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避難生活報告



避難生活報告 その19

幸せのハードルが低くなったことは、間違いありません。雑魚寝でも、布団に横になれることの有り難味から始まって、缶詰や暖かいものを口にできる感動、何より生かされたことへの感謝です。あの、福島県浜通りの6号国道や仙台へ向かう海の道は、私も頻繁に通り、特に今回水没した仙台空港へは、よく海岸ぎりぎりの道を運転しました。3月11日の震災のあの日あの時間、私が津波に遭遇していてもおかしくありませんでした。仙台空港にいて、孤立無援状態になっていたとしても。私は、生かされました。

また先週、一泊で各地に散っている信徒を訪問し集会を開いた際に、教会員のお宅でこたつに足を入れテレビのニュースをかけ、新聞を開き朝食をいただきました。一ヶ月半ぶりです。このお茶の間でくつろぐ何ともいえない雰囲気。ゆったり感。ありきたりでも、ひどく懐かしい日常の風景がよみがえりました。そこでいただいた朝のお茶の一杯と味噌汁のおいしかったこと。家内ともども、しあわせを味わってしまったのでした。東京で待つみんなを尻目に、こっそりと、内緒で、家内と二人だけ。

ところでその際、どうしても教会で必要な印鑑や通帳を取りに、私たちは足を伸ばし初めて震災後の故郷に入りました。上から下まで真っ白な防護服を着て、結構な緊張感を持って。桜がきれいに咲いていました。教会のしだれ桜は、いまだかつてこんなに咲いたことがないというくらい、咲き誇っていました。犬は道路に寝そべり道を空けず、牛たちは、まるで宇宙服に身を固めた人間の再来を、けげんそうに横目でじっと見つめていました。

そういえばこの牛たち、教会の隣は牛舎なので、何とか放射能が降っても生き延びるようにと飼い主が放したのでしょうが、ある時、原子力発電所で働く教会の方が教会を見に行くと、なんと18頭もが教会の庭にいたという話を聞きました。「えーっ」牛のため、2年前新会堂を建てたのではないのに。仕方がありません。こうなったら、牛でも犬でもたぬきでも皆に教会を守ってもらいましょう。

さりとて、あの教会の庭に本当にもしも18頭もの牛がいたら、どうしようと少々どきどきもしました。牛は確かに教会の隣の牧草畑で、この間なにごともなかったかのように草を食み、じっと私たちをみつめていました。「おかえり」と言うよりも、さも「おい、変わった動物が来たぞ。ずっと昔、見たことがあるような気がする。」顔を見合わせ、そんな目配りをしているようにも見えました。

桜も、人がいようがいまいが関係なく咲き誇り、動物たちももしかしたらこの方が道路は自由に歩けるし、交通事故で死ぬことはないしいい、と言わんばかりに闊歩しているようにも見えました。そういえば花たちも、木の下で花見と称し、羽目をはずす目に余る人間の喧騒がないほうが静かで、自然で、はるかにいいと物語っているようにも見えました。人間の人間中心もきわまって、「人間に見られない桜がかわいそうだ」などと、鼻持ちならない傲慢をそこら中に撒き散らしたため、もしやして神がいったん人間をエデンの園ならぬ神が造られた世界から退場させられたのかもと、まんざらありえなくもないことと、はなはだ息苦しい防護服の中から頭をよぎったのでした。

これは妄想でしょうか、あるいは、正夢でしょうか。はたまた、バベルの塔かソドムとゴモラの再現でしょうか。いや、イザヤ書11章に預言されている救い主イエスの登場によって救われるべき世界の幕開けと受け止めましょう。

「エッサイの根株から新芽が生え、

 その根から若枝が出て実を結ぶ。

 その上に、主の霊がとどまる。

 それは知恵と悟りの霊、

 はかりごとと能力の霊、

 主を知る知識と主を怖れる霊である。

 この方は主を恐れることを喜び、

 その目の見るところによってさばかず、

 その耳の聞くところによって判決を下さず、

 正義をもって寄るべのない者をさばき、

公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、

 口のむちで国を打ち、

 くちびるの息で悪者を殺す。

 正義はその腰の帯となり、

 真実はその胴の帯となる。

 
   狼は子羊とともに宿り、

 ひょうは子やぎとともに伏し、

 子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、

 小さい子どもがこれを追っていく。

 雌牛と熊とは共に草をはみ、

 その子らは共に伏し、

 獅子も牛のようにわらを食う。

 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、

 乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。

 わたしの聖なる山のどこにおいても、

 これらは害を加えず、そこなわない。

 主を知ることが、

 海をおおう水のように、地を満たすからである。

(イザヤ書11章1〜9節)

         

エッサイの根株から、ダビデ王の子孫として、救い主イエスがお生まれになると、彼はやがて全人類の王としてこの世界をさばき、治めます。するとそこに、不思議な世界がもたらされます。何と、狼が子羊とともに宿り、襲われたり、傷つけられたりせず、ひょうも子やぎとともに平和裏に過ごし、子牛とライオンがともにいてその後を小さい子供が追っていくというのです。このような光景は、いまだかつて見たことも聞いたこともありません。ライオンは、そこでは草食になり、雌牛も熊も一緒に草を食べ、果ては乳飲み子がコブラの蛇の穴の上で遊び、乳離れした子はまむしの子に手を差し出しているという、信じられない光景です。

それこそ、神の「聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を持たす」世界の到来です。そうなればいい。果てしない大海のように、主を知る知識が、信仰が、地を満たせばいい。かなり人間は、ひとり人間は、自信が過ぎていたかもしれません。もしかしたら、正視に堪えないまでに鼻持ちのならない領域に踏み込んでいたのかもしれません。そんなことを、防護服の中からすっかり変わり果てた人の消えた世界を見渡し、故郷に残された草花や動物たちを観察し、なんだかこれまでこの世界を我が物顔で歩いていた人間ひとりが際立って浮いていたような、異様な営みをしていたような気がして、果たしてどちらが本来あるべき姿だったのだろうかと、考えさせられてしまったのでした。

人も家畜も草花たちも、だれもだれかを支配するのではなく、だれもだれかの上でもなければ下でもない、人間世界がいつの間にか勝手に累々と築き上げてきた砂上の楼閣が、いったん一挙に崩されて、もしかしたらこれはほんとうに新しい世界の幕開けだろうかと錯覚しそうになりました。これは、防護服が息苦しかったせいでしょうか。妄想でしょうか。

ところで、残された動物たちのたくましい武勇伝(?)も耳にしました。教会を守る18頭の牛たちと、久しく目にしなかった人間が運転する車に最後まで道を譲らなかった骨のある犬の話はすでにしました。ある方は、家においてきた猫を案じて扉を開けると、冷蔵庫をあけ食料を確保し、ちゃんといのちをつないできた飼い猫が野生化し、勢いよく家から飛び出ていったそうです。またある方は、檻に入れたまま置いてきた犬がほとんど白骨化しているかと思いきや、ちゃっかり飼い主の家に上がり込み、家の中の食料をしっかり食べながら、生きていたというのです。

 そこに残った人々の話も聞きました。ある地区では、風評被害に負けないとばかりに、洗濯物は気にせずばんばん外に干し、畑を耕し、作付けにいそしみ明るく生活していると。私たちも、へこたれず、柳のようにしたたかに、しなやかに、たくましく生きていこうと思います。故郷のあの牛たちを見よ。人間がいようがいまいが、きれいに咲き染めた花々も。そして何より、その一切の背後におられる神に。

 

「人の歩みは主によって確かにされる。

  主はその人の道を喜ばれる。

  その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。

  主がその手をささえておられるからだ。」(詩篇37篇23〜24節)


私たちの歩みが、どうかあなたの目にかなうまで、私たちを練りきよめてください。そして、あなたがおられるからなにがどうなっても大丈夫と、至極当然のこととして答える者としてください。

皆様のお祈りとご支援、感謝します。                        4月26日  佐藤彰

避難生活報告 その18

怒涛の日々が、過ぎていきます。先週は、救急車が連日のように来て、病院に運ばれたり、入院された方もいました。1ヶ月が過ぎ、疲労も蓄積しているのだと思います。個室といっても、集団生活に変わりはないので、我が家のようにはいきません。毎日訪ねてこられる方も多く、気がつくと一日が終わっています。飛び交う情報を横目に、目の前のことで手一杯の日々です。

今朝一組の若い夫婦が、アパートを見つけ新しい職場に旅立ちました。今週、もう一組も出発します。もしかしたら、新しい土地に住みそのまま私たちとのこれまでの教会生活に、ひとまずのピリオドを打つことになるかもしれません。寂しいですが、新しい旅立ちを祝福しましょう。他方先週は、2組の夫婦ともう一人、計5人が入居されました。この先さらに2組が来られる予定です。別れと出会いが交錯しています。ここは、人生の旅の縮図の十字路でしょうか。まるで心臓が鼓動するように、肺が呼吸するかのように、私たちは悩んだり、迷ったり、傷ついたりしながら、いのちの営みをしています。

昨日礼拝で、津波に流された姉妹を偲び思い出を語り献花するときと、洗礼式をもちました。メッセージの中では、大正12年9月1日関東大震災の際に作られた、聖歌397番「遠き国や海の果て」を紹介し歌いました。当時、明治学院の運動場で、宣教師J.V.マーティン氏が、被災し身を寄せる日本人の中に見た十字架を歌った賛美歌です。

   

  「遠き国や」

1.遠き国や海の果て いずこに住む民も見よ

  慰めもて変わらざる 主の十字架は輝けり

  慰めもてながために 慰めもて我がために

  揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝けり

2.水はあふれ火は燃えて 死は手広げ待つまにも

  慰めもて変わらざる 主の十字架は輝けり

  慰めもてながために 慰めもて我がために

  揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝けり

3.仰ぎみればなど恐れん 憂いあらず罪も消ゆ

  慰めもて変わらざる 主の十字架は輝けり

  慰めもてながために 慰めもて我がために

 揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝けり

 彼の目に、東京白金の明治学院に集まった人々に配られた蚊やとその中でともされるろうそくのともし火が、暗闇を照らす十字架に映ったようです。「いずこにある国民も、はるか遠い海の向こうで起こった、大震災を見よ。揺れ動く地に立ってなお、輝ける十字架を」。関東大震災は、大火をもたらしました。多くの人が川や池に飛び込み、その上にさらに人が飛び込んだため、ある人は沈み、あるいは下敷きとなって亡くなったそうです。遺体は東京湾にまで、流れ着きました。「水はあふれ火は燃えて、死は手広げ待つ間にも、慰めもて変わらざる主の十字架は輝けり」。9月1日の東京はまだ暑く、一瞬にして焦土と化したまるで戦後のような光景の中で、蚊やが人々に配られ、その中でろうそくの灯が灯されると、まるで十字架が暗闇を照らしているかのように見えたのです。

私たちもこの受難週、イエスの十字架を見つめました。かつてマーチン氏が、関東大震災で被災した人々の中に輝く十字架に、慰めと希望を見出したように。事実、ある姉妹は避難所生活が限界に達しひとりで祈りをささげていると、私たちの教会のホームページを見て尋ねてこられた近隣の教会の方に出会い、絶妙のタイミングで神の慰めを体験したとあかししておられました。また、他の姉妹はご主人の入院先で不思議にクリスチャンやクリスチャンとかかわりのある人々に出会い、果ては初対面の牧師さんに病室でお祈りしていただく恵みにまであずかったと、嬉しそうに話されました。まるで神様に取り囲まれているようです。皆で肩寄せ合って生活しても、ひとり心細くじっとしているようでも、主の十字架は変わらずに闇の世界を照らし、被災した私たちを包んでいます。

失ったから得るのでしょうか。多くのものを失い、私たちはこれまで以上に主イエスを見つめ、慕い、兄弟姉妹の結びつきの強さを実感しています。

ところで、50歳で津波に流され天に召された姉妹を偲び歌った聖歌は687番でした。

「まもなくかなたの」

1.まもなくかなたの流れのそばで 楽しく会いましょう また友達と

  神様のそばのきれいなきれいな川で みんなで集まる日のああ懐かしや

2.水晶よりすきとおる 流れのそばで 主を賛美しましょう みつかいたちと

神様のそばのきれいなきれいな川で みんなで集まる日のああ懐かしや

3.銀のように光る 流れのそばで おめにかかりましょう 救いの君と

神様のそばのきれいなきれいな川で みんなで集まる日のああ懐かしや

4.よいことを励み 流れのそばで お受けいたしましょう たまのかむりを

神様のそばのきれいなきれいな川で みんなで集まる日のああ懐かしや

 

ここでは、聖書ヨハネの黙示録22章に記された天の御国の光景が謳われています。そこには主の御座から流れ出る水晶のように光るいのちの水の川があって、川の両岸にはいのちの木が実を実らせています。さらには「その木の葉は諸国の民をいやした」と続き、21章の「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なざなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」を彷彿とさせます。

この歌を歌いながら私は心の中で、あの姉妹は天のいのちの水の川のもとに引き上げられたのだと想いました。津波を目の前にして、彼女はどんなにか恐怖だったでしょう。けれども、あれほど家族を愛し、ぎりぎりまで仕事をし、誠実な奉仕をささげ、涙の祈りとともに教会に通った彼女は、決して津波に押し流されて地上の生涯を果てたのではなく、天の御国にとうとうと流れるいのちの水の川の岸辺にまで、一挙に引き上げられたのだと。だから私たちも、歌いましょう。賛美歌、聖歌の一節一節を、それぞれの人生の道のりに重ね合わせて、じっくりと、味わい深く、かみしめながら。 

避難生活報告 その17


  昨日、大阪から戻りました。桜が満開でしたが、不思議に悲しく映りました。悲しみの深い河が流れています。どこに行っても、何をしても、まるでガラスに悲しみが写るように、すべてが悲しみをたたえているように見えます。震災の前と後で、心の中が一変してしまったのでしょうか。

 昨日、悲しい朝を迎えました。連絡が取れなかった教会員が、津波で亡くなっていたことがわかったのです。あの時間、海岸近くの国道を車で走っているとき津波に襲われたとのことでした。急遽、副牧師と伝道師たちが現地に向かいました。明日はこのキャンプ場でも偲ぶ会を並行して持ちます。深い悲しみの河が流れています。すべてが喪に服しているように見えます。

 受難週だからでしょうか。それとも、震災の傷がうずくからでしょうか。私の周りに映る世界のすべてが悲しみをたたえているように見えます。きっと、震災直後の受難週だからでしょう。

 ペテロ第一の手紙のあて先のひとつである、現トルコのカッパドキア地方のクリスチャンたちは、後に迫害を逃れて地下にもぐりました。洞窟で長らく共同生活をするうちに、きっと病気をして危篤になったり、あるいは亡くなって埋葬をするということもあったはずです。初代教会の散らされて旅を続けた人たちも、病気やけがを繰り返したかもしれません。もしかしたら、旅の途中で亡くなったり埋葬したりということも。ノアの箱舟にしても、中で一ヶ月以上過ごしたわけですから、多くの動物たちの世話をするうちに、きっとさまざまなことに直面したはずです。

 非日常の旅の生活が続くと、寝たり起きたり食べたりという日常の営みがほどなく表面を覆います。しかし深層は、傷ついたままのガラスのようなこころを土台にして貼りついています。ちょっとのことで、心は折れ、衝撃も増幅します。

