バナー
避難生活報告

最終回

献堂式を終えて(最終回)

 献堂式を終えましたというか、駆け抜けました。式の準備に本格的に入ったのは、実は5日前の月曜日です。それこそやってみなければわからない式への、突入でした。が、振り返ると、突如流浪の生活が始まった私たちには、ふさわしかったかもしれません。上限の400名を超える申し込みとなり、慌てて締め切ったものの、さてこの人数で、どの様な献堂式が可能かと頭を悩ませていました。案の定2時間バージョンのはずが、1時間超えの、3時間の式となりました。

 この2年間、それだけの内容があったわけだからしょうがない、と言い聞かせてみたり、「このような献堂式は初めてです」と言ってくださる方のおことばにすがり、納得を試みたりと、どっと直後に疲労感に襲われたのは、そのせいでしょうか、ボリュームがあったからでしょうか。とにかく、怒涛の献堂式でした。改めまして、これまでのあたたかい見守りと並走を御礼申し上げます。

 私は司式の間中、この場所に列席しておられない、背後におられる多くのサポーターの皆様を意識しておりました。

 突然ですが、献堂式終了をもって、この震災ダイアリーもひとまず閉じたいと思います。3・11直後、何かにつかれたように打ち始めたブログも、果たしていつまでかと考えておりました。そして献堂式が、その終期にふさわしいと考えました。これまでの2年間、ひたすら必死に打っただけの文章におつきあいくださり、ほんとうにありがたく思います。当初、途方に暮れながら当てもなく投げた文章を、あまりに多くの方が受け止めてくださったことに驚き、打てば響くあたたかなネットワークの中にあるしあわせを感じました。

 一つ後悔があるとすれば、献堂式で、うっかりこれまで黙々と翻訳し続けてくださった方々をご紹介するのを忘れてしまった点です。震災その日からちょうど2年と2カ月目に当たる5月11日土曜日の午後1時半からスタートし、2時46分に参列者全員が起立、黙祷をささげるまでは順調でした。ところがです。肝心の韓国語翻訳をし続けてくださった崔先生をご紹介して感謝を表すことと、ドイツ語に関してはクラウディア姉、フランス語はダニエル先生、英語は長い間横山先生、中国語は台湾の姉妹方、スペイン語はペルーからと、これまでの大変な翻訳をしてくださった方々への御礼を申し述べるはずでした。

 この場をおかりして、改めて御礼申し上げます。長い間、本当にお世話になりました。

 おかげさまで、この文章は言葉の壁を超え、民族をまたぎ、結果雲のように多くの方に知っていただく形で、いつしか多国籍の様相となり、ネットの時代の風にも乗って、どんなに私たちに励ましを届け、不思議な物語をつづってきたでしょう。険しい震災ロードであった分、ありがたく感じ入ったネット網の温もりでした。そのインターナショナルな風は、果たして海の向こうから吹いてきたのでしょうか。それとも、天からだったのでしょうか。ほとんど詩を打つように、震災にもまれながら書きつづった癖のある私の言葉を、忍耐をもって、労苦を惜しまず、もしかしたら使命感からでしょうか、言語を変換し続けてくださいました。

 もう一度これまで翻訳に携わってくださった方々、そして、それを熱い心をもって受け止めてくださった皆様、心から御礼申し上げます。当初、孤独を噛みしめていた私たちにとって、どれほどの支援となったでしょう。

 ともに涙し、笑ってくださる皆様方と、ずっと並走していたんだと、今頃気づきました。何を孤独だなどと勘違いしていたのでしょう。私たちはずっと多くの証人に囲まれ、見守られながら、震災ロードを歩んでいたのでした。ひとりぼっちどころか、ずっと神様が片ときも離れることなく、見守っておられました。

 ドラマがクライマックスに近づくにつれ、当初の謎が解けるように、この2年にわたる不思議な旅のキャスティングは、やはり神様だったのだと悟りました。知ってか知らずか、私も含めて皆さんも、もしかしたら舞台の上にいつしか乗せられ、それぞれの役回りを担っていたでしょうか。

 

 けれども神様、もう降りてもいいですか。この震災ロードマップの終期はいつですか。まさか、本当の旅はこれからなどとはおっしゃらないでしょうね。一度は何とかやりましたが、二度はあり得ませんから。

 そういえば、震災に遭遇する1年半前、「苦労して終えた会堂建設は、今回で終わりにする」と自ら言い聞かせたはずでした。なのに、どうでしょう。どれほど苦労して新会堂を建てたかを知っておられるあなたは、その直後にまさかの故郷の喪失、そして震災後2年を経ての再度のチャペル建設へと私たちを促されました。

 えっ? 

2度あることは3度ある?

まさか。

 もう、十分です。

やるだけ、やりました。

次回があるなら、どうか公平に、輪番制で、別の場所でお願いします。

 なんて、それではまるで、「福は内、鬼は外」の世界ですか。

 だけど、とにかく、私はもうそろそろ、降ります。

 この後、皆さんも神様も、もし仮に私がどこかに引きこもったとしても、もしかして万が一、何を思ったか、行方をくらますようなことがあったとしても、どうか大目に見て気にしないでください。

まして探したり、追いかけたりはしないでください。

 後生だから、お願いします。

 なんて、もちろん冗談です。

 どうか、皆様お元気で。

そして神様、感謝します。

                     (2013年5月13日献堂式翌々日、浜松行新幹線にて)

                                                                                           *1週間前に書いたこのブログ、成田空港まで持ち込んでしまいました。今日は521日カナダに発ちます。

**お知らせ:今年、このブログをまとめた「流浪の教会最終版・新しい旅立ち」(仮称)が、出版されます。ご覧ください。また、もしかすると、ブログに書いた我が家の愛犬パピの被災物語「パピが見た東日本大震災(仮称)」という絵本も自由国民社から出版されるかもしれません。


その65

                     献堂式を目前に

 今私は、震災から2年と1月を経た4月11日の大阪からの帰り道、新幹線です。何とかここまで、たどり着きました。教会堂の工事と並行して、すでに二度の結婚式と二度の納骨記念会が行われました。それから300人をお招きしてのコンサート。竣工を目の前にして、早随分用いられた会堂になったと思います。と過去形で言いたいところですが、一カ月後には献堂式が控えています。出席は400名になりそうです。果たしてそれほどの人が、この会堂に入るでしょうか。震災の中で生まれたこのチャペルは、半年分位働いたような気がします。

