引き上げたロープに反して、彼女の体は再び川の中に沈み始めたのです。自分の体重を支えるだけの力が残っていなかったようです。
 と、その時、川岸で見ていた男性が服を着たまま、突如、凍りつく川に飛び込みました。人々が息をのんで見守る中、彼女の元に泳ぎ渡り、沈みかけていた彼女を救い上げて、わきに抱えながら再び岸にたどり着いたのです。
 罪人の世界にいのちを賭けて飛び込んで来られた、イエスさまのお姿を彷彿とさせられました。

No.12 聞こえないアーメン

 彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。
     ヘブル11:16

 ひとりの婦人が天に召されました。最後は壮絶な闘病生活でした。喉に管が通され、声が一切出ません。それでも彼女は、出ない声の向こうから、大きな発音のジェスチャーで「アーメン」と唱えるのです。祈った後や、帰り際のあいさつの時には、決まって、大きく口を開けて「アーメン」と。
 その病院に勤務しているクリスチャンのお医者さんは、「大きな声のアーメンも素晴らしいが、あの方が聞こえない声で唱えるアーメンも感動的だ」と語っておられました。
 彼女にとっては、紆余曲折のある苦しみの多い生涯だったかもしれません。しかし、だからこそ、全身の自由も声も奪われた病床で、何とも味わい深い「アーメン」が、生涯の信仰告白の結晶のようにして生まれたのではないでしょうか。
 さながら、苦しい肉体を地上に脱ぎ捨てて、天の都に旅立つ、魂の凱旋歌のようでした。

No.13 罪人の性質

 ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。
     創世記 9:21

 信じられない光景ではありますが、これもまた、信仰の人ノアの偽らざる一面でした。あの大洪水のさばきの中、箱舟に乗って、神の見事な救いを経験した彼でした。けれども悲しいかな、そのノアもまた人の子。酒に飲まれて我を忘れ、羽目を外して子どもたちの前で裸になり醜態をさらす、紛れもない罪人でありました。
 私の住む田舎町でも、時代の波は押さえようもなく、田舎の人は純朴でいいとばかりは言っておれないようです。スーパーには大きく、こんな貼り紙が掲示されています。「万引きは犯罪です。」これは子どもに教えているのではありません。漢字で、高校生やれっきとした大人に訴えかけているのです。
 情けない話です。盗みは罪だと教えなければ、罪意識を感じない時代になりました。「赤信号、皆で渡ればこわくない」式に、どうしても時代の風潮や、相対的価値観から免れ得ない私たち。そのつど、神の御前に立ち、自らの姿を点検しましょう。 

No.14 悪趣味にストップ

 カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。
     創世9:22

 人間の社会は複雑です。その原因は、どうしても罪を犯したり失敗してしまう人間にありますが、それをまた、吹聴し広げて楽しむ、人の心の悪趣味にも起因しています。
 ノアは、酒を飲んで醜態をさらしました。しかし、問題を大きくしたのは息子ハムの対応です。彼は何も、父の恥ずかしい姿を、人に面白おかしく宣伝する必要はなかったのです。正気に戻ったノアが、「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ」と怒りをあらわにしたのもうなずけます。それが、父親のことを真に思いやった行動でなかったことは、だれの目にも明らかです。
 テレビをつけると、どの芸能人が離婚しただの不倫しただのと、人々の興味や関心をくすぐる番組があふれています。身の回りの井戸端会議でも、近所の人の陰口、うわさ話などがはびこっています。神を知る私たちは、心に巣くう人間の悪趣味にストップをかけたいものです。

No.15 口に口輪を

 私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないために。私の口に口輪をはめておこう。
     詩篇39:1

 これはダビデの詩篇ですが、彼は自分の口が危ないことをよく知っていたようです。確かに私たちの鼻や耳は問題を起こしませんが、口はなかなかの曲者です。
 英会話の教師として来日したアメリカ人の神学生に、「日本は、表面は和気あいあいで仲の良い社会に見えるけれど、学校などでは、陰湿な形でのいじめが横行していると聞いた。実際はどうなのか」と問われて、身のすくむ思いをしました。
 「もう学校へ来るな」とか、「汚い」「死んでしまえ」などと辛辣なことばを浴びせられ、最後には傷つき疲れ果てて自殺してしまった中高生のニュースをよく耳にします。確かにそれらは法律には抵触せず、殺人犯で罪に問われたりはしません。しかし、彼らはことばによって死に追いやられたと言えなくもありません。ことば一つが人を殺すことさえあるのです。ダビデのごとく、時には自分の口に手を当てたいものです。