 しかし、この非常時の日常化も、いつか初代教会やエジプト脱出の民たちがたどった行程なのでしょうか、処刑を前にして投獄されていたパウロを訪ね、ピリピ教会から派遣されたエパフロデトも、旅先のローマで自ら病をわずらい、逆にパウロの世話になったりしています。私たちは今、いつか誰かが通った道の上を歩いています。

 初代教会と言えば、半端でない走行距離を幾度も歩いて旅しています。散らされた人々を尋ね、或いは新たな地を開拓しながら。今回、葬儀のために福島に遣わされたチームは、火葬場が混んでいたため、3日間の滞在となりました。その間、散らされた教会員を尋ね、各地で集会を持ち、大変喜ばれているとのニュースが届いています。泊まっている信徒宅を訪ねてくる兄弟姉妹もおり、密度の濃い時間を過ごしているようです。母体になっているこちらにも、嬉しいニュースです。どうやら困難は、結びつきをいっそう強くし、ほんとうに大切なものを浮き彫りにするようです。

 「遠い国からのよい消息は、疲れた人への冷たい水のようだ。」箴言25章25節

ところで、今度の礼拝では天に召された姉妹を偲び、思い出を語り献花をします。同時に、洗礼式も行う予定です。「その次のイースターではどうですか」とも話しましたが、どうしても今日ということで、受難週のバプテスマとなりました。震災の混乱の中、いつものような告別式はできません。しかしせめても手作りで祭壇を作り、心のこもったお見送りの式をする予定です。そしてその席で、十字架と同時に復活をも高らかに宣言するバプテスマ式も行うことにします。キャンプ場の風呂場を借りて、まるでここがかつてイエスが立たれたヨルダン川であるかのようにして。

大阪から戻り、つくづくここが箱舟であることを実感しています。東京にある、不思議な森のキャンプ場です。まるで神様の手のひらが、私たちの傷をいやすかのように、自然が私たちを包んでいます。私たちは日ごとに父なる神のやさしさを浴びて、悲しみの中にも、よろこびを見出しています。

 受難週のバプテスマもいいものです。苦しみがあっても希望をたたえ、ひと足早くイースターのお祝いもしましょう。私たちは弱いから強くて、何もないからすべてのものが与えられるのですから。

 ハレルヤ。              

4月14日(木)

避難生活報告 その16
     4月8日金曜日

私たちは今週、日常を取り戻しました。朝7時に子供たちは食事をし、近所の子供たちと一緒に学校へ行きました。初日に、どきどきしながら中庭で待つ子供たちの緊張が伝わってくるようで、みんなが親になった気分で写真を撮り、祝福を祈って「いってらっしゃい」と声をかけました。「ただいま」と声がし、ほどなく遊び声が聞こえるのもいいものです。久々の日常に出遭ったようで、この瞬間だけ見るとまるで震災などなかったかのような、不思議な気持ちになります。何気ない日常がこんなにもいとおしいとは、これも震災のもたらした効果でしょうか。

4月3日の奥多摩での最初の日曜礼拝には、7,80名が集ったでしょうか。東京ということもあって、近郊に避難している教会員も家族とともにかけつけました。すでに書いたことですが、今回の震災でつくづく教会はすごいと思いました。建物が閉鎖し、信徒が散らされ、組織も規約も年間プログラムも役員会も無くなる中で、それでも教会は生き延びました。キリストの教会は、押されても、散らされても、決して消滅することがないことを知らされたのです。

正直なところ私は、地震と津波に追い討ちをかけるように原発事故が起こった当初、宣教の歴史もここで幕を閉じるのだと思いました。町が放射能に汚染され人々が消えたのでは、地域とともに立つ教会も存在しないと考えたのです。70年にわたるあの地域での宣教の歴史に、こんな形でピリオドを打つようになろうとは、思ってもいませんでした。やりきれない思いを胸に、これも現実と受け止め、あとは信徒の就職の世話と、それぞれの転居先にある教会に受け入れを依頼し、働き人を他の教会に紹介して、この地における私の働きも幕をおろすのだと。しかしその後の展開は、私の想像をはるかに超えるものでした。教会はぎりぎりの状態でいのちをつなぎ、生き延びたのです。

初代教会が迫害で散らされる中、生き生きと姿かたちをあらわしていった記録は、新約聖書で知っています。けれどもまさか現代のこの日本で、東北の田舎にある普通の教会の信徒たちが、行く当ても無く突然放り出されて、方々に散らされ、けれども何とか体制を持ち直し、互いに結び合い、キリストの体を再び形づくるようになろうとは、予想もしない展開でした。加えて大げさに言えば、教派を越えて私たちを応援してくださる日本各地や世界の教会が現れたのです。あまりのドラマ仕立てに、これはいったいだれの脚本ですかと、いぶかしがるほどです。

日曜日の夜、「それにしても、よく集まるね」と家内としみじみ語り合いました。今までも私たちは教会の渦中にいたはずです。けれども、見ているようで見えない世界があり、知っているようで知らない世界があることを知りました。見えるものが一つひとつ引き剥がされる中で見えてきた、震災で得た宝です。

「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。

その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。

 主がその手をささえておられるからだ。」詩篇37篇23〜24節

ところで、米沢で雪景色をバックに手作り卒業式が行ったことについては、すでに報告しました。そして今週、親子ともども初めての土地での入学式を迎えました。ところが、着の身着のまま家を出てきたため、式で着るスーツがありません。そこでキャンプ場スタッフの方々に、似た体系の人のスーツからワイシャツ、ネクタイまでを探していただき、夫婦ともども拝借しての、ありがたみのいっそう増す入学式となりました。これもいつか、ゆくゆく語り継がれる思い出の一つになるのかと思うと、震災以降何だか語り継がれる出来事が加速度的に増え続け、整理がつかないまま、恵みの山に突入しそうです。

小学校に通い始めた子供たちも、地域の人たちが用立ててくださったランドセルがよほどうれしいらしく、学校から帰っても背にしている姿を見ると、おかしくもあり、微笑ましくも映ります。

他方私たちは、深刻な問題を抱えています。職場に呼び戻される兄弟がいる一方、キャンプ場でちょっとした就職説明会を企画したところ、10名もの人が集まったのには驚きました。子供たちの転校も、大学受験などを控えていると決断は容易でなく、いつ被災した高校が再開するのか、さらには戻ったとしても電車は動いているのか、など予測不能な状況下で、待ったなしに地元の高校に転校するか、それとも戻るのか、あるいは通信にするのかの決断が迫られています。震災は過酷です。あらゆるところに亀裂をもたらし、引き裂きます。せめてその心までも引き裂かれることのないように、私は牧師としての務めを果たさなければなりません。

どうか、お祈りください。

追伸:今週、京都に行き教会員の結婚式に出席しました。神学校を卒業し、牧師と結婚することになったその姉妹は「震災を思うと、ウエディングドレスではなく、喪服を着たい心境です」と挨拶し、再び私の心は震えました。どうやら私は、震災抜きに一切を語ることができなくなったようです。彼女は、海岸端の自宅二階からテトラポットが押し流され、防風林の上を津波が乗り越えて来るのを、恐怖をもって目の当たりにしたそうです。

避難生活報告 その15
   4月1日(金曜日)朝7時

篤いお祈りありがとうございます。私たちは昨日の夕方、第四の寄留地となる東京の奥多摩にあるキャンプ場に着きました。雪国の米沢を朝10時に出発、早朝はみぞれでしたが、その後晴れ。15日間滞在して、思い出がしっかり詰まった米沢を後にしました。桜咲く、春うららの新天地で、私たちはしばし体を休め、腰を落ち着けます。割り当てられた部屋を確保し、この土地を見回し、学校を探し、病院を確認し、郵便局を記憶します。ここが私たちの、新たな場所です。

 ところで、米沢を旅立つ際に、多くの方が見送りに来てくださいました。いつの間にか増えてしまった結構の各自の持ち物と、全国から届いた米、缶詰、カップラーメン等々の共有物資を詰めるだけ詰め込んで、いつから私たちはこんなに貪欲になったんだとつぶやきながら、それでも「さらにもうひとつ入る」と、車のバックミラーが見えないほどにパンパン状態にして、パンク寸止めで重々しく出発しました。あの見苦しさではきっとこれまで築き上げてきた米沢との教会間のうるわしい交わりも、一辺で興ざめだろうと思いつつも、それでも背に腹はかえられないと、すっかり地が出た本性丸出しの、飛ぶ鳥後を濁す旅立ちです。

その後私の心配は、途中車内の荷物が崩れ車中で思わぬ四次災害が発生し、報道機関がかぎつけ「前代未聞の貪欲災害」と報じはしないかに移りました。他方、もしあと3回このような大移動を繰り返したら、きっと私たちは驚くべきスピードで大移動可能なプロ集団に変身し、きっと30分ですべての荷物と赤ちゃんを車にのせ、どこへでも旅立する「震災が生んだ奇跡の人々」と報じられるのではないかとしょうも無いことを考えては口走り、笑いながら出発しました。ほんとうを言えば、大移動はこれで最後にしたい。次は必ず、我が家への感激の帰還であってほしいと、皆がどれほど願っているか百も承知しています。心で祈り顔で笑い、もううれしいのか悲しいのかがわからない状態が、長いこと続いている気がします。一足飛び終着点行きなら最高ですが、ありえないので封印し、不安と期待を混ぜこぜにしての旅立ちです。 

気がつくと、どこに行っても「ありがたい、ありがたい」が口癖となりました。食事の際には、調達してくださった方々や、美味しく調理し出してくださった方々を考えます。服にしても、生活用品の何から何まで、今日も与えてくださる神様とみなさまに感謝します。受けるだけ受け、困難の中救われたのですから、私たちも変わらなければなりません。主よ、私たちの感謝のこころが一時のもので終わることなく、生涯を貫くようにしてください。

 最後に、お詫びと訂正します。以前、震災ダイエットに言及しましたが、正確なことはわかりませんが、ここにきて缶詰三昧の生活から等級があがり、少々食べ過ぎの感あり。もしかしたら体重も恵まれたかもしれません。感謝ととるか、悲しむべき事態ととるかは微妙ですが、体重のことだけを考えれば、震災粗食で通すのがいいがいいかもしれません。いろんな方々からのおいしいお菓子や食材を、ありがたくいただき、残すのはもったいないと、入るだけ口に詰め込んでいるため、お詫びして訂正し、感謝の報告といたします。 

さて、ここ奥多摩は、東北と比べれば格段に暖かく、まるで別世界です。もくれんや梅はすでに花を咲かせ、体調の悪い方やご高齢の方にはいいようです。やはり上京してよかったと安堵しています。その時々の決断は、凶と出るか吉とでるかその時々に大きな賭けを伴いますが、今回も主の山に備えありでした。ハレルヤ。

50人もの大所帯となれば、いろんなことが起こり、子供の教育から、職探し、体調の悪い人のケアーもあります。この大家族の24時間切り盛りの知恵と決断は、もはや大牧者に頼るほかありません。だれがこの任に堪え得るだろう、です。

私たちは食べ物や毛布がなく、取る物も取らずに家を出たところを原点としなければなりません。それ以来、主がどれほどいつくしみ深く私たちを翼に乗せ、救い、養ってくださったか忘れないようにしましょう。そして、主が「旅はここまで」と言われるそのときまで、礼拝しながら旅しましょう。

私たちはあの寒かった避難所を後にし、雑魚寝状態でもない、ある程度プライバシーも保てる場所で、比べるとほとんど天国ような避難生活第四幕を迎えました。静かで温暖なこの奥多摩の春に迎えられ、私たちは今日から、失った日常を取り戻します。

お祈り感謝します。

避難生活報告 その14

  人生は出会いと別れが交錯していると以前書きましたが、このところ別れが多い気がします。今朝私たちは、三度目の舵を切り、南へ向かうことになりました。昨晩はお世話になった米沢の教会の皆様が、心づくしの手打ちそばやお菓子などでもてなしてくださり、まるでお別れパーティーのようでした。たった2週間の滞在なのに、せっぱ詰まった中で救いの手が差し伸べられるといのちの恩人のように感じ、別れは忍びがたいものがありました。私たちは返すものがなく、支援物資の中からかろうじて探し出したチョコレートなどのお菓子をセロテープで張り付け首飾りにみたて、子供だましのようですが先生方にかけさせていただき、一人一人の感謝の寄せ書きを添えました。

それでも最後に歌った「仰げばとうとし」の替え歌と、その後の握手の別れの時は、さすがに感極まって、すすり泣きと、号泣する姿が見られ、ここなら私の泣き虫顔も目立たないと、少々の安堵を覚えたのでした。それにしてもこれら震災卒業式の予行演習は、まだまだ続くのでしょうか。このペースだと、本番で流す涙は枯れそうです。泣きたいときは泣くのがいいと聞きますから、こうなったら、50年分も一生分も泣いてみましょう。

 短い旅の途中で私たちの恩人教会や先生方、そして見たことも無い兄弟姉妹たちが、星の数のように増えていきます。震災後、私が生涯御礼の旅を続けたとしても、人生は短すぎます。どうしましょう。

1、 仰げば尊し 我が師の恩

教えのにわにも早や幾年

思えばいととし この年月

今こそ別れめ いざさらば

2、被災の土地でも 恵みあふる

家族でむかえた この良き日よ

あなたの小さな手が なつかしい

新たな歩みに 祝福あれ

3、かがやく雪原 広がる空

祈りと笑顔と おもてなしの

恵みの泉に 身をひたして

傷みし心も いやされる

 私たちは、雪の米沢を後にして、一時でも日常の回復を求めて、関東行きを決断しました。ノンストップの非日常生活には、限界があります。家族ごとの生活空間や、ある程度のプライバシーと腰を落ち着けて生活する空間が必要です。福島からさらに遠くに行くだけで心絞めつけられるものがありますが、次なる決断のときです。長旅の道中、お年を召した方や、具合の悪い方が心配ですが、主よ、どうかお守りください。

4月以降の年間スケジュールはすべて消滅、新たな神様のプログラムが手帳にどんどん書き込まれています。まさか、東京に向かうことになるとは、思ってもいない航路です。本心は、家に帰りたい。自分の町と教会に戻りたい。この旅が、ふるさと行き直前の最後の通過点になることを願い、マイクロバスと車を連ね、一路、東京を目指します。

 米沢のみなさん、そして物資を届けてくださった方々、新潟から幾度となくガソリンや物資をピストン輸送してくださった先生や兄弟姉妹、ほんとうにありがとうございました。背後で温かく見守り、祈り、応援してくださる全国の皆様、感謝します。

 受けるばかりで、なんのお返しもできない私たちを、お許しください。

                    3月31日(木)午前6時40分 彰

避難生活報告 その13
 3月29日火曜日 

今は夜11時。今日は長い一日でした。朝、私たち夫婦は伝道師と共に牛久の婿宅を車で出発し常磐高速を北上、いわき市に残された信徒たちと再会して、集会を持ちました。放射能漏れのニュースが流れてもさまざまな事情で動くことができなかったり、店から物が無くなってもガソリンがなくて家にいたりと、不安を抱えつつもやむなくこの地に残された人たち(レムナント?)です。私たちの教会の散らされた兄弟姉妹は、初代教会のディアスポラのように各地に点在しています。この集会の後、私たちは須賀川の病院と会津の老人ホームに教会員を尋ね、当時パウロたちが山を越え旅を重ね、散らされた人々を訪ね歩き、数多くの励ましの手紙をしたためた時代に思いをはせながら、夜遅く米沢の箱舟本体に戻りました。