 いつの日か、「つばさの教会」の絵本を出したいとも思い始めました。その前にどうやらまずは、震災の中で命を落とした愛犬パピの震災体験物語が、絵本となって出そうです。「流浪の教会」の最終版「新しい旅立ち」も、出版準備を始めました。献堂式と並行してやるだけやって、行ける所まで行ってみたいと思います。

 震災から、2年2カ月を経て迎える献堂式が、とりあえずの一区切り、節目となるでしょうか。

 ブログを打つエネルギーもいよいよ尽きてきたのか、今日はもう4月の30日、今私は新幹線で名古屋からの帰り道です。今月11日に大阪からの帰り道、同じく新幹線内で打ち始めたはずのこのブログも、こんなに短くて、にもかかわらずやっとの思いで今頃のアップとは、青息吐息状態もあふれる直前に達しているのでしょうか。

                                      (4月30日、新幹線にて)



その64

怒涛の日々

 

 怒涛の日々が、続いています。私は今、昨晩のお茶の水でのお話を終え、帰路についています。約40名の音楽家の方々による、震災支援コンサートでのメッセージでした。そのクラッシック音楽会が三日後、完成間近い翼の形をした私たちの教会で、地域の人達へのお披露目として開かれます。

波乗りを続けているような気分です。工事は遅れて、半ば工事現場の中でのような結婚式も、4日前に挙行しました。今月は洗礼式も、来月になると再び結婚式もとりおこなわれます。

きっとすべて、何とかなるでしょう。何がどうなっても、今までもそうしてここまできたのですから。

先々をあれやこれや心配し過ぎると、すっかりエネルギーが吸い取られ、気がつけば果てしなく落ち込んでいきそうです。どこかで要らぬ気苦労を天にゆだね、進むことにします。

 

「あなた方の思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなた方のことを心配してくださるからです。……キリストにあるあなたがたすべての者に、平安がありますように。」

                                  新約聖書・Tペテロ5章7、14節

 

 一歩先も、その先の未来も、その都度その場所に立たれる神様が、折々に何とかしてくださると信じます。信じないと前に進めないし、心かき乱されて自滅するリスクを避け、平安を大切にして明日に向かうように、聖書は勧めているのですから。

 

 話は変わりますが、昨日夕方のニュースで、私たちの教会が放映されました。と言っても、私は東京での講演前だったので見てはいないのですが、突然全国ニュースの中で流れることになったとテレビ局から連絡がありました。放映直前まで編集しているとのことでした。どんな番組になるのかと、講演前なのに気もそぞろでしたが、有難くも思っています。

 昨年制作していただいた3本の番組も、テレビクルーの方々が涙を流しながら私たちを撮っていってくださいました。報道関係者の、寄り添いでしょうか。震災支援でしょうか。今回も、取材する中、涙を流された方もおられたと聞きました。

 

 結婚式は、確かにストーリーでした。新婦は、この度の震災で故郷を追われ、隣県に避難しました。震災前は新築の住まいを構え、英語スクールも開催していました。そんな、英語教育に情熱を注いでいた最中の被災です。英語クラブは、閉鎖となりました。思い入れをして建てた家も失い、どれほどの喪失感だったでしょう。

 その以前の話をすれば、彼女はかつて、交通事故で大好きなお姉さんを失い、後にはお母様も同じく酔っ払いの運転者による交通事故で亡くされました。そんな暗闇のトンネルをやっと抜け出して、何とかここまで人生を建て直したのに、そんな矢先の震災でした。再び何もかも失ない、振り出しに戻ってしまったのです。

 しかし、避難して身を潜めた先で、今回結ばれた新郎と出会いました。彼は彼女との出会いを通して聖書を知り、洗礼に至りました。そして今回の結婚式です。悲しみが消えたはずもありません。けれど、たとえようのないない喪失感の中で、それでも明日はあったのです。

 だから私たちも、未来に神の備えがあると信じて、次の一ページを開くことにしましょう。

 

 ところで取材班は、その2日後にもたれた「3.11祈りの集会」も撮っていかれました。震度7弱の大地震が起こった午後2時46分に合わせて、皆が起立し手をつないで、故郷の方角を向きながら黙祷をささげました。そして、写真や映像を通し、想い出も語り合いながら、震災前のあの懐かしい故郷を思い起こし、震災以降の険しい道のりまでを振り返りました。

 いつ思い返しても、胸が押し潰されそうになり、目の前に抜けるような青空はありません。一面霧が立ち込めているようにさえ思ってしまう日々は、いつまで続くのでしょうか。

 

 

 今、電車は JR泉駅構内に着きました。

サザンカが咲いています。

 我が家のサザンカは、家主がいない古里で、今年も咲いたでしょうか。

 

                      

                                   3月13日(水)朝、常磐線にて

 

*お知らせ:18日(月)〜19(火)テレビ朝日「テレメンタリー」30分番組で「3.11を忘れない 原発に一番近い教会」が放映されます。深夜ですが、詳しくは教会ホームページをご覧ください。県ごとの放映時間が記されています。よろしかったら、お知り合いの方にもご案内ください


その63

未完成入堂式、決行

 昨日、未だ工事中の翼の教会堂で、入堂礼拝を見切り発車で行いました。借りている結婚式場が使えなかったからです。朝日テレビの三月放映に、間にあわなかったこともあります。

 数年に一度の寒波でした。強風も吹きました。嵐の中の教会を象徴しているでしょうか。震災が生んだ教会にふさわしいでしょうか。昔、預言者エリヤが旧約聖書で活躍した頃、大風が吹き荒れ、地震が起こり、稲光が現れましたが、神はその中にはおられず、その後静かに細き御声をもってねんごろに彼に語られました。エリヤはほとほと疲れ切って、生きるのが嫌になっていたからです。

 そういえば、入堂式の最中、地震がありました。終わると大風が吹き荒れました。稲光はないものの、終わってニュースを見ると、この日、数年に一度の寒波がきたことが報道されていました。東京から駆けつけてくださった幾人かが、電車が動かず足止めを食ったこと、バスも満席で乗用車に切りかえて羽田空港に急いだことを、知りました。

 大荒れに荒れた中での、未完成の翼の教会入堂式は、私たちの過去、現在、未来を表わしているのかもしれません。荒れ狂う大自然の中で、感謝と涙の入堂式は進められました。昨年末、ドアもなく、外気すかすかの工事現場の教会堂で、天井から落ちてくる雨水を避けながら、暗い中ほとんど洞窟状態で礼拝したことを思い出せば、耐えられないことはありません。私たちは、一連の震災を通し無いものを数えないで、あるものを数え感謝することを勉強したはずです。つぶやけばいつでもどこでもきりがありませんが、それよりは、天を見上げて前に進むことを学びました。