No.16 ことばも転換

舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。
     ヤコブ 3:6 

 私たちの口から発することばが、人生をだめにすることがよくあります。言わなくてもいい一言を言ってしまったばっかりに、生涯、だれかから憎しみをかってしまうことが珍しくありません。耳や鼻が問題をこじらせ、人生を複雑にするということはないのですが、私たちの口はしばしば問題を起こします。
 イエスさまは、平和の使者としてもこの地上に来られました。呪われたら呪い返し、ののしられたらののしり返す、どうしようもない人類のことばの応酬の歴史に終止符を打つかのように、いまわの際、あの有名なことばを発せられたのではないでしょうか。
 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)。
 「賛美とのろいが同じ口から出て来るのです」(ヤコブ3:10) と指摘される生き方から、決別したいものです。

No.17 人生の火消し役

 それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。
     創世記9:23

 ある方が、ここは聖書の中で最も美しい場面の一つだと話していました。
 酔いどれて裸になってしまった父ノアに、後ろ向きでそっと近寄り、恥ずかしい姿を着物で覆い包んだ、ふたりの息子の精一杯の思いやりです。
 もしも、ノアが正気に戻って自らがさらした醜態を知り、息子たちがそれを面白おかしく眺め楽しんだとあっては、どんなに打ちひしがれることでしょう。ふたりは断じて振り向かず、優しく父の失態を包み込んだのでした。
 後にノアは、「神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように」と語り、彼らのとった行動にどれほど助けられ力づけられたかをうかがわせています。
 私たちはだれも失敗せずには生きられません。反対に、人の失敗を広げて喜ぶこともできます。けれども、それを覆い包み、火消しをしていくこともできるのです。

No.18 重荷を負い合う

 互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。
     ガラテヤ6:2

 私たちは、助けたり助けられたりし合わなければ生きていけない存在です。しかし、助けられても助けようとはしない、受けることは喜んでも与えることを渋ってしまう自己中心性に端を発して、数々の問題が生じる場合があります。
 果たして私たちの信じる神さまは、私たちが重荷を負って苦しむ時に、「転べ転べ」と意地悪く天から見下ろし、追い討ちをかけて引き倒し喜ぶようなお方でしょうか。いいえ、私たちを支え助け、共に歩み苦しんでくださるお方です。
 その証拠に、神のひとり子イエスさまはついに人となってこの地上に来られました。そして、私たちと歩みを共にし、最後には私たちの一切の罪と重荷をその身に引き受けて、あの十字架上で見事に清算してくださったのではないでしょうか。
 この救い主が私たちの重荷を負われたように、私たちもだれかの重荷を負わせていただく者となりたいのです。

No.19 日常生活に働く神

 あるとき、サウルの父キシュの雌ろばがいなくなった。
     I サムエル 9:3

 サウルが初代イスラエルの王になったきっかけは、家のろばがいなくなったことでした。彼は父の命に従って雌ろばを捜し歩くうちに、気がつくと神の人サムエルが住む町の近くに導かれていたのです。そこで彼はサムエルに会い、自分が王として立てられていることを知りました。
 出エジプト記にあるように、火の柱、雲の柱が現れて、忽然と奇跡が起こるのも素晴らしい導きです。けれども、日常生活の何の変哲もない些細な出来事の中にも神の御手を認め、細き御声を聞き分け得るのは、なんと味わい深い体験でしょう。
 以前ある教会を訪ねた時、その教会の基礎を築かれた九十歳を過ぎたおばあさんに会いました。その方がお嫁に来て家庭集会を開いたことから、教会が生まれたとのことでした。いつどこで、私たちの身の回りの何が用いられるかわかりません。神の導きは、どこか遠くの世界に用意されているのでなく、日常生活のそこかしこにちりばめられているのです。 

No.20 時を用いる神

 あしたの朝、私があなたをお送りしましょう。あなたの心にあることを全部、明かしましょう。
     I サムエル 9:19

 青年サウルが、突然王様になるなどと告げられても、受けとめきれるものではありません。寝耳に水です。そこで神さまは、時を用いられました。まず、三日前にろばがいなくなり捜し歩く(三、二〇節)。前日には預言者サムエルの耳に、明日サウルがやって来ることをあらかじめ知らせておく(十五、十六節)。そして出会いの当日は会食にとどめて、いよいよ翌日、サウルが王へと導かれている旨が伝えられる(二二〜二七節)。
 幾日もかけて絶妙な時を駆使しながら、神さまは一つひとつサウル青年の心を解きほぐすようにして御旨を知らせました。微に入り細に入った導きです。
 私たちの人生も、一気に山頂には達しません。まずは麓を出発して、一合目を目指します。そこに達したら次は二合目です。そしてやがて八合目に到達した時点で、そこから山頂を仰げばいいのです。神さまが備えられたステップを踏みながら、人生の山頂を目指したいものです。