ところでいわきの集会では、一等最初に80代のご婦人が玄関先で私たちを出迎え、会うなり私の手を握り「先生、ご無事で何より。ご無事で何より」と涙ぐんでおられました。巨大地震からもう2週間以上経つというのに、この土地の時計の針はすっかり止まったままです。そういえば私も、果たして今日が何日で、何曜日なのかが抜け落ちたまま走り続けています。あの日以来、新聞もテレビも見ていません。見る気がしないのです。目の前のことで、絶えずいっぱいだからでしょうか。それとも、震災後遺症でしょうか。

話は変わりますが、家内と私は巨大地震前日、千葉に車で向かう道すがら、世にも恐ろしいと表現しましょう、ぎょっとする夕焼けを目にしました。夕日がちょうどめらめらと燃え上がり、そして膨張しては焼け落ちるかのような。その光景が余りに異様なので、思わずビデオにおさめようとしたほどです。家内に「まさか地震の前触れの、地震雲でないだろうね」と話しましたが、まさかがほんとうになるとは思いもしませんでした。すでに、20年以上前から、家内が教会員といっしょにキャンプをしながら旅する夢を見ていたことはすでに記しましたが、本当に主は、少しずつか直前にか、次に起こることを示されるということがあるのでしょうか。

とするならば主よ、是非にもお願いします。私たちはいつ、故郷に帰れるのでしょうか。この群れの行く末はどうなるのでしょうか。見当もつかず、すべて手探りです。けれど回復の兆しがあれば、重苦しい中でも、私たちは辛抱します。「あなたが右に行くにも、左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め』ということばを聞く。」(イザヤ書30章21節)、の通りに、道を教えてください。

私たちの地域だけが、地震と津波に加え原子力発電所の放射能事故が加わったため、死者や行方不明者数がいまだ出ません。もしもあの時、地震と津波でおさまっていたなら、今ごろ多くの人は家に戻り、がれきの山を取り除き、すでに前向きに復興に取り掛かっていたはずです。けれども、ゴーサインがでません。秒針は今も3月11日(金)の午後2時46分を指したたまま、ピクリとも動きません。放射能漏れがなかったなら、きっとあの時がれきの下でまだ息のあった人や、水の中にいる人を助け出せはずだと涙ぐむ人もいます。主よ、先が見えず前に進むこともできない歯がゆい状態は、いったいいつまで続くのでしょうか。私たちにも他の被災地のように、復興開始の許可をください。まずは、スタートラインに立ちたいのです。人が戻りはじめれば、商店も扉を開け、自動車整備工場から建設業まであわただしく街は動き始めるでしょう。このまま長引けば、失業者は増える一方です。いつまでばらばらの状態は、続きますか。ただじっとして、手も足も出ないのはいつまでですか。兆しをください。手ほどの雲でいいです。そうしたら、私はそのときを指差して、つぶやかず希望を告白して待ち望もうと喜んでメッセージを語りましょう。暗中模索で、皆必死で希望を見出そうとしています。きょろきょろと、不安げに。けれどももしもまだそのときでないのであれば、どうぞ私たちをつくり変え、信じられない忍耐力を与えてください。天を見上げ、自分を律し、希望を握り締め続ける者としてください。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく作られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」Uコリント5章17節

やがて私たちが地上の旅路を終えるとき、抱えていたすべてを手放し、日常の風景を後にして、瞬時に御国へと引き上げられます。もしかしたらこれは、そのデモンストレーションですか。私たちは御国への旅立ちを前に、衣替えの予行演習を念入りにリハーサルしているのでしょうか。かつて大切なご家族を亡くされ、ひとり孤独を味わっておられた方々の心中が、今頃になって察せられます。私たちは今、人生の根本にかかわる大切な事柄の、勉強中でしょうか。

話が長くなりましたが、私たちは再び新たな決断をしました。激動の日々の中にも、何とか日常を取り戻したいと、明後日、米沢を後にし、関東は奥多摩へと舵を切ることになりました。どうやら放射能漏れはそうそう収まる気配がないので、ひとまず子供たちを学校に通わせ、失職した人は職を探し、集団生活であってもそれぞれの家庭やプライバシーをある程度保ちつつ、長丁場の寄留地生活を走りぬくための次なる環境を求めて、ギアチェンジします。

どこへ行っても寄留者であることにかわりないとしても、たとえそれがかりそめの日常であると知りつつも、いつか本当の日常が帰ってくることを夢見ながら、軟着陸を試みます。

 お祈りください。

避難生活報告 その12

 家内は20年以上前から、ある夢を見ていました。不思議ですが、教会員が合宿しながら各地を旅する夢です。その夢があまりにリアルで何回も見るので、日記にその内容を記したほどです。当時私は、「神の家族でもある教会を、さもキャンプをしているかの印象で、象徴的に見たのでないか」と答えていました。それは間違いでした。正夢です。私たちは今家内がかつて見た、夢の中を歩いています。もしかしたら、水の上をおそるおそる歩いたペテロのように。いつかどこかで見た、デジャブのような。神はもしかしたら、夢を通して私たちの潜在意識のなかに、大震災に遭遇しても心のどこかで見たことのある風景のように、狼狽し、うろたえすぎることのないように、最後は腹をくくることができるように、働きかけておられたのかもしれません。初代教会が迫害によって散らされても、驚きあやしむことなく、前向きに旅から旅を続け、宣教を展開していったように。私たちもまた、教会の扉が閉ざされ、家に戻ることができず、故郷を追われてしまいましたが、この光景、そういえばどこかで見た光景。きっと神は、今回私たちが遭遇した厳しい現実に、決して押しつぶされず、壊れて崩れ落ちてしまわないために、あらかじめこの情景を心のどこかに焼き付けてくださったのだと思います。

 それにしても、初代教会がエルサレムから散らされて旅する光景は、どのようだったのでしょう。幾つもの家族まとまって移動したのでしょうか。聖書の世界に、こころワープすることが多くなりました。現実を生きているのか、聖書の世界に遭遇しているのか、わからずにいるのも、恵みでしょうか。

 第一コリント10章13節に「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません」とあります。いつか、だれかが通った道です。その上を私たちも、神様に手を引かれ歩いています。私たちにとっては思いもかけなくても、神様にとっては想定内で、渦中に置かれた私たちは、ほんとうに水の上に歩くしかないかもしれません。イエスのそばに身を寄せて、離れずに。いつか、だれかが通った道を。

 ところで最近、鏡の前に立つ自分に、白いものが増えたような気がします。気のせいだといいのですが。やはり体重は減ったままで、食べても太らないのには、驚いています。就職の世話を始めました。50人中、9人が申し出ました。現実は、深刻です。一刻の猶予もありません。私たちの地域のみ、いまだ死者や行方不明の数が発表されず、放射能漏れのため、3月11日のまま、秒針が止まったままです。みな、相当の疲労と心労をかかえています。ゴーストタウンとなった町に、泥棒が横行しているとの話も流れてきます。私たちはすぐ、銀行や郵便口座をとめ、電気、ガス、電話などを停止する手続きをとりました。主よ、すべてを置いて旅をする私たちから、さらに奪おうとする者よりお守りください。我が家に帰り、街や教会を復興するゴーサインをください。そのために労している、作業員、教会員をお守りください。

 それにしても、今回の出来事が終息した後、私はいったいどれほど多くの日本中、世界中の教会や、支援してくださった方々にお礼して回らなければならないでしょう。それが日に日に、星の数のように増えていきます。ああ、私の人生は震災の後、御礼の旅するだけでも、短すぎます。私は震災の後怒涛のように押し寄せた、苦しみをはるかにしのいで余りある、山のような恵みに圧倒されています。

 「私の杯は、あふれています。」(詩篇23篇6節)

避難生活報告 その11
 今日は3月29日(火曜日)、私たち夫婦は4日前の3月25日金曜日、米沢の箱舟本体を離れ、南へ向かいました。道すがら、危篤で緊急入院した教会員を訪ね、そこで伝道師に寄り添ってもらい、婿宅に一泊することとしました。それにしても横浜の教会に向かう途上に、兄弟が運ばれた病院があって、しかも危篤状態との連絡が入ったちょうどそのときにそこを通るようにセッティングされているとは、とても偶然とは思えません。被災してこのかた、絶妙のタイミングと感じることが多くなった気がします。事実多くなったのか、あるいは私たちが被災して、神様のなさることを以前に増して敏感に感じ取るようになったのか、わかりません。きっと、今まで頼りにしていたものが無くなって、主のなさることにより敏感に反応する心になったのかもしれません。余計なものが剥ぎ取られると、今まで見えなかった世界が見えてくるようで、これも震災で受けた恵みかもしれません。

 教会の年間スケジュールも、もちろん私の予定も、すべてが瞬時に白紙状態となりました。けれども気がつくと今は、毎日が神様の不思議スケジュールで動いています。地上のものが薄らぐと、神様の世界が浮き上がってくるのでしょうか。せっかく大きな流れの中に身をゆだねるよう導かれたのですから、じたばたせずに私たちは、引き出されたものらしく、神様がコーディネートされた別世界を、楽しむことといたしましょう。

 横浜では私たち夫婦が、被災して漂流中の教会から来たということで、なんだか特別の待遇をしていただきました。被災して、ほんとうに貧しくなったのか豊かな世界を歩んでいるのか、自分でわからない状態にあります。久しぶりに、ホテルに泊めていただきました。残してきた方々には申し訳ないと思いつつも、雑魚寝の状態から始まって、婿の家では2週間ぶりに床の間に寝、そしてホテルでの個室です。旅先でよく泊まっていたはずなのに、床の間も、ホテルもまるで王様待遇の、二段跳び、三段跳びビップ体験に思えました。きっと天の御国に引き上げられるとき、百段超え、万段ジャンプの恵み体験となるでしょう。

 その翌日の28日月曜日、私たちは横浜から東京へ移動し、キリスト教出版社の方々や、被災支援団体の方々とお会いし、被災状況報告のときをもちました。被災状況を熱く語る自分がいました。きっと、箱舟から首都圏に出て、まるで別世界を覗き、両方の世界並立の現実を受け止めきれずに、少々の興奮状態にあったかもしれません。それでも都会の景色は物悲しく、すべてが泣いているように見え、家内は美味しいはずのものを食べても美味しく感じず、かえって二人して被災体験者であることを意識させられてしまいました。あらゆることの整理がつかないまま、私たちは生きています。


避難生活報告 その10

 お祈り感謝します。

 震災で、いいこともあります。あんなにダイエットと言っていたのに、私の体重はみるみる減りました。やせたいなら、震災が効きます。ところが、震災の中体重が増えた人もいます。冗談交じりに「その人は、並外れて生命力の強い人です。どんな患難でも生き延びるでしょう」と言うと、笑い声です。

 さらに、避難生活で、不思議に物持ちになった人がいます。日替わりで衣類も届き、中には新品もあり、近くの衣料品店に行き、何でもただで持っていってくださいという信じられない話もありました。ですから、ある人は毎日日替わりのファッションショーです。上から下まで、下着も含めて全部いただいたもので身を固めています。食事も、普段家で食べているものよりもいいという人までいて、深い悲しみの中にも笑いがあります。

 かつて、遠藤周作が「お仕事はどうですか」と聞かれ、「楽しいような、苦しいような『楽苦しい(たのくるしい)』」と答えたものの、いや違う、苦しくて時々楽しいような「苦楽しい(くるたのしい)」と答えました。私たちもこの避難所生活を悲しくて、時々楽しい「悲楽しい(かなたのしい)」と表現しましょう。

 イエスが悲しみの人で病を知っていた、ということをいつもどこかで考えています。人となり、自ら暗闇の世界に飛び込み、苦楽をともにし、喜びも悲しみもその身に負われた救い主を、心の中で探しています。この道は、イエスに先導されて旅をする福音道路なのかもしれません。「すべての道は、ローマに通ず」ならぬ、御国に通じる福音街道をイエスが同乗されたこの車で、ノンストップで駆け抜けましょう。

                         325日(金)彰

避難生活報告 その9

 3月24日午後5時

 外は雪が降っています。何だか力が湧いてきました。神様は私たちの内に、冬が春に衣替えするように、よみがえりの回復力をプログラムしてくださっているような気がしています。被災してこの方、全国から届けられた物資で私たちは生かされています。肉こそ口にしていませんが、連日の缶詰メニューも、不思議にバラエティーに富み、豊かで、健康も保たれ、内側から復活の力が沸いてくる兆しを感じています。缶詰生活もなかなかいいものです。みなさんも、よかったらどうぞ。

 それにしても私たちは、こんなに多くの人たちに支えられて、しあわせです。ここにきて少しずつ本気で、震災に遭遇する牧師として選ばれ、教会もあらかじめ原子力発電所の足元に置かれたのだと意識し始めています。そう考えられる、心の状態になってきました。

 明日から私は横浜、東京へ行き、予定されていた伝道集会や被災報告の集まりに行くことにしました。また、各地に散っている信徒を訪問しようとも考え始めています。「何はなくても、教会を失ったことが何より悲しい」と、電話の向こうで涙する信徒の声を聞くと、また涙がこぼれます。めそめそしないと決めたはずなのに。

だけど、絶対に負けない。あきらめない。そう言い聞かせ、箱舟を一時離れ、必ずまた戻ります。

まどろむこともなく、眠ることもない主よ、留守の期間かえってこの群れを祝してください。そして、各地に散っているひとり一人を、どうか抱きしめ、いつくしんでください。

避難生活報告 その8

 今日は3月24日(木曜日)、今朝礼拝でマタイの福音書5章を開き、私たちをイエスが世の光、地の塩と呼んでくださることを学びました。今回の巨大地震が、大患難の始まりではないか等諸説飛び交っていると聞きましたが、私たちにとって大きな患難であることに違いはありません。塩が塩けを保つのに、あるいは取り戻すため、ふるわれ、火の中を通ることは必要でしょう。ヘブル書12章には、「主に責められて弱り果ててはならない。」とあります。子どもを訓練しない親がいないように、私たちも、思いもかけない試練に襲われたととらえないで、これは神の愛ゆえの訓練プログラムととらえたいものです。 

昨日、私たちは雪山で、主の暖かなまなざしを意識しながら、味わいある卒園式、卒業式を行いました。手づくりの卒業証書に、替え歌を交じえた「ほたるの光」に続く「仰げば尊し」。もちろんみんな、泣きました。私たちは、すっかり泣き虫集団になり、涙腺を止めるバルブが折れたまま状態で、いまだ直す人が見当たりません。よく頑張ったねと皆が心から祝福し、涙の記念写真を撮りました。ひょっとして被災地で歌った「仰げば尊し」の替え歌が、どこかのテレビ局で取り上げられ、話題を呼びひだりうちわの生活に入れるかもと一瞬頭をよぎりましたが、どうやらそれはなさそうなので、公開します。