 だから今回は、そのことを象徴する一区切りのセレモニーだったのかもしれません。引き算はよして、足し算の計算式で、最後まで行きます。震災と原発事故の終期はいつかと、よく問われます。わかりません。わかりませんが、人生そのものが、天の都を目指す旅路であることを重ねあわせるようになりました。この世界では、すべてが工事中で、途上です。入堂式では、外壁がつき足場は外れ、内装もほぼ完成している状態を夢見ましたが、現実は程遠く、望んだセレモニーは手に入りませんでした。けれど、これも被災地の現実です。

 当初、7万人が家を失い、この町にも2万3000人がたどり着きました。建設ラッシュは尋常でなく、土地も中古住宅も、大工さんたちも確保するのが困難な状態です。だから教会も、御多分にもれず、工期が遅れに遅れて、本来は昨秋に完成予定が、昨年末に延び、今もまだ建設の途上にあります。忍耐しましょう。つぶやかないで、信じていましょう。投げずに、それでも前進しましょう。

 献堂式も、迷いましたが5月11日(土)13時30分〜行うことを決めました。

一期工事は、当然完了しているものと想定してのことですが、それより何より、どなたにどうご案内したらよいのか、途方に暮れています。これまで、余りに多くの国内外の方々のご支援を受け、御名前やご住所のわからない方も多く、おゆるし下さい。やがて、ネット上で献堂式のご案内をさせていただくことになるかと思います。ご理解、御容赦ください。

 ともあれ、嵐の中の入堂式は無事終わりました。3月中旬、朝日テレビで真夜中の時間帯ですが、「テレメンタリー」シリーズ30分番組で、放映されます。よかったら、録画してご覧ください。(宣伝してすみません)

 その際、取材のためにと、高所作業車を借りて、上から翼の教会を見降ろしました。もちろん私は、万が一にも落ちて死ぬと悪いので、間違っても乗りません。ただ、テレビ局のカメラマンと共に、副牧師が乗りました。怖いもの知らずでしょうか。怖いもの見たさでしょうか。とにかく、尊敬します。

 そしたらどうでしょう。ほんとうに、侵入禁止の故郷の方角をしっかり向いて教会は、翼の形をしていたと言うのです。まるで、逢ったことのない大熊町の教会に向かって、エールを送るようにです。今にでも、すぐにでも、いつでも飛び立てるかのように。まるで兄弟分のように、弟か妹のような様相で。故郷の4つのチャペルがあったから生まれた教会。あの4チャペルが突然閉鎖となったから生まれた、教会堂。

 どれ程、いまだ逢ったことのない兄貴分としての教会堂が愛しいことでしょう。音もなく、突然誰も門をくぐることのなくなった教会たちも、どれ程に新たなる弟分、末っ子のような教会の誕生を、涙しながら喜んで、逢いたがっていることでしょう。

 そういえば、旧約聖書のその昔、兄たちと離れ離れになって、独りエジプトの地に流れ着いた末っ子のヨセフは、13年後に兄たちと再会します。生き別れとなった後、その後生まれた弟のベニヤミンとの初顔合わせも、ヨセフ30歳の時でした。その時の様子を、聖書は次のように記録しています。

 ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、……声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、パロの家の者もそれを聞いた。

 ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして驚きのあまり、答えることができなかった。

 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。

今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。

                               (創世記45章1〜5節)

 と、空想夢想は、余りに擬人化し、ストーリーを作り上げすぎたでしょうか。

それでも、翼の教会はこれ以上ない翼の形を呈し、下に降りず、上に昇るべきことを、私たちに示しているように思います。道半ばでも、思った通り進まなくとも、パーフェクトでなくても、与えられた恵みを数えながら階段を一歩二歩昇り、壁に跳ね返されても、諦めずに超えて進むようにとの。

 せっかく副牧師がいのちがけで、建設中の新会堂を上空から確認したのですから、私たちも前向きな神様の翼に乗って、この困難を乗り越えましょう。もしも疲れてうずくまったら、即座に温かな親鳥の翼の陰に入り込み、上質な羽毛の中にもぐり込みましょう。

主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。

あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。

                                   (詩篇91篇4節)

しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

                               (イザヤ書40章31節

        2013年2月25日(月)未完成の「悲うれしい」入堂式翌日に




その62

震災の中のクリスマス

 震災後、2年目のクリスマスを迎えています。

 「悲しみの人で病を知っていた」(イザヤ書53章3節)と聖書が記す神の御子が、悲しみと暗闇が覆うこの世にお生まれくださったクリスマスの出来事に、静かに思いを馳せています。今年は私たちも教会堂がないため、イブ礼拝を行うことができず、クリスマスコンサートだけを結婚式場を借りて開催しました。

 悲しみと言えばクリスマスその日の25日、私たちが住む町の市役所などの3か所に「被災者帰れ」との落書きがなされたとのニュースが流れ、心痛みました。誰かが黒いスプレーで落書きをしたようです。震災に続く原発事故で、故郷を失くした2万3千人の同郷の人達が、この町に移り住み、じっと二年目の故郷を見つめています。

 この町は急に人口が増えたせいもあってどのレストランも道も混雑し、アパートは満杯状態で、その様な落書きがあったとしてもおかしくない状況が続いています。ある被災者は、義援金を手にして、何もしないでぶらぶらしたりパチンコに行っているとの声も聞きます。突然始まったアパート暮らしに、まだ慣れない故郷から散らされた人もいるとも聞きました。近ごろ気がふさぎ、アパートや仮設住宅から出て来なくなった、と心配する声も。

 事態は、深刻さを増しています。もちろん多くの人々は、「家を失って大変ですね」と、やさしいことばをかけてくださいます。

 ただ、ご高齢の方々は加齢の速度が増すとも聞いていますので、互に声を掛け合おうと意識してはいます。外に出ても見慣れた風景はそこにありません。目が覚めると、「ここはどこだ?」のリセットから始まります。いつも挨拶していたはずの人の顔が、見当たりません。生活の舞台は一変し、物忘れが激しくなったり、外に出る足がすくんでも当然です。

 それぞれの心に被災した傷が残り、不安と怒りが渦巻いています。深々と闇が覆い、光が必要です。闇の中に輝く希望が。

 やがて建つ教会が、様々な亀裂をつなぐ役割を担えたら嬉しいです。閉ざされた故郷と当地の架け橋となり、日本各地や世界と結ぶ翼となるように願いながら、初めての、イブ礼拝のないクリスマスを迎えています。