1.仰げば尊し 我が師の恩

教えのにわにも早や幾年

思えばいととし この年月

今こそ別れめ いざさらば

2.被災の土地でも 恵みあふる

家族でむかえた この良き日よ

あなたの小さな手が なつかしい

新たな歩みに 祝福あれ

 私たちもやがての日、神様から「よく頑張ったね」、とおほめのことばをいただく震災卒業式を迎えるのでしょうか。

 プロ野球選手はペナントレース前体を鍛え、自己コントロールし、その上でスタートラインに立ちます。主もこの群れを愛し、特別な訓練プログラムの中におき、やがての時に備えさせようとしているのでしょう。いい加減泣いてばかりいないで、立ち上がりましょう。

避難生活報告 その7

 今日は3月23日水曜日、日曜礼拝を終え、今週から私たちは生活を切り替えようとしています。月曜日は休養日とし、体をゆっくりと休めることにしました。毎朝の掃除当番や、食事づくりと片付けは簡単にし、夜は思い切って、多分最初で最後の外食としました。食堂のサービスで、子供たちがはしゃぎながら綿あめを作っては食べ、それを微笑ましく見守る大人たちがいます。私はその情景を、しあわせと呼びましょう。

 そういえば、被災者パスというのがあります。勝手に私がつけたのですが、たとえば温泉に行き「被災しました。ここは良い所ですね。」と心をこめていうと、驚くことに400円が200円になるのです。ここでのポイントは、「心を込めて」です。本当に被災してないとこの雰囲気はかもしでないため、他の人では無理だと思います。

 火曜日からは、しばらくはここでの生活になると見定めて、日常を構築しようと、日ごとのスケジュールを決めました。午前は、朝食、清掃を終え、9時半から礼拝。続く、分かち合いと祈り合いの時間に並行して、バイブルクラスが持たれます。10時半からは体操やゲームを織り交ぜたリフレッシュタイム。体調を崩す人が続出する中、身体が資本、体力勝負です。その後子供たちは、午前と午後に勉強をします。まるで、山の上の分校か、昔の寺子屋のように。

 被災した3月11日は、私の54歳の誕生日でした。昨日は「200円で買ったスリッパですが」と、普通は値札を切って渡すのですが、金額を明らかにしての、誕生日プレゼントをもらいました。200円には見えない立派なゴム製スリッパを、もったいなくてしまってしまいました。今日は礼拝時に保育園と小学校を卒業する子供たちの、手作り卒業式を行う予定です。私も気持ちを切り替えて、いつまでもめそめそしないで、このときのために私は牧師になったのだと言い聞かせることにします。

 いつでしたか、韓国から電話があり、「韓国では日本人が大震災に遭いながらも、店を襲ったりけんかせずに、配給の列に黙って並ぶ姿を、涙を流して見ています」、とのことでした。これほどの大震災は日本人にしか耐えられなかったのでないかと。そうとすれば、私たちの教会はもしかしたら、震災に耐える教会として、原子力発電所がやってくる前にあの土地に種が蒔かれ、この時のために教会をあらかじめ形成し、信仰をはぐくむように、選ばれた教会と牧師なのでしょうか。

 昔、アーネスト・ゴードン著『クワイ河収容所』を読み、感動しました。イギリス人のインテリであった彼は、第二次世界大戦時日本軍の捕虜となり、タイのクワイ河収容所に送られます。そこで待っていたのは人権無視の過酷な日本人による扱いと労働でした。一応キリスト教国から来たというものの、皆形ばかりのキリスト教でしたが、極限状態に追い詰められた彼らは、互いに人を人とも思わない行動までとるようになります。ところがあるとき、1冊の新約聖書が開かれ、集会が始まり、彼らは変化していきます。弱ってゆく仲間を励ましたり、自分のわずかな食べ物を他の人に与えたり、仲間の身代わりとなって殺されていく人まで現れます。終戦と同時に、他の収容所では日本軍に対する復讐事件が起こりましたが、クワイ河収容所ではただの1つも起こりませんでした。地獄絵の中で一部始終を目撃したアーネスト・ゴードンは、信仰を持ち、その後牧師となります。その収容所がまるで生きてキリストが働く、本当の教会のようで、私は衝撃を受けました。

 私たちも似た経験をしているとは言いませんが、東北の風光明媚な田舎町に住む普通の人たちが、また教会に通う人たちが、突如巨大地震と高さ14メーターの大津波、そして原子力発電所爆発の三重苦に投げ出され、ばらばらとなり、家も故郷も無く、流浪の旅を始めたと言う点で、大きな試練の中に置かれたということは、間違いありません。あの日、あの時、クワイ河収容所を体験した人たちが、神に選ばれてそこに置かれたとするならば、私たちもまた、そうなのでしょう

 ところで今日は、うれしいニュースもありました。昨年からいのちのことば社出版部で話を進めていた本ができ上がったとの知らせが届いたのです。図らずもタイトルは『順風よし、逆境もまたよし』です。本当は『想定外こそ想定内』と願いましたが、どちらにしても、こう銘打って公にしたからには、この震災に遭遇し、いよいよもって弱音を吐くわけにはいかなくなりました。どうしましょう。まさかこの本が出版されるとき、巨大地震に遭い、被災して、こんな状況になっているとは想像もしないでつけたタイトルです。これからはどうやら、自分で命名したタイトルに背中を押され、一本の道を進み行くしかなさそうです。
避難生活報告 その6 (3月21日付け)

 私たちは日々、各地から届く励ましのメッセージや、「50人をそのまま受け入れます」等の申し出に驚いています。一体、私たちは何者なのでしょう。

 昨日、2週間ぶりに日曜礼拝をささげました。米沢の教会の計らいで、ギターにベース、ビデオ撮影まで、すべての機材をお借りして。旅先での思いがけない恵まれた環境下の礼拝でした。さすがに私も、感極まってこみ上げてくるものを押さえるのが困難でした。すべては、司会をした副牧師が泣いたせいと、見苦しい弁明を試みましたが、どうやら、泣きたいときには泣くのがいいようです。だったらこの機会に、50年分も、一生分も、涙も枯れるほど泣いてみましょう。

 朝昼晩50人の大所帯で食事や生活を共にするというのは、明らかにそれだけで非日常です。もっとも、何が日常で何が非日常なのか、今はその区別もおぼつきませんが、それでもあの震災の日から10日が過ぎ、私たちはまだここでこうして命をつないでいます。当初、どこかのテレビのチャンネルで震災と関係ない番組が放映されているのを見ると、腹が立ったものですが、今はそれも自然な流れと受け止めています。ゆっくりと少しずつ、旅の途中の踊り場にて、非日常の中で日常を垣間見、たとえそれがかりそめの日常と知りつつも、しばし身体を休め、まだまだ続く非日常の次なる旅路に向かうエネルギーを、たくわえているのかもしれません。

 くすぶる灯心を消すことなく、痛んだ葦を折ることのない主が、いよいよ大牧者となって、この群れを力強く抱きかかえ、御つばさに乗せ自由に運んでくださいますように。

引き続き、お祈りお願いします。
お願いばかりで、すいません。
                         3月21日(月)佐藤 彰

避難生活報告 その5 (3月19日付け)
米沢に来て3日目を迎えました。お祈りとご支援感謝します。被災時の状況を一人一人に改めて聞いてみると、当初1、2時間の予定ということで何も持たずに家を出てきた方もあり、そのまま漂流生活に突入したため、生活に必要な物資の確保が差し詰めの課題でした。けれども日本各地から食料や衣料品が次々と私たちのもとに届き、またそれを運ぶ先生方や兄弟姉妹が現れ、まるで日々エリヤがカラスに養われる経験をしています。加えて、皆様からの義捐金で50人の大所帯の必要もまかなわれています。ありがとうございます。私たちも疲れがピークに達し、代わる代わる病院通いで、私も熱を出してしまいました。1カ所に2、3日ずつの移動がきいてきたのかもしれません。

 昨日不思議な経験をしました。景色の色が薄くなるというか、脱力感というのか、携帯電話を手にしても、何をしようとしていたのかが思い出せず、心が痛いような感じです。心が痛むということがあると知りました。突然、家を失い、教会を奪われ、強制的に故郷をあとにするように追い立てられて、二重三重の喪失感に、心が押しつぶされたり、痛んだりしないはずもありません。加えて仕事を失い、将来の見通しが皆目見当のつかない中、皆きっと何とかして現実を受け止めようとしながら、受け止めきれずにいるのだと思います。

 私たちの教会は、原子力発電所が建つはるか以前、アメリカの宣教師によって福音の種が蒔かれ、宣教がスタートしました。「福島第一」の名も、当時のバプテスト教会命名の際の伝統で、福島第一原子力発電所より教会の方が先です。運命共同体と言うと大げさですが、原発の地元に住む私たちの思いは単純ではありません。一昨日、ここで共に生活をしてきた社員が、事故の収束のために、会社から呼び出しがかかり、原発に発って行きました。もちろん私たちは、人ごとのように送り出せるはずもなく、同じ釜の飯を食べた神の家族として、残るご家族の思いも皆で共有しながら、涙のうちに、主とともに派遣する祈りをささげました。ほかにも私たちの大切な教会員が、現場で懸命の作業をしています。主よ。どうかあなたの全能の御手で、彼らをお守りください。どうか、お願いします。

 「御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてください」(ヤベツの祈り、歴代誌U4章10節)                             3月19日(土)佐藤 彰

避難生活報告 その4 (3月18日付け)

日々、皆様のお祈りを背に受けています。何だか,ずいぶん長い時間が経過したような気がします。何年分ものドラマをこの一週間で体験したような…。再会した兄弟姉妹から,避難所での話を聞く度,うっかり私は避難所のことを収容所と言い間違えてしまうのですが,どうしても戦時下のそれとだぶってしまいます。

一つ一つの逃避行を聞いていると、つくづくひとりひとりが,火の中と津波の中をくぐり抜けて、たどりついたことを実感します。昨日は,心配していた教会員から「本当に今回は神様に救われました。」との連絡があり,聞けば、震災直後心筋梗塞を起こし、心臓が半分停止、緊急手術があと30分遅ければ死んでいたとのこと。いのちが守られた道筋に,神の手が見えるとのことでした。

また,別の姉妹は震災の時、職場で別の席に移動したことで死を免れ、車で逃避。道路はひどく波打っていたものの,走って逃げる人たちを同乗させたことがきっかけで、地割れを避ける運転の仕方を教授され、軒並み地割れにはまり、パンクで動けなくなる車をかいくぐるかたちで、避難所にたどり着いたということでした。その後は避難所の移動をくり返し、奇跡的に親戚のもとにたどり着いたそうです。

しかし,なによりの奇跡は,誰からも「どうして神は私たちをこんなめに遭わせるんだ」とか、「神はいない、もう信じない」とのことばが聞こえてこないことです。所在の確認がとれたた160名の兄弟姉妹からは口々に,「主はすばらしい」とか「これからはもっと,神を信頼して歩んでいきたい」との報告が届いています。彼らはいつから,こんなに信仰が強くなったのでしょう。

昨日はともに旅をしている方の3名の方が涙とともに,信仰告白をし,イエス様を受け入れました。ハレルヤ。天でどれほどの喜びが起こったことでしょう。重苦しい震災の中で見る,何よりの実です。

ところで一昨日、福島県から山形県に移動する前に、家族や親戚の元へ旅立っていった方々がいました。人生は出会いと別れと承知しているはずなのに、さすがに同じかかまの飯を食べ、震災をかいくぐってきた神の家族との別れは,格別のものがあり,「今度はいつ会えるだろうか」との思いとも相まって,こみあげてくるものを押さえるのに,苦労しました。何だか,最近やたら泣くことが多く,いやになります。もともと人生は出会いと別れと心していたではなかったかと,言い聞かせてみるのですが,そう簡単ではなさそうです。

昨日は計12台の車を連ね、吹雪の峠越えをし、1mを超える雪の壁の中をそろそろと抜け出て、次の滞在地へと向かいました。「トンネルを超えたらそこは雪国」ではなくて、トンネルを超える前から白銀の世界で、ここ米沢の教会の施設は一面真っ白な景色の中に,たたずんでいます。しびれるような寒さの中,教会の方は暖かいうどん,そば等で歓迎してくださいました。涙をこらえて握り飯を食べるという経験をしました。今からいちいちこうでは,先が思いやられます。主よ,どうかこの白銀のように,私たちの繊細な心を,まっさらにしてください。

私たちは,果たしてディアスポラ(散らされた人たち)の世界を,生きているのでしょうか。最後は,どこに根を張り,落ち着くことになるのでしょう。明らかなことは,非日常の経験を通し、すべてを主が揺すぶっておられる,ということです。ある人は理屈抜きで救い主を受け入れ、別の方は,私の信仰は眠っていたと悔い改めます。そして,生きていくのに必要なものはほんとうにわずかでいいのだと,告白します。それぞれの魂を,主は根底から突き動かし、基盤をくつがえし、激しく臨んでおられます。

もしかしたら,これは新たなる境地へと,主が誘っておられる,さながらエジプト脱出の壮大なドラマの,幕開けなのでしょうか。

PS:全国の多くの方々から、そして海外から、支援のエールが届いています。知らない方からも「物資を送りたいのですが」などの申し出をいただき本当に感謝します。また,全国各地から,教会員受け入れの連絡もいただいています。ありがたいことです。ただ,今はひたすらに,その日を乗り切ることで精一杯で、十分なお返事ができないことをお許しください。一度は私たちも物資を避難所に届けましたが、気が付くと,私たち自身被災者で、あまり無理をしてつぶれてはよくないかと,限界点を認めて,長丁場を乗り切ろうと,考えています。どうぞ,ご理解ください。

昨日も神様は不思議な方法で、全国でガソリン窮乏の中、行政を通しタンクを満タンにし,山越えをするように導いてくっださいました。

改めて,主の御名をあがめ,御礼申し上げます。
                                      佐藤 彰

避難生活報告 その3 (3月16日付け)
   お祈り感謝します。昨日、3月15日の真夜中1時、救済物資満載のトラックとともに、近隣の店に立ち寄り、棚にあるものを手当たり次第に買い込んで、トランクと後部座席をいっぱいにし、私たち夫婦は一路福島へと北上しました。途中、道路の陥没と家の一部崩壊を目にするも、思ったよりスムーズに移動しましたが、テレビのニュースで原子力発電所の再爆発と放射能漏れ、加えて避難区域の拡大や現地に近づかないよう等の情報を耳にし、迷いながらも内陸路を選択。会津の避難所(教会)に午前11時に、10時間かかって無事到着しました。ハレルヤ

 約60名の教会員のうち、三分の一は福島第一原子力発電所近くから来たということで、まだ被ばく検査が終わらず、午後になって合流。早速礼拝のときをもつと、すすり泣く声が聞こえ、それぞれよほどのところを通ってここに着いたのだ、と実感しました。夜は近くの温泉に行き、5日ぶりに風呂に入れる喜びを体験。会津教会の心づくしに感激。いちいち感動にふるえ、あちこちで「生きてたの」と声を掛け抱き合う姿を見て、また涙腺がゆるんでしまいました。とはいえ、ジプシーのような流浪の旅はまだ始まったばかりで、家もなく、着の身着のまま出てきた人たちに「洗濯の必要はありますか」と聞くと、「洗濯するものがありません」との答えに、返すことばが見当たりません。聞けば3日間飲まず食わずにいた人あり、寒さに凍えて過ごした人もいるようです。とはいえ、漂流生活はまだ始まったばかりで、まずはガソリンの確保と次の生きる場所の確保が急務です。60人の大所帯が一同に会し、共同生活をするとなると、ただでさえ国家緊急事態の中、判断が難しく、結局、山形に北上し長期戦を見込んで、体制を整えることとしました。疲れのせいか病院に駆け込み点滴を受ける人あり、高齢者から小さな子供まで、それこそかみの大家族として、出エジプトのように故郷脱出のあと、荒野を旅することになりそうです。果たして私たちがあの町に戻れるのか、廃墟となるのか、2〜3か月で帰れるのか、いつなのか、教会や家の扉を開く日が来るのかどうか、すべてが漂流しているようで、手探りの中、力を合わせ、火の柱雲の柱に誘われて、旅するほかないでしょう。