 ところで先日は、徳島市民クリスマスで四国を訪れた際、賀川豊彦記念館を訪ねました。彼が始めた生協や労働運動、ベストセラー「死線を越えて」をはじめとする300冊にも及ぶ著書等に、改めて圧倒される思いでした。けれども同時に、大正12年に起こった関東大震災の際に彼が、いち早く被災地に入り、義援金集めに奔走し、現在の金額で5〜6千万円を現地に送り届けたことも知りました。

 また、もうひとつ心ひかれたのは、彼が当時、「病のデパート」と呼ばれていた点です。様々な病身でありながら、どうしてあれ程の働きができたのか、と驚きを禁じ得ませんでした。到底ひとりの人間が、一生の間に成せる業ではない、と思ったのです。ただふと、ああ、それほどの病を抱えた人だったから、当時の病める人々に心を寄せ、傷ついた人々の元に駆けつけたのかと、なんだか妙に腑に落ちた気もしたのです。

 「悲しみの人で病を知っていた」イエスの残された足跡とも、そのまま符合するように思われました。クリスマスの寒空の下、救い主がこの世を歩まれた痕跡に、思わぬかたちで触れたような気がして、心が暖かくなりました。

 

 ところで、そのすぐ隣にはドイツ記念館がありました。せっかくだからと図々しく見学をお願いすると、入って驚きました。そこには、1914年の第一次世界大戦で敗戦国となったドイツ兵たちを収容する、俘虜収容所での出来事が記念されていたのです。当時の所長は、なんと福島県出身の松江豊寿。彼は、強い信念で日本政府と渡り合い、ドイツ兵たちを丁重に扱い、捕虜としてでなく、敗戦国の軍人ではあっても、祖国のために命を掛けて戦った尊敬すべき人々として、人権を重んじ、自由を最大限に認めました。だからそこが、捕虜を収容する収容所ではなく、俘虜収容所と呼ばれたことも知りました。そこで、ドイツ人たちたちがつくった楽団によって有名な、神をたたえるベートーベンの「交響曲第九番 歓喜の歌」が、アジアで初めて演奏されたことも。

 なんだか私は、福島県人であることが誇らしく思えてきました。そういえば「とくしま」の「と」を「ふ」に変えると、「ふくしま」になることにも気付かされました。この話は、数年前松平健さんが主演する映画「バルドの楽園」にもなったそうで、せっかくなので撮影現場にも足をのばしました。

 

 重要な点は、彼が福島県会津地方の出身であるということです。彼は、お国のために命をかけて戦った彼らに敬意を表し、最大限の自由を認めたので、後に何人かのドイツ兵は日本が好きになり帰国せず、そのまま住みついたようそうです。

 その背景とは、やがてNHK日曜大河ドラマで始まる「八重の桜」の舞台、会津戊辰戦争です。そこには、幕末の戦いに敗れ、鶴ヶ城を舞台に壮絶な戦いを繰り広げた後、多くの婦女子や少年兵が自刃し、果てて行った悲哀の歴史がありました。官軍との戦いに敗れ、敗戦の憂き目に遭い、辛酸をなめた歴史の子として彼は、祖国のために命をかけて戦ったドイツ兵に心からの敬意を表したのです。

 事実、ドイツで徴兵されて戦地に送られ、戦いに敗れ日本に捕虜として連れて来られた彼らの多くは、眼鏡職人であったり、パン屋さんであったりと、時代に翻弄され徴兵に遭い軍服を着せられた、私たちと同じ普通の人でした。

 色メガネで人を見ない。悲しみの道を歩んだ者こそ、悲しみの中に生きる人々の心がわかるのだと思います。そういえば、新たに任命された復興担当大臣に対して、福島県は「これからは福島県人になり切って、復興に取り組んで欲しい」とその思いを伝えました。

 亀裂が随所に入った刻まれた大地と、そこに住む傷ついた人々の心に宿られる主よ。震災の傷が、今なお冷めない被災地にお立ちください。幾層にもわたる暗闇を一枚ずつ剥がし、クリスマスの光で照らし、新年の希望へとつなげてください。

1225日福島の被災者借り上げアパートにて)

 

 震災2年目のクリスマスから、そのまま震災2年目の年末感謝礼拝と新年礼拝を迎えています。工事の遅れから、いつも使っている結婚式場が年末年始休館のため、工事のつ中のつばさの教会で礼拝をささげました。壁も全部は張り切れてなくて穴だらけ隙間風が吹く中ですが、ビニールシートをたらし、雨漏りを避けながら、大雨の中、12月30日の年末礼拝をささげました。

 ところが、この礼拝が案外味があり、まるで洞窟の暗がりの中でささげる初代教会の礼拝のような気持ちになりました。さすがに寒く私もコートを着たままでしたが、忘れられない礼拝になりました。加えて、ご近所の方も礼拝に参加してくださり、事前に御近所にご挨拶に伺った際には「讃美歌が近所から聞こえるのは、いいことです」と声を掛けていただき、嬉しかったです。

 映画「タイタニック」ではないですが、私たちはきっと突然船の沈没に遭い、気がついたら皆ばらばらにある者はいかだにしがみつき、他のものはそのまま漂流し、あれよあれよという間に旅が始まったのだろうと思います。そして今、福島の故郷の南に流れ着き、家や教会を失ったので、新たな教会や住まいつくりの巣作りを始めたのだと思います。

 これまで積み上げてきたものすべてが、まるで人生の積み木細工が崩れ散るように、木っ端みじんになる事態から始まって、いまだ震災は続いています。果たして、いつまで尾を引くのでしょうか。この旅は、まさか一生でしょうか。終期は、いつでしょうか。

 

 年末に入って再び私は、新たな教会員のアパートや土地、中古住宅、それに就職探しを始めています。私は不動産業者ではありませんが、少しは板に着いてきたでしょうか。

 軟着陸を試みてここまで導かれたのですから、こうなったら行ける所まで行ってみましょう。やれるところまでやりましょう。

 破れかぶれの信仰も、一本の道かもしれません。震災は果たして信仰を形創り、壊れた教会は、新しく教会を生みだすでしょうか。                               

                                  (2013年震災二年目の元旦に)



その61

パピが死んだ

山梨県民クリスマスを終え、特急あずさに乗って名古屋に向かっています。外は雪。昨晩は、多くの方々が集まってくださいました。講演が「震災の中のクリスマス」だったせいでしょうか。震災に多くの方が関心を寄せて下さって、感謝です。