 昨日は警察の方が私の車を特別災害用車両と認定し、ガソリンを供給してくれました。明日からは米沢の教会が大きな犠牲を払い、私たちを受け入れてくださいます。今は人々のいつくしみや思いやりに感謝し、甘えて生き延びるほかありません。まるで映画の一場面のようなドラマの人生を、まさか自分が体験するとは、思ってもいませんでした。主よ、漂流をはじめたこの群れと、各地に散っているレムナント(残された民)をあなたのひとみのようにお守りください。
 
「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地をつくられた主から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。主は、あなたを守る方、主はあなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月があなたを打つことはない。主は、すべての災いから、あなたを守り、あなたの命を守られる。主はあなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」詩編121篇

避難生活報告 その2
諸教会の皆様へお祈り感謝します
教会員の安否はその後150名近く確認できました。ハレルヤ!
ある姉妹は津波が足元に迫る中、危機一髪で泳いで難を逃れたとのことでした。不思議に海沿いに住んでいた人も、守られました。ただ、まだ、5,60名の人の、安否が不明です。それにしても、公衆電話から一人ひとりの携帯へ安否確認をしていると、自然と涙がこぼれます。ふと、これは夢だろうかと思ったりもします。
スーパーに並び、避難所への物資を山のように買いました。「買いだめをしている。」とささやく声も聞こえましたが、弁明する気になりませんでした。

バスに乗り、北へ、南へ避難所に向かった教会員は途中でばらばらになり、一人ぼっちの人も3人で肩寄せ合っている人もいるようです。ある避難所は温泉にも行けるし、買い物もでき良い境遇だそうですが、あるところは暖もなく、夜は冷え食べ物もわずかのようです。とにかく寒いので靴下やホッカイロが必要だということで、靴下をある店から買い上げてきました。
その後、auショップに行き避難所に携帯電話充電器を持っていきたいと話し、余っている充電コードを分けてくださるようお願いしました。手渡してくれた店員さんに「がんばってください。」と言われて、ぐっときました。

いつからでしょう。海外の救援チームが助けに来た等のニュースを耳にすると、目頭が熱くなります。このところ、涙腺がすっかりゆるくなったようです。
道路状況とガソリンの入手困難などから二時間後の夜中に車を走らせ向かうこととなりました。救援物資を運んでくださる、2台のトラックと一緒です。長老教会の先生方に、感謝します。以後、パソコンもないため返答困難と思います。ご容赦ください。皆さんの声援とお祈りを背に受けて、主と共に行ってきます。
感謝と共に、ご報告まで。

               2011年3月14日22時    佐藤 彰
避難生活報告 その1

諸教会の皆様、先生方へ

主の御名を賛美します。
ご心配いただき、ありがとうございます。お祈り感謝します。

3月11日の震災の時、私は東京キリスト教大学の卒業式に出席のために千葉におりました。その後、道路状況やガソリンの給油が難しいことなどから、今、引き続き、千葉におり、被災した教会員と、佐藤将司副牧師と連絡を取り合い、安否を確認しているところです。

 三重の被害に遭いました。地震で、ある教会員の家は半壊し、海沿いに住む教会員の家族たちといまだに連絡がとれません。JRの富岡駅は津波で流され、町は壊滅的状態です。そして、ご存じのように、福島第一原子力発電所の事故が起こりました。強制的に全住民の避難が命じられ、教会員は着の身着のままバスに乗り、あちらこちらの小学校、中学校、体育館等々に分散して行きました。なかなか連絡はとれないものの、必ずしも当初毛布が全員に行き渡らず、寒さの中で一睡もできずに過ごした人もいました。一日中水もパンも届かなかった避難所もあったようです。心配なのは、肺炎のため入院していた末永兄弟は95歳にもかかわらず、病院から強制避難し、過ごしております。そのほか骨折中の方、透析の必要のある方、小さい子どもを抱えている方、障害のある子どもさんを連れている方など、心に浮かんできます。

 その後、配給は朝昼晩おにぎり一個ずつ配られるようになったとの報告も受けています。ただ、疲労もたまり、病身の方とお年を召した方のことが心配です。ぜひ守られるように熱くお祈りください。

 加えて、最もお願いしたいことは、放射線の漏れがこれ以上ないようにお祈りください。最悪を考えると、家や町に戻ることもできずに、もちろん教会も閉鎖となり、宣教の歴史も今回の震災までで終わりとなってしまいます。再び町に人々が戻り、教会の門が開かれ、賛美と礼拝がささげられるように、どうかお祈りのご支援をお願いします。

 本日3月13日の礼拝はもちろん、立ち入り禁止のゴーストタウンなので、予定されていた洗礼式も婚約式もすべてがなくなりました。果たして教会員の流浪の旅がいつまで続くのか、想像すると暗澹たる気持ちにもなりますが、大自然をおさめる全能の主が歴史の主として新たな宣教の1ページを導いてくださることを信じ、告白いたします。 

森恵一先生が今朝、私からの電話を受けてお祈りの要請をしてくださいました。感謝します。避難所の中のとりあえず十数名が会津チャペルにお世話になり、そこに滞在させていただくこととなりました。感謝します。そのほかの方は今のところ各避難所で辛抱することとなりそうです。何か支援できることがありますかと、多くのご連絡をいただき感謝します。会津チャペルで食べるものなど、少し差し入れがあるとありがたいと思います。献金の申し出も感謝します。今、教会堂も閉鎖で、町に立ち入ることもできませんが、保守バプテストの住所録に載っている教会の口座を何かしたいと示されている方が用いてくださると感謝です。※すいません。その後郵便振替は震災のため難しいことが分かりました。代替えの振込先は「じぶん銀行だいだい支店0039(じぶん銀行番号)、102(支店番号)、1095958(普通口座番号)、サトウアキラ(名義)」です。なお、これはセブンイレブンにあるATM銀行です。

最後に実は先週の日曜日、まさかこのような事態となるとは思わず、「ヒゼキヤ、緊急の祈り」と題してメッセージをしました。アッシリアに飲み込まれそうになる中、ヒゼキヤは荒布をまとい、祈り、預言者イザヤにも、国家存亡の危機に際し、緊急の祈りを要請しました。すると、アッシリヤの王は自分の国に引き返し、ニネベの神殿で自分の息子の謀反に遭い、亡き者となり、気がつくと脅威が去っていたという不思議な歴史の顛末を目撃したことを確認し合いました。そしてまさか、その週に私たちの群れが緊急の祈りを要請し、流浪の民のようにそれぞれの避難所にて日曜日の聖書の箇所をかみしめることになろうとは想像だにしませんでした。

繰り返しになりますが、どうか教会の活動がピリオドを打ち、宣教の働きがストップしてしまうことのないように、再びよみがえるように、放射能がとどめられるように、熱くお祈りを、緊急のお祈りを、祈りの結集をなにとぞよろしくお願いします。

2011年3月13日                     佐藤 彰

PS 3月14日付

前回の添付の郵便口座は使用不能のため、別の口座を付記し、訂正させていただきます。前回の口座は使わないでください。

教会員は少々避難所生活で体調不良を覚えている方もあり、お祈りください。少しずつ長期避難を予想して、親戚や実家を頼り、他県に移動し始めています。私たちは、物資を買い込み、今から避難所に向かいます。ありがたいことに長老教会の宣教師や牧師先生方が被災地に物資をピストンしてくださっています。今日は共に向かうことになると思います。諸教会のお祈りを感謝します。

佐藤 彰牧師が震災直後の3/13(日)に避難所にいる教会員へ発信したメッセージ 
教会の皆様大丈夫でしょうか。
私は千葉の神学校の卒業式で地震に遭い、一昨日 水や食料を車に詰め、そちらに向かおうとしましたが、道路状況等々が整わず、 いまだ戻ることができずにいることをどうぞお許しください。
ただ、今は、ここで、教会の方々の安否確認(100名が確認済み)や保守バプテストの全教会と私の知る限りの方々に緊急のお祈りの要請をしています。
それから教会員が肩寄 せ合って過ごすこともできるように、保守バプテスト会津チャペル(三留牧師)のところでの滞在が可能になりました。
車で迎えに行けますので、近くの避難所にいて、希望される方は申し出てください。
近くに温泉や銭湯もあります。
 先週 礼拝で「ヒゼキヤ緊急の祈り」の箇所を開きましたが、まさかこのような事態に 直面するとは想像もしませんでした。
今は試練のさなかにあるお一人一人とご家族を全能の主が握りしめ、慈しみ、守ってくださるようにお祈りしています。
 昨晩は神学校で学生会の方々が集まり、涙の祈りをささげてくれました。
本日は近くの礼拝に出席したところ、大熊町の私たちの教会のことをメッセージで取り上げ、覚えていてくださったことに驚きました。
 全国 の教会が私たちのことを覚えて、熱く祈っていてくださいます。
また皆で共に教会に集まり、神の家族として礼拝をささげる日を待ち望みんでいます。
状況が整い次第向かいます。体調に気をつけてお過ごしください。
それから携帯のない方にも回覧をお願いします。          
                     2011年3月13日 佐藤 彰



その30

7月11日から、アメリカに来ています。アトランタとロサンゼルスで計9回の集会を持ちました。日本人や日系人、そしてアメリカ人の教会で。また、渡米したもうひとつの理由は、先月日本で出版された「流浪の教会」の、アメリカでの出版の可能性を探るためです。

今回震災後の渡米ということで、実に様々な方々との出会いを経験しました。そして改めて、随分の方々が、私たちの教会のホームページにアクセスしておられることを知りました。あの頃、つまり故郷を離れ決断に次ぐ決断を余儀なくされ、手探りでただ必死だった時、孤独でした。大震災の渦の中に否応なしに巻き込まれ、飲み込まれそうになりながら、取り残されていくような恐怖です。

ところが、このインターネットのツールが、突然の世界と私たちを結びつけました。このダイアリーは、もともと私たちの教会が属する団体の議長あてに、私が送った緊急の祈りの要請メールがスタートでした。ところが、それがいきなり保守バプテスト諸教会の枠を乗り越えたかと思ったら、みるみるうちに、ネットを通じて国境越えまでし、想像もしない拡がりを見せたのです。

今回、それが本当であったことを、実感する旅にもなりました。震災の渦中にいて、訳も分からずとにかく必死だった頃、ブログを通じ他の世界とつながっている、多くの人に私たちは見つめられている、私たちを応援する人々に囲まれているという知らせは、当時私たちがいきなり直面することとなった、信じられない震災の現実と並行して流れてくる、同じくらい、信じられないニュースでした。その頃、教会のホームページを管理する兄弟から、ピーク時のアクセス数が、一日二十万件であることを告げられました。私も、耳を疑いました。

けれどもその知らせは、私たちを励まし、やがて温もりとなりました。私たちは、決して見捨てられていない、一人ぼっちでない手ごたえとなったのです。そして今回、アメリカを巡る旅を通し、どうやらそれが本当であったようだ、と実感しました。どんなに多くの日本人、アメリカ人から、「ネットでお会いしています」と声をかけられたことでしょう。

震災直後で、日ごと生きることに精いっぱいだった頃、ギリギリのサバイバル中でした。けれども私は、今思うと何かに憑かれたかのように、細切れの時間を見つけては、パソコンに向かいこのダイアリーを打ち始めました。この激動の日々の記録を、今オンタイムで体験している最中に書き留めなければ、ものすごい速度とエネルギーですべてが塗り変わっていく異常な時間の流れの中で、次々と忘れ去られてしまう、とまるで恐怖にも似た強迫観念に襲われたからです。そしてそれはいつしか、「書き留めるべきだ」との義務感のようなものになり、日々私を机に向かわせました。これが、私の仕事であるかのように。

確かに、私たちがいつおののき、なぜ泣いて、どのように狼狽し、なぜあんなにも歓喜したのかを、今、現場で痛みや喜びを感じながら記さなければ、すべてが忘れ去られてしまうと、直感し、焦っていたことは、勘違いではなかったかもしれません。

さて、私がブログに向かったもうひとつの理由は、このホームページを訪れ、私たちと悲しみや喜びを共有し、見つめて、見守って下さる余りに多くの方々の存在でした。見に来て下さる方がいて舞台が成り立つように、それは大きな力でした。動力でした。もちろん私たちは、見せ物ではないし、ここは舞台でないけれども、しかし私たちはひとりぼっちではない、多くの人に、向こうの世界から見つめられている。まるで私たちと、旅をともにするかのように。数多くのエールとなって、届いたのです。

それはもしかしたら、まるで世の終わりの再臨の時、救い主イエスが数多くの聖徒たちを連れて、天から降りて来られるあの場面を絵にした、あの絵画の場面のように。とにかく気がつくと、私たちは囲まれていました。

アメリカの大地で、こんなに離れたところから、これほど多くの日本人やアメリカ人に祈られ、想われ、応援されていたのかと、胸が熱くなりました。現地に住む方から、震災後アメリカ人の多くの教会では、涙の祈りがささげられ、多くの義捐金がささげられたことをうかがいました。ハイチで地震が起こった時も、そうだったと聞きました。果たして、自分の場合はどうだろうか、と恥ずかしくなりました。ただニュースに耳を傾けるにとどまらず、わがことのように思って、そのため祈り会を開いて涙の祈りをささげたり、ということがあっただろうかと。

ペテロは、ペテロ第一の手紙4章13節で、キリストの苦しみにともにあずかる経験を喜びとするように、勧めています。そして私たちは、私たちの苦しみを分け合い、私たちと苦しみをともにしようとしてくださる、実に多くの方々の出現に、大いに励まされました。感謝いたします。

今回の東日本大震災が、16年前の阪神淡路大震災と異なる経緯をたどった点の一つに、ネットを通して、被災した本人各自が、顔が見える形で、生の声を被災地の現場から、痛みながら、苦悩しながら、ありのままそのままを、どんどん直接発信し始めた点にあると耳にしました。そして、それはそれをダイレクトに受け止める多くの人々の出現と相まって、以前には見られなかった温もりのある、顔と顔の見える支援の輪の拡がりとなっていった、と。

同感です。その草の根は、遠く海を超え、アメリカの大地にまで届いておりました。震災直後の、一通の祈りの要請メールから始まって、さまざまな種類のネットワークとなって私たちを取り囲んでおりました。それは、もしかしたら、あの日の巨大津波に勝るとも劣らない勢いをもって、私たちの前に突然現れ、包み、いやし、覆ったのかもしれません。