 山梨での震災のお話は、2回目です。思えば震災後からこの19カ月、随分各地をまわらせてもらいました。もしかしたら、5年か10年分の出会いがあったかもしれません。

 今、列車は山梨県から長野県に入りました。長野県にも福島から避難して、息を潜め生活している教会員がいます。

 突然、話が我が家の犬にスライドして恐縮ですが、一緒に避難生活をしてきた愛犬が、ここのところ急に体調を崩し、今日は犬猫病院で点滴をしているはずです。震災から1年9ケ月の長旅は、老犬にとっても過酷だったでしょうか。

 教会員も、体調を崩す方が出てきています。ある方は「互いに長生きしましょう」を合言葉に、励まし合っています。目の前に、震災2年目の厳しい冬が待っています。

 外は、相変わらず雪。

果たして各地に散っている教会員は、大丈夫でしょうか。

                          (12月8日の特急「あずさ」で甲府から塩尻へ) 

 パピが死んだ。

  「来年、また一緒に住もう」って言ってたのに。

「ごめんね、パピ」。

 
 震災後、激動続きだった。もしかしたらパピ、「ぼくは見捨てられた」って、思ってた?

そんなことないよ。

 ごめんね、パピ。

 震災当日、千葉の娘のアパートで一緒に被災したパピ。

パピもよほど怖かったと思う。だけど、あそこには赤ちゃんもいたし、パピはもう大人だったから「我慢しなさい」って言われて、ほんとうはパピも震えてた?どんなにか、抱いてほしかった?

 ごめんね、パピ。

 迫り来る老いも感じ、たまらなく不安な日々もあった?そういえば、訳もなく時々震えてたっけ。お父さんお母さんはいつも余裕がなくて、何が起きているかのかパピにはわからなかったと思うけど、パピなりに一生懸命事態を把握しようとしてたんだね。そして、どうしたらいいのかを考えて。震えが止まらない自分を、ぎりぎりの我慢で抑えてた?

 パピも、よく頑張った。さすが東北にもらわれてきた犬だ。パピは、お父さんの自慢の犬だったよ。もしもあれが、パピとの最後の別れの時になるとわかっていたなら、ずっとパピに寄り添って、話しかけ、パピだけを見つめていたかった、なんて、今頃言っても遅いよね。

 だけどまさか、パピのいない世界が来るなんて、考えてもいなかった。

 パピ、お父さんはパピに冷たかった?震災後、特に?心の中で、いつもごめんって、言ってたんだ。

 月曜日、出張の帰り道、パピの容体が急変したって病院から電話があって、すぐに飛んで帰りたかった。あんなに電車が遅く、時間が長く感じられたことはなかった。時計ばかり、見つめてた。「何とか間にあいますように」って、必死に祈ってた。必ず間にあって、抱きしめたかった。

 ひとりで病院におかれ、どんなに寂しかった?苦しかった?パピは、人一倍寂しがりやだし、甘えん坊だから、そして怖がりだったし、ほんとうはずっと隣にいて欲しかった?

 病院に着いてみると、治療台の上のパピは変わり果て、ピクリとも動かずに横たわっていた。でも、お父さんとお母さんが迎えに来たのがわかったの?「クン」て鳴いたね。忘れないよ。あれが、最期の一鳴きだった。

 目もうつろで、ぐったりしたままだったけど、「あっ、パピがないた」って、驚いたんだ。あれは、「お父さん、お母さん!」だった?

 ねえパピ、お父さんとお母さんは必ず迎えに来るって、信じてたの?それを待って、必死に命をつないでた?あの振り絞るような最後のあいさつ、ちゃんと受け取ったから。

 だけどもしかして、あれは「さよなら」だった?

 それとも、「お父さんお母さん、遅いよ」って怒ってたの?

あるいは「苦しいよ」って?

 なんでもいい、もう一回鳴いて。

 いとしい、パピ。

 だけどもしも、「お父さんお母さんに、最期に会えてうれしい。僕は、佐藤家にもらわれてしあわせだった」だったとしたらうれしいな。震災後の旅路と、パピの最期を振り返ったら、そんなことあるはずないか……

 ごめんね、パピ。

 病院に迎えに行くと、お医者さんが教えてくれた。パピは何回も痙攣に見舞われたけど、よく耐えたって。心臓マッサージと、呼吸器の装着と、点滴で、じっと耐えて命をつないだって。よく頑張ったね、パピ。お父さんとお母さんが来るのを、そこまでして待っててくれて、ありがとう。

 パピが逝ってしまった後、そんなけなげなパピの姿を思って、また泣いたよ。

 それにしても、病院から両手両足をたたんだままの痛々しいパピを、まるで割れ物でも持ち運ぶかのように、そっと我が家に抱き寄せ連れ帰った10分後に、瞬く間に息を引き取ってしまうなんて、思ってもいなかった。余りに早すぎた。

 だから、あの一声はやっぱり「お父さんお母さん、ありがとう。佐藤家のみんなや最後にお世話になった中村さんによろしく。さようなら」だったんだって、悟ったよ。

 パピは、律儀過ぎる。

 もっと甘えてよかったのに。我がままでもよかったのに。時に周りの空気も読まないで、自分を主張てもよかったのになんて、今まで「震災なんだから、みんな大変なんだからパピも、我慢しなさい」の一点張りだったくせに、ずるいよね。

  今にも消えてしまいそうな命を、必死につないで待っていてくれたパピは、忠犬だ。

 だけど、パピ。

病院に着いて、お医者さんから「病院で看取ることもできますが」って言われた時に、当たり前だけど一も二もなく、お父さんが「連れて帰ります」って言ったの聞いてた?あの時、「家に帰れる」って、喜んだ?だってパピは、佐藤家の4番目の子どもだから。絶対すぐに連れて帰るって、最初から決めてたんだ。

 ほんとうはその夜、お父さんとお母さんは寝ずの看病をするはずだった。弱り切ったパピへのせめてもの罪滅ぼしに、渾身の看護をするって、決めてたのに。

 これまで、散々あちらこちらにパピを預け廻し、その分と一生分を、お詫びさせて欲しかった。いくらでも、抱いてあげるって、一晩中、語りかけるって、決めてたのに。もうパピのそばを絶対離れない、どこにも行かないからって。パピを見つめ、パピだけを最優先するって、約束するからって。 

 それがまさかの、帰宅して看護の準備を始めた10分後に、瞬く間にお父さんの手の中で、まるで久しぶりの我が家に帰って安心したかのように、息を引き取ってしまうなんて。

 お父さんたちが鈍感だった。大切なパピをどうしてもっと、繊細に扱わなかったのか。15年前、「大事にしてね」って静岡の飼い主さんに言われて、あずかってきたはずなのに。これでは飼い主失格だ。

 弱り切ったパピの体を抱き、病院を出、「さあ、パピ、一緒に家に帰ろう」って言った時、お父さん心の中で泣いてたよ。

パピも泣いてた?

 お父さんやお母さんと一緒に、家に帰れるから?

 ねえパピ、お願いだから一晩だけ、パピの看護をさせて。

 パピは、佐藤家にたくさんのしあわせを運んできてくれた。一生分の「ありがとう」も、まだ言ってない。

 パピは賢こい犬で、なかなかの美男子だった。犬の間では、随分もてたね。スマートで、毛並みもいいし、少し繊細だったけど、人間ならきっと人格者だ。人の気持ちもよく察して、どこか人間のようにも感じてた。ただ、人の心を時々読み過ぎたんじゃない?もう少し、KYでもよかったかも。

 小さい頃は、子どもたちが喧嘩をし始めたと誤解して、急いで肩たたきをする二人の間に割って入り「喧嘩は止めて」とばかりに、真顔で吠えたね。ほんとうはあれを見るのが面白くて、みんなでけんかを始めたふりをして、実は笑ってたんだ。ごめん。でも、微笑ましかったよ。パピは、ほんとうに争いが嫌いな、平和主義者だった。佐藤家の平和の番人、いや番犬だったよ。長い間のお勤め、ご苦労さま。

 そんなパピだったから、大切にしてきたあの我が家を震災で失い、思い出がいっぱい詰まった故郷を追われて、二度と見慣れた風景を見ることができなかったことは、どんなにか辛かったかと思う。何の準備もなく、突然の旅に出ることになったことも、パピにとっては、耐え難いことだったと思う。

 ここまでが、パピの限界だった?よく頑張ったね。

 それから、いつもお父さんとお母さんが悲しそうな顔をしているのを見るのも、辛かった?それとも、旅の途中で飼い主と引き離されてあちらこちらにあずけられる方が?訳がわからなくて、もしかして捨てられたんだろうかって思うと、たまらなく悲しかった?震災で寿命を削ったの?

 「被災した犬のストレスは、そうでない犬の10倍ある」って聞いたよ。脱毛になる犬もいるって。ちょっとの音や振動にも敏感になるって。だから、パピはパピなりに、精いっぱい頑張ったんだて、知ってるよ。

 ところでパピ、14年と7カ月前、御殿場から東北の地にもらわれてきた子犬だった頃を覚えてる?仔犬のパピはかわいかった。あの日パピは、佐藤家の4番目の子どもになったんだ。姓ももらって、正式に「佐藤パピ」になったんだ。お父さんは時々「飼い主に似ている」なんて言われて、結構喜んでたっけ。犬の飼い方の本も、たくさん買ったし。「犬と似ているって言われて喜ぶなんておかしい」って家族に言われたけど、構わない。お父さんは、ほんとうに嬉しかったんだ。だってパピは、もらってみたらチャンピオン犬の子どもだったし、我が家の誰よりも血筋はいいし、何しろ気品が漂っていて、面白くて愛くるしいし。

 なんてまた、かつての親ばか犬バカがよみがえってきた。

  それなのに時は流れ、佐藤家に新たなスターの孫たちが誕生すると、昔のパピ歓迎ぶりは影を潜め、写真に撮られる機会もめっきり減って、時々「危ないから、そこどいて」なんて言われたりもして、部屋の片隅に追いやられる時もあったっけ。あの頃、しみじみ人生の黄昏を噛みしめてた?

  今回、獣医さんからは、寿命ですよって言われたけど、お父さんとお母さんは今も呆然自失状態で、改めて小さいパピの存在が、いかに大きかったかを思い知らされている。

 思い返すとここ数年はパピは耳も遠くなり、視力も落ちてきてた。顔の毛の色はみるみる白くなって、あれ白髪だったんだ。ひたひたと迫り来る老いの恐怖を、ひとり抱いて噛みしめてた?孤独も?

 そんなことも、思いやってあげられなくて、ごめん。

パピのこと、どれほども理解していなかった。

 そういえば、この間会った時、いつになくお父さんに体をすり寄せてきて、顔をそっとお父さんの手の上にのせたっけ。「あれ?」と思ったけど、あれは迫り来る老いの恐怖を感じての、遠慮気味の甘えだった?

 だけどパピには、感謝してる。佐藤家の3人の子どもたちの成長を、しっかりと見守ってくれた。子どもたちが家を出、お父さんとお母さんが二人きりの寂しい生活に入った後も、ずっと寄り添ってくれてありがとう。パピはお父さんお母さんに、何の迷惑もかけてないからね。

 ただ少し、良い子過ぎたかも。最後は、遂に介護もさせてくれなかったし。もしかすると、三日間の入院に止めて逝ってしまったのも、なるべく入院費を少なくして、迷惑をかけまいとした?

 だったら、けなげ過ぎるぞ。

 そういえば、最後に面倒を見てくれた中村さんが、言ってた。パピは、宣教師だったって。パピと一緒の散歩道がきっかけで、ご近所のいろんな方と知り合いになって、そこから随分の人が教会コンサートに来てくれたって。よかったね。パピは、なるほど牧師の子だ。

 そういえば、いつもお父さんがお祈りする度に、家で「アーメン」に合わせ「ワン」て鳴いてたっけ。あれはてっきり今まで、食事が始まる際の合図の、犬の条件反射だなんて勘違いして説明していたけど、パピ語での、れっきとした「アーメン」だったんだね。犬語が、わからなくて、ごめん。失礼しました。

 だけど確かに、食事のあるなしと関係なく、どの場面でもお祈りが始まると決まってすぐ加わって、最後の「アーメン」に合わせて「ワン」って吠えてた。

 パピも、クリスチャンだった?