もう一度、感謝します。

                 7月19日(火)太平洋上、デルタ航空にて

                                  佐藤彰




その29

今朝、孫が生まれました。日曜日の午前815分、水戸でこの知らせを聞きました。久々のいいニュースです。名前は、「まひる」だそうです。この子の存在が真昼のように家庭を照らすようにと願って、旧約聖書・箴言4章18節「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」からつけられたそうです。是非、震災の影が覆うこの世界と、その中を手探りで流浪する私たちを、照らしてほしいものです。幾度も気持ちが折れそうになる日々の中グッドニュースです。

そういえば、今はゴーストタウンと化した、哀愁の故郷の南端に位置するラーメン屋さんが、開店したというニュースも耳にしました。故郷を復興しようと、先鞭を切って扉を開いたのでしょう。手打ちラーメン屋さんの、気概のようなものが感じられます。重苦しい雰囲気の中、全国に散ってじっと故郷を想う人たちに、希望を届ける、いい知らせだと思います。普通でなく、流行るといい。尋常でなく、繁盛しているその後の様子を耳にしたい。そう密かにエールを送るのは、私ひとりでしょうか。

これが思わぬ呼び水となって、次々と人々が故郷に帰還し、われも我もとハンバーグ店から、あの店この店とみるみる開店し、「もう帰れない、永遠に故郷を失った。」とうなだれていた人たちも、頭をもたげ、あれよあれよと言う間に、いつしか気がつくと我が町が復活していた、とならないでしょうか。人があふれ、電気はともり、車が行き交い、人々は談笑し、笑い声が雑踏の中こだましている。そんな出来すぎたストーリーを思い描くのは、夢物語でしょうか。

それでもこの際、藁にでもすがりましょう。吉兆の兆しも、ないわけではないのですから。一時帰宅が、急きょ防護服なしで可能になったニュースを聞いて、私たちは耳を疑いました。地元の大気中の放射線量が、日に日に下がっているとの報告も、届いています。寸断されていた、国道も復旧され、作業員の車は往来しているとも聞いています。流れるニュースの大半が、心落ち込ませる情報だったとしても、1パーセントの可能性を漂わせているならば、そこに望みを託しましょう。9割の闇に、一つの灯りをともしてみましょう。振り返ると私たちは、そのようにしてここまで、生かされてきたのですから。

そういえば、イエス様が生まれた時代も、ローマ帝国の圧政下で、どんなにか重苦しかったでしょう。そんな中、救い主の誕生は、当時の深い闇を照らす強烈な光でした。赤ちゃんの誕生が、その存在自体が大きな慰めであり、未来につながる希望でした。うすぼんやりとではあっても、ほのかな輝きでした。

長い間の外国による支配は、国内に様々な亀裂をもたらしたことでしょう。ローマに取り入ろうとする人と、そうでない人との間に生じた亀裂。深刻な経済の疲弊と、人々に蔓延する諦めや無気力、そして、絶望。そこここによからぬ感情の行き違いが生じ、そのすべてが、もしもローマの圧政がなかったならば、このような苦しみには遭わなかった、と悔やまれたに違いありません。そして、縛りが長引けば長引くほど、人々の心はへたり、ぎりぎりの状態に追い込まれたはずです。

いずれにしても、深刻で複雑な国際情勢が絡み合う時代のただ中に、暗闇を照らす光として、救い主イエスは誕生されました。

そして我が家にも、赤ちゃんが誕生しました。震災の渦中に生まれ、屈託なく無垢な笑いを浮かべて、今朝も周りを照らしています。

わが心とあらゆる闇を照らす、まばゆい光として、この世界に来られたイエスを、心の中にお迎えしましょう。そして、聖書の約束する世界へと、いざなっていただきましょう。

                 625日に書き始め75日付けでアップ

                                 富山にて 佐藤彰



その28

いつも、お祈りとご支援感謝します。今、富山におります。なかなかブログを更新できず、歯がゆく思っております。申し訳ありません。代わりと言ってはなんですが、出版社の許可を得て、震災を取り上げたトラクトの原稿をアップします。結果として、今までを振り返った形になりました。福音を紹介するパンフレットになれば、感謝です。         7月12日 佐藤 彰

闇に輝く光

福島浜通り、福島第一原子力発電所5キロ圏内に一つの教会があります。この度の東日本大震災では、地震、津波、原発事故による幾多の苦難に遭遇しながら、かつてこの教会に集っていた地域の人たちは、北海道から沖縄まで、全国各地に散らされ、避難生活を余儀なくされています。彼らは、思いもかけない激動の3カ月の中で、何を体験し、感じ、見たのでしょうか。

福島第一聖書バプテスト教会牧師  佐藤
これは悪夢か

3月11日の東日本大震災。その日は奇しくも、私の誕生日でした。地震、津波、それに続く原発事故。穏やかな日常が一変しました。家も地域も教会も喪失し、町で暮らすすべての人が、赤ちゃんからお年寄りに至るまで、ひと夜にして否応なく故郷を追われることになったのです。ある人は、自衛隊のホロ付きトラックに乗せられ、12時間揺られながら、振り落とされないように必死で椅子にしがみつき、こごえる福島の闇の中、毛布も食料もいき渡らない避難所へと行き着いたのでした。 

 まさか、現代の先進国日本で、その様なノンストップのサバイバル逃避行に巻き込まれようとは、思ってもいませんでした。その後、私たちは教会に普段通っていた人も、そうでない町の人も一緒になって、行くあてもない流浪の旅へと繰り出したのでした。不思議な旅物語の始まりです。

教会はその名も「福島第一」教会

私たちの教会は、福島第一原子力発電所が建つはるか以前に立てられました。第二次世界大戦争直後、アメリカから宣教師が来て、キリスト教の布教をしたのです。当時、その宣教師が所属するアメリカのバプテスト教会の伝統から、教会名は「福島第一」聖書バプテスト教会と命名されました。結果的に、「福島第一」原子力発電所と名前が似たことになりましたが、少しの不思議を感じています。現在私たちは、自宅や教会のある故郷に勝手に入ることが許されていません。けれどもやがて、あの懐かしい野山に立ち、思い出のしみる故郷を見つめ、教会の扉が開かれる日を夢見ています。

私たちは、原子力発電所のそば近くに立てられた教会として、必死の思いで、過酷な状況下原子力発電所で働いている作業員やその家族のためにも、祈りをささげています。

心は揺れても

ところで、当初突然家を失い、着替えも貯金通帳も持たず旅に繰り出すことになった私たちは、気がつくと口癖が、「有難い」でした。食べるごとに、「食べるものが与えられて、ありがたい。」、とか、着るものが支給されありがたくいただきました。人情の機微に触れて、自然と涙腺がゆるみ、幾度も心震え、涙を流しました。当初、雑魚寝であっても、布団で横になることがはありがたく、5日ぶりに温かいものを口にして、感激しました。

そして私たちは、いつしか気が付きました。生きるのに必要なものは、そう多くないと。私たちはこれまで、多くの人々に助けていただきましたが、余りにその様な機会に出合うので、もしかしたら私たちは、被災してたくさんのものを失ったけれども、より多くのものを得たのかもしれないと、考えるようになりました。間違いなく私たちは、神の愛に包まれ、人々の温もりに支えられて、ここまで来ました。苦しみましたが、数多くの恵みに出会いました。

他方避難生活は4カ月を過ぎ、震災がもたらす過酷な現実と直面しています。時の経過は日に日に重くのしかかり、まるで真綿で首が締められていくような息苦しさを感じてもいます。職場は日を追って倒産し、人々は職を失い、疲労はとうの昔に限界を超えました。夫婦や親子も、身を寄せた先の親せきとの関係も、どこか何か以前と違うことを感じています。

「全力で、マラソンをしているようなものですよ。」とは、とある方の表現ですが、あの大震災の渦中、だれも、全力を出さなければ生き延びることは、できなかったでしょう。とは言え、いつまでも限界を越えたまま走り続けるわけにもいきません。このままだと、心も体も疲れ果て、壊れてしまうかもしれません。私たちは、長距離に耐え得る、ペース配分とシフトダウンが必要かもしれません。

ところで、一旦失ったものを追いかけ始めると、決まって心はうつろになります。「鋏状格差(きょうじょうかくさ)」と言うことばがあることを、初めて知りました。被災時点では同じスタートラインだったのに、やがて復興景気に沸き、以前より元気になっていく人々や地域と、ひたすらに落ち込み悲しみに暮れていく人々との、大きく二つに格差が拡がって行くというのです。まるで鋏がどんどん開いて拡がっていくように。もしもそうだとするならば、私たちも気をつけなければいけません。心しないと、ひたすらに負のスパイラルにはまっていきそうです。順々と復興が進む、他の被災地を横目に、決して諦めないよう、心のコントロールを心がけましょう。

昨年は、南米チリで、地下700メートルに人々が閉じ込められた落盤事故が報道されました。世界中が息をのんで見つめる中、見事に全員救出されましたが、あの時、地下700メートルで年配のオマールさんは日々聖書を開き、希望を捨ててはならないことと、神を信じてこの難局を乗り切るべきことを説きました。

私たちも神を信じ、力を合わせ、何としてもこの難局を乗り越えたいものです。泣きたい時には泣くのがいいそうですから、この際50年分も、一生分も泣いてみて、痛んだ後に、立ち上がりましょう。

聖書の神は痛みを知る神

聖書が語る救い主イエスは、そんな苦悩する私たちをほおっておくことができず、ついに神ご自身が、私たち人間の住む世界に飛び込んで来られたのだと、伝えています。泣く者とともに泣き、悲しむ者とともに悲しむ神は、人となられた救い主を、「悲しみの人で、病を知っていた。」と記しています。ここで、私たちの救い主に関する最も有名な聖書のお言葉を、記しましょう。

神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 

私はある日避難所から、他の避難所に物資を届けようとしました。けれども、突如自分の心が耐えられなくなり、思わずその避難所から飛び出してしまいました。そして、自分の心が傷ついていることを知りました。自らおぼれながら、他のおぼれている人を助けることは、できないことを知りました。

神のみが、私たち溺れる人間を救い、助けることがお出来になります。神のひとり子であるイエスを、私たちの世界にお遣わし下さったほど、私たちを愛しておられる神。イエスは、滅びゆく人間の罪を十字架でゆるし、救い出すために来られたのです。

神の子イエスはクリスマスに、中東のとある家畜小屋でお生まれになりました。その後、ナザレという田舎町で大工の息子として育ち、大工として仕事をし、多くの悲しみや痛みを味あわれました。最後は十字架につき、すべての人の罪の身代わりとなって、人類の罪をその肩に負い、赦しと救いの道が開かれたことを宣言されたのです。

痛みと悲しみが満ちる闇の世界に飛び込んで来られ、自ら世を照らす光となられたこの方を、今も苦悩する私たちの救い主として、心の中にお迎えしようではありませんか。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう。                イエス・キリスト

 

祈りましょう。

「天の父よ。被災で苦しむ私たちを、どうか助けてください。いつかこの痛みのすべてが、よろこびに変わりますように。心の扉を開き、今、イエス・キリストを救い主として、私の心の中にお迎えします。どうか、すべての闇を照らし、私の罪もお赦しください。アーメン。(心から)」

佐藤 彰(さとう・あきら)

1957年3月11日、福島第一聖書バプテスト教会牧師。2011年3月11日、東日本大震災に遭い、教会は一時閉鎖。教会員や地域の人たちとともに流浪の旅に出る。

教会のホームページには、海外からもアクセスがある。著書に、『流浪の教会』『「苦しみ」から生まれるもの』『順風よし、逆境もまたよし』『あなたに祝福がありますように』などがある。

震災時にオンタイムで書かれた、『流浪の教会』(いのちのことば社)は、多くの反響を呼んでいる。

ホームページアドレス<f1church.com>



その27

震災を乗り越えて、花を咲かせた花ショウブが見ごろだと、今朝のニュースで流れていました。泥をかき分けた後、見事に咲いたそうで、きっと震災をくぐり抜けた人々にとっては、感慨ひとしおだったのではないでしょうか。私たちも、震災を乗り越えて花を咲かせる日が来るでしょうか。泥をかき分け、むくむくと復活のかたちを現わすでしょうか。自分でかき分けられない泥たちを、神様と多くの人の手で、かき分けていただいていいでしょうか。

今は、していただくしかない実情を認め、やがての日を待つことにします。長い冬を乗り越え、春の日が来るのを待つのは、東北人の真骨頂と心して。

どうやら、避難生活3ヶ月目にさしかかった今が、最もしんどい時期なのだそうです。「全力疾走でマラソンしているようなものですよ。」とある方が語っておられました。あの日、全力でなければ、大震災をくぐり抜け、生き延びることはかないませんでした。しかし、自分の限界を越え、いつまでも全力で走り続けるわけにもいきません。果たして私たちは、いつまで全力で走り続けたのでしょうか。そして、途上しかるべき減速措置を講じ、中長距離にも耐えうるペース配分に、転じたのでしょうか。もしやして、いまだ短距離のペースのままで中長距離レーンに入り込んでしまっているということはないでしょうか。

当初私たちは、少なくても一カ月位で帰れるものと踏んでいました。それがまさか、私たちの淡い期待を尻目に、いつの間にか中距離に転じたかと思ったら、長距離の様相まで呈し始めるとは、予想外の展開でした。心ざわつかせる様々な情報が行き交う中で、新約聖書の、あの荒れ狂うガリラヤ湖の嵐を一瞬にして静め、「黙れ、静まれ」とお命じになった主イエスの権威が、ことさらに慕わしく思われます。

フィリップ・ヤンシーの著書『神を信じて何になるのか』(いのちのことば社)には、GK.・チェスタトンの言葉が引用され、「母なる自然」という表現は、聖書的でないことが指摘されています。「自然は私たちの母ではなく、姉妹です。私たち人間と同等であり、同じように堕落した被造物です。使徒パウロの言葉を用いると、『ともにうめきともに産みの苦しみをしている』(ローマ822節)この堕落した星の上で、私たちは生きています。個々の人間と同じように、この星そのものが神の本来のデザインから離れてしまっています。」と。

私も日本人ですから、「母なる自然」と普通に表現し、他の多くのアジア人と同様、もともと自然もうめき、贖いを待ち望んでいるという発想がありませんでした。けれども今回、動かないはずの大地が揺らぎ、来るはずのない黒い海の水が陸地に押し寄せ、ありとあらゆる物を押し流し、破壊し尽くす光景を見ると、荒れ狂う自然の脅威にも、どこかから、誰かのコントロールが必要だ、と考えてしまいました。

主よ、大自然がここまで乱れ、まるで戦場と化したかのような大地に立って、かつておっしゃられたように「黙れ、静まれ。」(マルコ439節)、と余震鳴りやまぬ天と地にお命じになってください。加えて、ただ恐々とするばかりの私たちに対しても、かつて十二弟子に語られたように、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」(マルコ6章50節)と、お語りください。                      6月18日 大阪にて



その26

あれやこれやと、思い巡らすことが、多くなりました。モーセの人生は、エジプトの地に生まれ、不思議なことにその国の王家に拾われ、王道の教育を受けた後、ユダヤ人であったということが判明し、荒野に追われるまでが、彼の人生の三分の一に当たる40年。続いて、ひっそりと荒野で暮らす40年。そこまでを彼の人生の第二幕とすると、第三幕は、同国民を率いてエジプトを脱出することになる、彼の人生のクライマックスともいうべき、大スペクタクルの、最後を飾る40年でした。今まで私は、どうして神は彼に旅の終着点である、かの約束の地を踏みしめることを、彼の人生の最後にお許しにならなかったのだろう、と少しこだわっていました。けれども今、私たち60名は現代の日本のそこここを、故郷を離れ、高々2〜3ヶ月旅をしただけなのに、その行程はそれ自体ひとつの物語として完結しているような気がしてきました。