 ペット火葬場に初めて入り、骨になったパピと対面して、改めて「こんなに小さい犬だったんだ」って、驚いたよ。あんなに小さな頭で一生懸命考え、割り箸のように細い足で飛び跳ねてたんだ。

 パピは、小さないのちを精いっぱい、生きたね。

 お父さんもお母さんも佐藤家の子どもたちも、大げさに言えばパピに出会った人みんな、パピからたくさんの笑いやしあわせをもらったよ。散歩に行けは、多くの人が「かわいい」って、ほほ笑んでくれたし。

 パピ、佐藤家の一員となってくれて、たくさんの温もりを運んできてくれて、ありがとう。

 パピが逝ってしまった直後、お父さんとお母さんは話をしたんだ。もしもこれが最後だとしても、「お父さんは、お母さんと結婚して幸せだったって思っているよ」って。お母さんは最初、急にお父さんが妙なこと言いだすから気味悪がっていたけれど、お母さんの方からも、お父さんに同じこと言ってくれた。だって別れは、いつ突然やって来るかわからないって、パピの死が教えてくれたから。パピの死を、無駄にはしないよ。パピは、ほんとうに小さい犬だったけど、どんなに小さい命でも、その存在は限りなく大きいんだって、何にも代え難くてスペアーはないんだって、心が痛いほど教えてくれたから。

 そしてこうしてお父さんたちは、未だにお通夜みたいな生活を引きずってる。そんなに簡単に、パピの存在を振り切ることはできそうにない。

   そんなこと、昨年の震災の時、十分に学んだと思っていたのに、どれ程のことも勉強していなかった。「お父さんお母さん、くれぐれも命を大切にしてね」って、パピの死が教えてくれた。

  パピの遺体を横に、あの晩、14年前のビデオを探し出して、観返したんだ。そこには両手に収まるくらいの仔犬だったパピが、我が家にもらわれてきて、まるでウサギのように我が家の中を飛び跳ね、ネズミのように公園内を走り回る姿が映っていた。まぶしかった。みずみずしくて、いのちが躍動してた。

  ほんとうのことを言うと、仮にパピが死んでしまうようなことがあっても、ペットロスにならないようにしようって、お母さんと予防線を張って打ち合わせしてたんだ。だけど、駄目だった。所詮犬だからとどんなに言い聞かせても、パピはお父さんとお母さんの中で、それ以上の存在だった。

 ただでさえ震災で多くのものをロスしているのに、この上パピまで失うことになったら耐えられないって思ってた。だからパピ、もう一度戻って来て。ボクほんとうは生きてるよって、どこかからでもいいから、ひょっこり顔を出して。そしたら、いっぱい撫でてあげる。ワンワン吠えながら、かつてのあの日のように、踊るように思いっきり飛び跳ねてきて。

 ボクのこと、こんどこそ大事にしてね、って甘えてすり寄ってきていいよ。一緒に、大好きな散歩に行こう。それとも、ドライブがいい?車の窓から顔を出して、いつものようにきょろきょろと全世界を見回すんだ。お父さんは、ハンドルを握って、サイドミラーをちらちら眺めながら、パピヨン犬自慢の大耳のロングヘアーがしっかりと風にたなびいていることを確認して、さも誇らしげに車を走らせる。「絵になるな」って、ひとりでまた悦に入って。

  パピ、「しあわせな日々をたくさん、ありがとう」

パピは、ほんとうにいい犬だった。

 さようなら、パピ。

 ぽっかりと空いた心の穴を、果たして時の流れが埋めてくれるだろうか。パピを失った、色の消えたような世界に、再び色はつくだろうか。              
          (1213日、パピが死んだ三日後に、徳島市民クリスマスに向かう道々)




その60

人生の旅路を3倍楽しめるか

 

 中国の革命家孫文のマレーシアでの生活を描いた映画「100年先を見た男」を、観ました。先日、台湾を訪れたことがきっかけです。

 孫文は清王朝を倒し、抑圧や貧困からの民衆に開放を願ったクリスチャンの医師でした。妻の慶齢(けいれい)は、中国の名士チャーリー宋家美女三姉妹の次女で、姉は大財閥の当主孔祥照の妻です。妹の美麗は、台湾の初代総統蒋介石夫人です。そしてこの姉妹たちの父チャーリー宋は、アメリカ留学がきっかけで牧師となり、後に事業家となりました。

 ほとんど小説を地で行ったような、この歴史の表舞台に躍り出ることになった三姉妹の人生に、私が思いを馳せるようになったきっかけは、前回台湾を訪問した際に、蒋介石総督官邸に足を伸ばしたことでした。中国大陸で毛沢東との戦いに敗れ、台湾に移り中華民国を建国した彼は、牧師の娘であった妻美麗の祈りと、彼女の母親と結婚時に交わした約束に応える形で信仰を表明し、洗礼を受けます。蒋介石44才の時でした。それから彼の生活は一変し、朝ごとに妻と共に祈りをささげ聖書を読む生活に入ります。

 けれどもまさかその入信とその後の有様が、あそこまで仔細に総督官邸で紹介されていようとは、思ってもいませんでした。近くには、蒋介石がかつて礼拝をささげたチャペルが建っていました。激動の歴史道を走り、牧師の娘と結婚したことから始まってキリスト信仰に至り、中華民国建国後は総統官邸で、穏やかに過ごすしたようになった日々が目に浮かぶようでした。

 

 激動の震災から1年8カ月の時が過ぎ私たちにも、そんな明日が待っているでしょうか。

 

 今なお世界中から多くの人が訪れる官邸で、蒋介石の人生のターニングポイントが繰り返し紹介されていることに、不思議も覚えました。中国大陸で牧師の家庭に生を得、やがて歴史の表舞台に引き出され、きっとかなりの迫力をもって神の御手を体験したと思われる宋家三姉妹の足跡をたどっても。

 そして、歴史をつかさどる同じ神のまなざしが、巨大震災の中、翻弄されながらも何とかここまで旅を続けた私たちにも、注がれているでしょうか。

 

 

 話は飛びますが、旅行を3倍楽しむ人は、旅の前の準備段階を味わい、旅先で満喫し、帰っても写真の整理等で、3度噛みしめるのだそうです。そそくさと食事を済ませる私と、一品づつ料理と雰囲気までを味わう人との違いに似てるでしょうか。私の場合、旅行に出る直前まで何の準備もせず、間際になっていつもばたばたと準備を始め、帰って後何の整理もしないまま終わってしまう、ほとんど線香花火状態のような、実にもったいない旅行の仕方を繰り返しています。

 それにしては今回の旅行、帰国後映画にまで手を出したりして、旅行後を普通でなく、味わっているでしょうか。

 人生の旅路も、道々楽しみ、振り返ってほほ笑み、未来をとり込んでわくわくもできたらどんなにかいいでしょう。せっかく生かされ、今日を生きているのですから、人生の旅も何とか3倍楽しめないものでしょうか。

                                 (11月1日)

 

 

 先週、歌手のアルフィー・サイラスさんという黒人ゴスペル歌手をお招きして、震災支援ゴスペルコンサートを開きました。今は教会堂がないので、結婚式場をお借りしてのコンサートです。地方新聞で取りあげていただいたこともあって、結構の方が来場されました。現在建設中の教会堂にも、やがてたくさんの方が来てくださることを夢見ています。