一人の人間の一生に与えられた能力やエネルギーには、限りがあります。旅が、果てしなく続くことも、あり得ない話です。もしかしたら、神は一人ひとりに、それほど多くの使命をお委ねになってはおられないのではないか。モーセの生涯は、出生の秘密から始まって、エジプトからの脱出、そして旅の終着まで、と。その後、約束の土地に入って、民を定住させ、定住にまつわる諸問題を解決していくのは、また別の人の使命だったのだと。きっとモーセの人生は、最後の40年を全うして、十分だったのではないだろうか、と。少なくとも、神の目から見て、十分やったのだと。

ひとつの時代と地域に生まれ、時と土地が織り成す舞台に立って、私たちはある時は狼狽し、けれどもその中で、幾つかの使命を負わされて、誘われるように、それぞれの行程を全うするのでしょうか。少なくともモーセの人生は、そこまでで十分だったに違いないと、何だか自分に言い含めるように、やたら力が入ってきたのは、どういう訳でしょう。

いずれにしても、この旅は、これ自体で完結しています。是非にも早く、完結して欲しい。今回の旅は、これ自体で、十分過ぎるプロセスを包含しています。果たしてこの旅を終えたとき、主よ、私たちに町と教会を復興する力が残っているでしょうか。


朝鮮戦争勃発時、動乱の中ピョンヤンから南に脱出し、約100名の信徒と一族を連れ、故郷を後にし、旅に入った牧師先生がおられます。その先生は当時、三十代前半だったでしょうか。北の脅威を逃れ、南へ下る決断をし、別離と出会いを繰り返し、始めた旅は相当に厳しく、過酷だったようです。また、多くの教会員や肉親との、一生涯の離れも経験したそうです。たどり着いたソウルの地では、約100名の生活の場を確保し生き延びる、待ったなしのサバイバルが始まりました。

けれども、そこで誕生した教会は、後々大きく用いられ、あの時の辛い経験が、後の大きな祝福の基となったと、聞いています。人生で、過去どれほどの試練を潜り抜けてきたか、それがその人の次の人生の底力となり、足る心、感謝の心を形づくるということも。


私たちも弱音ばかり吐かないで、マイナスのことばかり追いかけたり、思いめぐらすことを止め、前に向かって進みましょう。今せっかく、新幹線の中なのですから。旅には必ず、始まりがあり、その先に終わりが待っていて、現在はその途中経過です。この時は、終着点につながっている。過去、現在、未来が一本のレールの上にある。なかなか進まないようでも、向かっている。

 そう言い聞かせて、しばらくは降りることのできない列車の中で、歯がゆいながらも待ち望むことにしましょう。いつの日か、孫やひ孫に、「おじいちゃんとおばあちゃんたちは、かつてこんな経験をしたんだよ」と、振り返り語り聞かせる日が来るかもしれないのですから。「ああ、だれか、こんな出だしで始まる映画を、作ってくれないでしょうか。」。とすれば、私たちは後に映画の題材になって恥ずかしくないキャストとしての立ち振る舞いを、果敢に、歯を食いしばって全うするかもしれないのですから。
 かっこつけも、いよいよになると、力を振り絞るのに、有効かもしれません。

 

主はサムエルに仰せられた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。 

                              Tサムエル16章1節

掛川からの新幹線の車窓にて 
 6月7日(火)佐藤  彰



その25

昨日、2か月半ぶりにある教会員のご夫妻と再会しました。いまだに朝目が覚めると、これは夢だろうか何だろうかと、いぶかしがるそうです。私も、「夢がこんなに長く続くだろうか」とふと思うときがあります。まさか、この現代日本で、7万人もの人が家を追われ、2万世帯以上が避難生活を余儀なくされるとは(福島第一原発から半径20キロ〜30キロ圏内)、一体だれが想像したでしょう。そして、その渦中に、私たちもいます。

 3月6日震災が起こったその週の日曜日、その5日後に大地震が起こるとも知らずに、私は礼拝メッセージの中で「もし東北地方に、今回ニュージーランドで起こったような大地震が起こったとしたら、1〜2年では回復が難しいのではないか」と語りました。と、実は、その日のメッセージを最近録音で聴いた娘から、知らされました。もちろん私は、「え、ほんとうにそんなこと話した?」と驚きました。

 そういえば震災の直後に、「順風よし、逆境もまたよし」が出版されたことも、不思議です。まさか、3月11日に震災に直面し、突然の流浪の旅がはじまってまもなく出版されるとは、余りのタイミングです。震災前の文章のため、内容は一切震災に触れていないのですが、それでもタイトルがタイトルのため、多くの人が手にしてくださったと聞いています。ちなみに、サブタイトルの「想定外こそ、想定内」はなおさらそうで、当初私は、こちらを表題にしたかったのですが、いずれにしても今にして思えば、巨大地震直後に出版される本のタイトル選定から、何かにいざなわれていたと説明しても、おかしくない痕跡(?)に、出会います。

 ひとたび、このルートで検索を始めると、いくつもの似たような現象が、浮かび上がって来ます。これまで再三記した、家内が20年も以上前から見ていた、教会員みんなでバスに乗って旅を続ける正夢のような、不思議な夢の話。続いて、2008年献堂した100年もつはずだった新教会堂。当初「それなのに、どうして2年半で閉鎖になってしまったのか。」と悔しくて、割り切れない気持ちで一杯でした。けれども、今少しずつ、やはりあの時、建てておいてよかった、と思い始めています。もしも今年の3月、あの古い建物のままで巨大地震に遭遇していたとしたら、古い建物では耐えきれずに崩れ、教会の中にいた人がけがをしていたかもしれないと、気づいたからです。思い返すと私たちは、かねてより、「もし大地震がきたら、このホールは大丈夫だろうか。」と話し合っていました。今回の大地震に出会う前の、それこそ5年も以前から、神様は私たちの教会が後に出会う震災時を案じ、雨漏りを通して私たちの心の中に新会堂建設の志を植えつけ、今回の震災に備えさせたのだろうかと、解釈しはじめています。

 とにかく、すべてのパズルが解ける日が来るといい。次々と、面白いほどに、謎解きが始まり、隅から隅まで、気持ちがいいほどに見事にストーリーがつながり、胸がすく思いをしてみたい。今までの、胸のつかえが一気に取れて、何憂えることなく、晴れ晴れとした心境になってみたい。早く、そんな日が、来るといい。その日よ、すぐにでも、やって来い。

 いけない。今、乗っている、新幹線のせいにしましょう。せく心をおさえ、自らの勇み足と協議して、神様の残された数々の指紋を目の前に置き、「大丈夫、大丈夫。」と、自分のこころと折り合いをつけることに、致しましょう。

 合言葉は、「だいじょうぶ。だけど、だいじょうぶ。」、に決めて。

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。

「立ち返って静かにすれば、

あなたがたは救われ、

落ち着いて、信頼すれば、

あなたがたは力を得る。」

            イザヤ書30章13〜14節  

5月30日(月)京都行き新幹線内にて



その24

 忍耐勝負になって来ました。当初、こんなに長く避難生活が続くとは思っていなかったからです。みんなで生き延びるサバイバル脱出劇から、ひとまず落ち着いて、厳しい現実と静かに向かい合う、非日常の中、いかに日常をつなぐかのレースに変化しつつあります。旅は続き、まだ終わりそうにありません。できれば半月ほど前に、終わって欲しかった。
 訪ねてくる人の多くが、口々に休みをとるようにアドバイスしてくださいます。よほど、疲れているように見えるのでしょうか。くれぐれも、伸びてしまわないように、気をつけましょう。確かにひとりになり、寝転がる茶の間が、私たちにはありません。朝から来客続きという日は、普段もあるでしょうが、毎日となると、話は別です。果たしてこの非日常が、いつまで続くのでしょう。私たちはそのときまで、もつでしょうか。

 創世記と黙示録は、私たちにとって希望です。そこには、はじめと終わりが記されているからです。この旅路も、終わりに向かって近づいているはずです。神は永遠ですが、神が造られた世界のすべてに、始まりと終わりがあります。私たちは時々刻々、旅の終わりに向かい進んでいます。そう、解釈しましょう。
 突然の旅が始まって、早2か月半、ここにきて避難生活も大きく舵を切ろうとしています。なんとか日々いのちをつなぐ段階から、今は個別のニーズに対応するきめ細かいサポートが、必要とされています。長引く避難生活に伴う、メンタル面他、個々人や各家庭のニーズにこたえる生活環境の整備です。どうやら、短距離レースから、中距離もしくは、長距離に、様相を転じ始めたようです。私たちも、心のギアチェンジが必要かもしれません。

 聖書を開くと、エジプト脱出時のモーセたちは、脱出劇がひと段落すると、今後の長い40年にわたる旅路に備え、大きくシフトチェンジするよう迫られたことが、わかります。(出エジプト記18章)脱出時の体制では、その後長く続く、厳しい旅路を全うすることは、難しかったからです。私たちはまさか40年続くとは言いません。けれども、どうやらこの旅も、そう短く終わりそうにない気配を、感じ始めています。
 出エジプト後の神の民は、ほどなく「エジプトも案外よかった」とか、「ニラやニンニクが食べたい」等と口にするようになり、群れが危機に直面したことも、聖書は記しています。きっと、旅の途中でストレスも極限に達し、いろんなことが起きたのだと思います。
 私たちにもあり得ない忍耐力と、知恵が必要です。「あなたがたが神のみこころをおこなって、約束のものを手にいれるために必要なのは忍耐です。」(ヘブル人への手紙10章36節)とか、「忍耐を完全に働かせなさい。」(ヤコブの手紙1章4節)と、聖書が記す、その忍耐力と知恵がです。
 そのために、どうかお祈りください。

 ところでクラッシュ・ジャパンという団体が、各地でボランティア活動を展開しています。ありがたいことです。このクラッシュは、救済・協力・支援・希望の頭文字をとって命名されたそうですが、この度の一連の出来事は、私たちにとってまさに突然、異常に、生活、地域、時のすべてが、完全停止して、動かなくなる予想外のクラッシュ状態でした。
 主よどうか私たちの心の中までが、クラッシュし萎縮することのないように、お守りください。                     

5月22日(日)福岡〜羽田便機内にて




その23
 現代は、ネットの時代です。もしも今ノアの箱舟があるとしたら、きっとネットの時代の箱舟で、散らされた初代教会を見るとしても、ネット網が張り巡らされた中での、旅路かもしれません。今回の震災で、瓦礫の下で救助を求める親の携帯から発せられたSOSを、ヨーロッパにいる息子がキャッチし、ネット上で助けを呼び掛けると、それを見た多くの日本にいる人たちが立ち上がり、様々な手立てを用いて、ついに救出したという報道を耳にしました。また、年老いた親に持たせた携帯電話の着信履歴から、震災の中、わけがわからなくなった親の身元が判明し、ご家族と再会したという話も。

 私たちの教会でも、幾つかの似たようなケースがありました。まずは、副牧師がかねてから、教会員や教会に出入りしていた方々に配信していた一年365日の、デボーションメールです。それがひとつの命綱となって、誰がどこの避難所にいるか、またこの人は無事かといった安否情報が、一つ一つ明らかになり、収集されていったのです。次に、震災後ほどなく立ち上がったホームページです。そこに、教会員の被災状況や安否情報が載ると、やがて各地に散った教会員がそのホームページを見てその情報や祈りの課題を共有し、不思議な一体感をもつようになりました。更にはそのネット上の情報が、いろんな垣根を越え始め、思いもかけないところへと展開して行きました。

 そのスピードと拡がりは、当初から私たちの想像を超えたものでした。まるで津波のようと言うと、言い方が微妙ですが、私たちの目から見てそれこそものすごい速度で、地域や海を越え、ことばの壁まで乗り越えてみるみるうちに伝搬して行ったのです。ピーク時には、私たちの教会のホームページへのアクセス数が、一日20万件を超えました。

 有難い話です。私たちは、一人ぼっちではない。突然襲いかかった震災の中を、ひとりでもがき苦しんではいない。忘れられた存在ではない。その証拠に多くの人たちが私たちを、見つめて応援しているではないか。震災と同時に気づき始めた数多くの方々からの視線は、ネットを通して私たちのもとに届けられました。それはときに、私たちを包み、励まし、勇気づけたのです。ありがとうございました。その驚きは、突然襲いかかった津波の脅威に勝るとも劣らぬ、いわば第二波の津波のようででした。

今週の礼拝に、2か月ぶりに出席したある教会員がいます。その方は、ある日近くの教会に行ってみると何と初対面なのに、「足の具合はどうですか」と聞かれたそうです。初めて訪れたはずですが、自分のことをホームページの安否情報を通して知り、覚え祈っていて下さったとのことでした。最近、足の具合がよくないことまで知り、祈っていて下さるとは、信じられない話です。

 どうやら私たちは、ひょんな形で世界中に知られてしまったようです?

また昨日の礼拝には、アメリカからあるご夫妻がわざわざ訪ねて来られました。お聞きするとアメリカでクリスチャンになられ、現在もアメリカ人教会に通っておられるとのこと。日本の教会を訪ね、日本のクリスチャンに会うのは、今回が初めてとのことでした。そして、今回の大震災を通して、多くのアメリカ人が私たちの教会のホームページにアクセスし、日本語の動画に至るまで、観て下さっていることを伝えて下さいました。日本語で、わからないはずなのに。それでも覚えて見守って下さるとは、なんとありがたい話でしょう。

すかさず、「どうしてですか」とお聞きすると、「クリスチャンが1パーセントの国日本で、教会が被害を受けたというニュースが聞こえて来ないのは、きっとその地方に教会が少なく、被災したクリスチャンもいないのではないか」と考えていたというのです。ところが、日本にもクリスチャンがいて、ウエブサイトを通して、教会も被災し、旅をはじめていることを知り、苦しみもがきながらも、メッセージを発信していることに、驚いたというのです。

驚いたのは、こちらです。

もともとこのブログは、誰かに見られるために書いたのではなく、地震と津波と原発事故の中で、私たち夫婦が福島の教会員のもとに行こうとした前々日の3月13日深夜、何とかこのために覚えて多くの人に祈って欲しいと、私たちたちの教会が所属する保守バプテスト同盟議長あてに、緊急の祈りの要請メールとして、打ったことが始まりでした。それが、フェイスブック等で、たちまちいろんなところに拡がり、クリスチャンかクリスチャンでないかにかかわらず、見ていただくという思わぬ展開になりました。

 震災直後から驚くこと続きで、大抵のことには驚かなくなっていたはずなのに、余りの予想外の展開に、きつねにつままれたような心境です。どうやらまだ、修行が足りないようです。 

話は変わりますが、今回は我が家の愛犬も、ともに被災しました。大きな艱難を一緒にに潜り抜けた、いわば立派な被災犬です。「よく頑張ったね」と、声をかけてやることにしましょう。(その割には、余り大事にしてなくて、ごめん)14歳になる、白内障気味の老犬で、2.7キロの、小型犬(パピヨン)です。

 思えば彼も、いろんなところを通りました。これまで我が家の子供たちの成長から進学まで、結婚、そして恐るべき孫の襲来まで(?)を見届けてきました。これからはやっと、室内犬のごほうびとして、他の多くの犬たちが迎える、飼い主との静かなる余生が待っていると思っていた矢先の、震災です。おそらく、訳がわからなかったことでしょう。出先での被災した彼は、それに続く飼い主とのいきなりのノンストップの逃避行につきあうはめになりました。この2カ月間の走行距離は、半端ではありません。一体彼は、この一連の出来事をどのように見ていたのでしょう。

彼もかつて、静岡からもらわれてきて東北の地で育ったので、さすがに忍耐深く、何度聞いても、決まって「ワン」としか答えません。多くのことを呑み込んだうえでの「ワン」ならば、よほど私よりできていますが、もしかして何も考えていないのではないだろうかと、少々の疑念も抱いています。

とはいえ、「よく旅が続くなあ」とか、「どうしていつまでもボクの家に帰らないんだろう」と、考えているかもしれません。

いずれにしても、何が起こったのかも分からないまま、その日、その時を精いっぱい生きてきたのは事実です。それでいい。何もわからなくとも、分かっていても、とにかくがんばって生きた。きっと、彼は彼なりの(犬なりの?)、相当のストレスを抱えながら、生きてきたはずです。よく耐えて、何がどうしてこうなったのかもわからない道のりを、わかってもわからなくても、生きてきた点では、私たちと同じです。

父なる神も果たして、私たちを振り返ったとき、「困難の中、よくがんばった」と、声をかけてくださるのでしょうか。
                5月16日(月)東北新幹線内にて



その22
 沖縄での被災報告集会にも、一昨日東京でもたれた集まりにも、多くの方が来られました。ありがたいことです。先日は、一般のスポーツ新聞から取材を受けました。震災以降、めっきりテレビのニュースや新聞を見なくなりましたが、それでも教会から5キロ圏にある福島第一原子力発電所事故に関するニュースが、毎日一等最初に流れていることは知っています。そのせいでしょうか。あるいは、教会が建物と故郷を離れて旅を続けている特殊性からでしょうか。いずれにしても、多くの方が関心を寄せ、忘れることなく寄り添ってくださることはありがたいことです。

 今回の震災で、初めて鋏状格差(きょうじょうかくさ)という言葉を、知りました。阪神淡路大震災のとき、被災した人々が時間の経過とともに、ちょうど鋏(はさみ)が広がっていくように、復興に向け、がぜん元気になっていく人たちと、ひたすら落ち込んでいく人々の二つに分かれ、格差は広がっていったというのです。適用すると私たちの地域は後者に属し、時間の経緯とともに、真綿で首が絞まるような重苦しさがのしかかってくるのだと思います。がれきを取り除いたり、家の中を整理したりすることができず、雨漏りのまま我が家をいつまで放っておくのか。復興に向けた、ゴーサインが未だ見えません。

 ややもすると、自分たちの地域だけが復興の流れから置いていかれ、3月11日のままである。ひたすら落ち込んでは、悲しみに暮れそうです。けれどもそんなとき、いやひとりではない、私たちは決して忘れられていないという事実は私たちを励まします。

 もし帰れないなら、いっそどこかにクリスチャン村を作って、武者小路実篤の村づくりか、北海道の屯田兵による開拓か、ブラジルの大地でのクリスチャンの理想郷づくりかアーミッシュやカッパドキアの地下教会か、とにかく何かしらの共同体を作って次なる一手を打とうかと、一瞬頭をよぎったりもしました。どこかに土地を求め、老人ホームをつくりお年を召した方々に入っていただき、教会員がヘルパーの資格を取って働いて仕事を創出し、アパートを建ててみんなで肩寄せ合って生きていく。そういえば、教会では4月からNPO法人を取得して、デイサービスを始める予定でした。

 時折、このキャンプ場での生活は、究極の老人ホームかデイサービスか、とにかくお年寄りから赤ちゃんまでがともに片寄せあって助け合いながら生きていく、コミュニティーだと思います。

 しかし先日、葬儀でお会いした教会員に「先生、まさかそちらに落ち着いてしまうことはないでしょうね。」と釘を刺されたのでした。そうだ、今はまだ震災から2ヶ月。あきらめるときではない。詩篇126篇にある都のぼりの歌のように、私たちにとってのシオンの都は、あの懐かしい教会堂の立つふるさとにではないか。そこに、全国に散っているみんなと、やがて歓喜の涙と感動をもって帰還するその日、その時を、待とうではないか、と幾たびも自らを鼓舞し、自分たちの立ち位置を再び確認するのでした。

   都上りの歌

主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。

  そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。

そのとき、国々の間で、人々は言った。

「主は彼らのために大いなることをなされた。」

主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。

 

主よ。ネゲブの流れのように、私たちの捕われ人を帰らせてください。

涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。

種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。

 

詩篇126篇

 

                        5月11日(水) 奥多摩にて

 

追伸:アップするのが、すっかり遅くなってしまいました。週末に、震災後4度目となる葬儀がありました。実質、1ヶ月間に、4回の葬儀は多いと思います。

  同時に、昨日は6名の方のバプテスマ式がありました。ハレルヤ。

 今回は、何人か水の苦手な方がおり、以前にも書きましたが前方に倒れるか後方かで選択を自由にしました。「あなたは、前ですか?後ろでしたか?」といちいち聞いてから行うため、その都度びっしり人が詰まったお風呂場にどっと笑いがこぼれました。

  ネゲブの荒野に、雨期になると信じられない鉄砲水が流れくだるように、私たちもやがて故郷に帰還する際には、信じられないと口々に語り合いながら、止まらない笑いがどっとこぼれるようになるのでしょうか。                                         5月16日(月)


その21

 今、沖縄の被災報告集会に向かう途中です。一昨日、またひとり教会のメンバーが天に召されました。病を抱え、骨折しながらの逃避行と避難生活は、お年を召した姉妹には相当過酷だったと思います。もしも震災がなかったら、とどうしても考えてしまいます。もしもの人生はありえないと、承知しているはずなのに。2か月の間に、3人の教会員を天に送るようになるとは、思ってもいませんでした。

 もちろん、私たちの思いをはるかに超えて、主のみこころが貫かれていることは、承知しています。今週もたれた兄弟の葬儀でも、多くの方が集いました。あちらから、こちらの避難所から前夜式、告別式と、教会員もそれぞれ60名ほどがかけつけ、さながら散らされた教会の同窓会みたいとささやく声も聞こえました。きっと兄弟が、自らの死をもって、葬儀場に震災でばらばらになった懐かしい教会員たちを集め、1ヶ月半ぶりに再会させたのだと思います。

人は死を持って、多くの人を自らのもとに集めます。兄弟とそのご家族も、是非にも葬儀の席で伝道して欲しいと願っておられました。英語クラスのご父兄や生徒たちに、またかつての職場の方々や、親戚に。そして、人々の心揺れる震災の最中で、大勢の方々がみえられ、さながら伝道会のような葬儀が執り行われました。

 「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお信仰によって語っています。」(ヘブル人への手紙11章4節)と聖書にあるように、いのちと信仰は、受け継がれています。イースターの週、葬儀と並行して行われた洗礼式の中にも。また、葬儀がちょうど震災で人々の心が激しく揺れ動き、福音にこころ開かれていると思われるこの時期に。おそらく兄弟は、知ってか知らずか、伝道の好機をみはからうかのようにして、自らのいのちをもって、人々に救い主イエスを指示し、地上における最後の使命を全うしたのだと思います。

 

 先月は、2つの葬儀と前後するかのように、2度洗礼式がもたれました。今月は、6名の方が受洗されます。ところで、最初に震災後風呂場で洗礼を受けられた姉妹は、本当は震災直後の3月13日の日曜日にうける予定でした。ところがこの姉妹、例の放射能漏れの事故ため町中が強制避難となったにもかかわらず、電話で教会に「次の日曜日、洗礼式ありますかと」問い合わせてこられました。もちろん、うれしいことですが、もしもそうなったなら、その洗礼式は副牧師の先生にお願いして私は退避しようとか、現在の奥多摩福音の家のそば近くにあるきれいな川で洗礼を受けたいと別の方が申し出られると、川の水は相当に冷たいそうなので、これもまた副牧師にお願いする他ないなどと、しょうもないことを考え、苦笑してみたのでした。             

 辛いことや、重苦しいことに囲まれていると、ちょっとした出来事や喜びが幾倍にも増幅して見えるような気がします。きっと、どこかに明るいニュースがころがっていないかと、こころが必死で探しているせいだと思います。どこかに、何か、何でもいいから、心をちょっとでも明るくするニュースが落ちていないか、と。

そういえば私たちの教会は、洗礼の時、全身を水に浸す伝統があるバプテスト派の教会です。そこで、水位の低いキャンプ場の風呂場でどのようにして洗礼式を執り行おうかと、少々頭を悩ませました。前に向かって水の中に倒れるか、あるいは後ろかで。デモンストレーションもしました。ある方は、水が苦手で苦慮しますが、先に洗礼を受けた姉妹は、水は得意と言うことでした。そこで洗礼の当日、前方に倒れ伏すと、なんと本番で彼女はなかなか顔をあげません。もしかして、あの日放射能で受けられなくなった分まで水に浸っていようとしているのだろうかと、少々悠長に構えていた私は、急に不安になって「そんなことを考えている場合ではない。このまま彼女が、天国に行ってしまったらどうする。」と慌てて彼女の顔を水の中から引き上げたのでした。「あー、ほんとうに天国に行くかと思った。」みんな、笑いました。こんな洗礼式も、初めてでした。震災は、思わぬ出来事を体験させてくれます。

 沖縄への道々、この文章を打っています。今、ちょうど飛行機の中です。浜松町から羽田空港に向かう途中、モノレールが海のそばを走りました。ふと、もしここで地震がおこり、津波が押し寄せたら、ひとたまりもないと頭をよぎりました。私はこのモノレールの中で、召されるのだろうかと。

 洗礼式を明日に延ばさず、今日受けるのはいいことです。放射能があっても何があっても強く受けたいと願い出、来月や来週があると考えずに、今この瞬間に主の前で身をただし、新しい一歩を踏み出す決断の背後には、明らかに震災の中での特別な神の促しがあります。多くの別れを経験している私たちにとって、神の前での新たないのちの誕生は、この上もない喜びです。

私も放射能がどうだとか、川の水が冷たそうだとか、たじろいでいる場合ではない。後の者が先に、そして先の者が後にならないよう、震災の中で前進することと致しましょう。

最後に、つまらないことを記しますが、先日財布の中からあの店、この食堂の、ポイントカードや期間限定無料食事券やらが、結構出てきました。すると姑息なことに、何だか随分もったいないことをしてしたような気がしてきて、こんなことなら早く使っておけばよかったと、悔やまれてきました。

更に芋づるしきに、次々と後悔することが思い浮かび、そういえば家の少々のリホームも直前に交換したボイラーも、あの液晶テレビまでもが、「あー、こんなことなら、買わなければよかった」「何のために交換したのか」と、果てしなく考え始めるのでした。これはまずい、後ろ向きの負のスパイラルに沈んでいきそうだ。貯まったポイントカードはあっても、店そのものが無いのに。街から人が消えているのに。

心が、いかにいつまでも未練がましく、物事に執着して離れられないかを、また思い知らされました。かつてロトの妻が、振り返ってならない後ろを振り返り、塩の柱になってしまったと創世記の記述にあるように、どうやらそれはそんなに遠く昔の物語ではなさそうです。

危機迫り、私の心の中もいよいよもって危機迫っているようです。


 ところでこれから向かう沖縄の方々は、いち早く私たちを援助するため立ち上がり、祈り、支援してくださいました。いわば、いのちの恩人です。仲間からの熱い感謝のことばを、伝えましょう。

 すべてのご支援くださっている方のもとへお伺いできないことを、お許しください。

                5月5日(木)子供の日 羽田発那覇行き、上空にて

                                    佐藤 彰


その20

今週、五十四歳で一人の兄弟が天に召されました。今日福島で前夜式が持たれ、明日は火葬、明後日に東京の礼拝で偲ぶ会を持ち、月曜日再び現地でお葬式です。一か月半の中で二回の葬儀は、多いと思います。昨日の朝ある教会員が「全員故郷に帰り、みんなそろって礼拝できますように。」と祈りをささげていました。それが叶わず、残念です。葬儀や偲ぶ会が、福島と東京で交錯するように変則的に行われるのも、避難生活にあっては致し方のないことと心得てはいるはずですが。今日と明日は現地に副牧師と伝道師が向かい、来週私が行きます。ここをすっかり留守にするわけにもいかず、避難生活ゆえの変則を余儀なくされる営みが続きます。牧師を含め誰も礼服を持っていないため、今度もまた普段着のままの参列です。

 2週間前行われた五十歳の姉妹の葬儀に続く、この度の兄弟の葬儀は、正直きついものがあります。ひとりも欠けることなく元のままで全員そろって教会に戻り、礼拝したかった。旅の途中で、ひとりまたひとりと欠けていき、お見送りしなければならないことは、無念です。

 兄弟は、三十歳で悪性リンパ腫を発病し胃を全摘。その後、その都度幾多の厳しい闘病生活を乗り越え、震災の最中、五十四歳での召天となりました。その間教会に足しげく通い、礼拝することを何よりも喜びとし、英語の同時通訳奉仕は誰が見ても神からの特別な賜物でした。ただ、最期は被災の中に置かれ、一時は避難を余儀なくされたご家族と離れ離れとなり、ひとり病院にいた時もあり、どんなにか心細かったと思います。その後風評被害も度を超え、病院にも物資や薬が滞り始めました。余震続く中、彼は相当不安だったと思います。その間私たちも何度か訪問はしましたが、いかんせん東京と福島のため距離が遠く、頻繁にというわけにはいかず、そのためかその都度最後の別れ際の握手は、決まって全力で、もしかして何かを念じているのだろうかといぶかしがるくらい、いつまでも手を放さないのでした。

 けれども、時に壮絶を極めた闘病の苦しみもこれまででした。きっと神様は兄弟にもっともふさわしい旅立ちの日として、イースターを備えられたのだと思います。喉に管がつけられても、筆談にて力を込め「よみがえり。使命がある。」と書き続けた兄弟です。 

 モーセの生涯は百二十年。彼ははるかにネボ山から約束の土地を見渡し、ついにその地を踏みしめることなく、生涯を閉じました。どんなにか心残りだったことでしょう。しかし、神が用意された彼の人生はそこまででした。後は後継者ヨシュアにすべてを任せ引き上げられました。もとより私たちも、神の手の中で生きています。そして、人生は旅路です。私たちの場合は果たしてどこまででしょう。いつまで生きるでしょう。ただ、それぞれに用意された行程を、精一杯全うするのみです。最後はゆだねて、バトンを渡し、天に引き上げられましょう。今週は、世界中でイースターです。 

どうか一連の葬儀が、被災の最中であっても、普段着のままの参列でも、彼にふさわしい、復活の希望あふれる、真心のこもった式となりますように。

主よ、お導きください。
                     4月30日(金)佐藤  彰

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