 建設は、当初の予定よりはるかに遅れているものの、家を失った多くの方々の新たな住まいつくりとそれに伴う被災地の人手不足等を考えると、まだいい方かもしれないと言い聞かせています。家の建築を依頼してから着工まで1年も2年待たなければいけない現状がここ被災地にはあります。

 そんな中、先週は鉄骨が建ち、何だか本当に鳥が翼を広げているように見えました。そう願い建築したはずなのに、自分で驚いているのはどうしたことでしょう。立地ロケーションがいいせいもあって、目の前の幹線道路を緩やかにカーブを切りながら車を走らせると、チャペルに向かって自動車が近付いているはずなのに、逆に教会が翼を広げて近づいてくるようにも見えて、これはいよいよ入れない故郷に向かって飛び立とうとするつばさの教会だと、新鮮に感動したりもしています。

 私たちには、未来に向かってはばたく翼の希望が必要です。

 教会堂から放たれる、力というものがあるかもしれません。数知れない方々から届いたエールに包まれる形で建つつばさの教会。夕暮れ時には、ちょうど故郷の方角に向かって立つ十字架の向こうに、二重に虹がかかっていました。まるで、天から降りた虹の垂れ幕のように見えました。

 平和を奏でる、復興のシンボルとなればいいのに。

 

 

 

 ところで私も今は、広島に向かう飛行機の翼に乗っています。かつて、原子爆弾投下後は、「70年は草木が生えない」と言われた広島だと聞きました。しかし、原爆投下からみるみるうちに広島は復活し、それは私たち福島の希望でもあります。かつて遠くに見ていた広島が、今は身近に感じられます。

 昨日は、家内と座・高円寺で上演された「石棺」という舞台劇を見てきました。当時、25万人もの人がチェルノブイリ原発の爆発によって家を追われ、原発から30キロ圏内の村人たちが移住を余儀なくされました。

 今は、空き家となったかつての避難区域には、チェチェン共和国やボスニアなどから、内戦の戦火をくぐってきた人たちが住みつくようになっているということでした。何と、目に見える砲弾の脅威にさらされてきた人々の目からみると、見えない放射能は恐るに足らないと映るとか。確かに、より厳しい戦火の中ををかいくぐって生き延びてきた人たちに言わせると、放射能はまだいいのでしょうか。

 

 時を同じくし上野で、第二次大戦時、アメリカ在住の日系人たちが突如財産を没収され収容所に送られて、2年から3年の間各地の苦しい収容所生活で作った彫刻や刺繍や家具などの、作品展が開かれていました。かつて日本人がアメリカに移民し、血のにじむような苦労を重ねやっと築きあげた財産が、太平洋戦争勃発により没収され、収容所に送られ、果てはすべてを失ったところからの人生再出発を余儀なくされた、苦渋の歴史です。歴史の渦の中に巻き込まれたとは言え、余りに残酷です。

 ところが、そんな中から生みだされてきた作品は、苦しみにじっと耐えながらも不屈の精神をたたえ気高く、物静かで威厳があり、悔しさや切なさをたたえつつも一様に前向きで、絶対に諦めない強固な意志を、時代を超えて目の前に立つ者に感じさせます。戦後、収容所から出てきた彼らは多くを語らず、我が家を失っても恨みごとを口にせず、それより子どもたちに向かって、アメリカを決して憎むことなく、あくまで未来に向かって前向きに歩んで行くようにと、促しました。

 多くの出来事を呑み込み、人間としての気高さや誇りを忘れることなく、どんな状態に陥っても前に向かって進むようにと、それらの作品は時代を超えて、震災後を生きる私たちに向かってもささやきかけているようです。

 

                       (11月10日土曜、羽田〜広島便)

 

 

 私は今、宮崎に向かっています。今日から、10日間の予定で、宮崎〜静岡〜神奈川〜福岡と巡ります。長い旅です。昨日は、92才になられるご婦人とお別れをしてきました。避難生活の疲れもあったでしょうか。その方は、いわき市に来られて後体調を崩し、入院をされました。そして退院後、親戚が待つ東京の老人ホームに旅立たれました。

 私たち夫婦が、ちょうど出かけている間の引っ越しとなるため、昨日ひと足早いお別れの挨拶をしてきました。涙ぐんでおられました。私がその場で詩篇23篇と121篇を朗読すると、彼女はその両篇をどうやら暗記しておられ、聖書も見ずに私と一緒に口ずさまれました。そのご婦人はまことに、その場面が象徴するような方でした。

 私たち夫婦は、そのご婦人にこれまでどれほど支えられてきたでしょう。嬉しいときも、辛いときも、どんな時も淡々と天を仰いで祈りをささげ、ぶれることなく教会と私たち夫婦をも支えてくださいました。

 震災時は、故郷から会津までの逃避行を余儀なくされ、その後は私たちと一緒に米沢に向かって吹雪の峠越えをし、その後東京への集団疎開、そして福島県へのユーターンと、まるで劇画のような激動の旅をしてこられました。90歳を超えた彼女にとっては、どんなにか過酷な旅だったでしょう。私がそのご婦人を指し、「教会の宝です」と表現してきたのはほんとうです。

 このようにして震災後、大切な方々とお別れをしなければならないことは、無念です。けれどもその姉妹が、これまでの人生の道のりで一貫して他人の悪口を言わず、噂話に加わることなく、天を仰いで神に信頼し続けてこられた後ろ姿を思い、私たちも、たとえ家を追われ、故郷を離れ、明日が見えない日があったとしても、前に向かって進みたいと思います。

 別れは何度繰り返しても悲しいけれど、気を取り直し、神の「宝の民」の前途を祝福します。だって聖書がそんな彼らを、その様に呼んでいるのですから。

 

あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。

                                               (申命記7章6節)

 

                                     (11月21日、羽田〜宮崎便)

 

 

 

 特急「きりしま」に乗って、雨の中の宮崎県を移動しています。聞くところによると、ここにも、福島県から多くの避難者が移り住んでいるとのこと。「こんなに遠くにまで」と、驚いきました。放射能汚染を逃れ、東京では安心できず、ここまで来て子育てや第二の人生を送っているのでしょうか。

 ところで歴史をさかのぼれば、ここも西南の役の舞台となり、薩摩と官軍が入り乱れ、遠くから集められた兵士たちの中で、後にこの地に住みつく人々の結構いたとか。時代に翻弄され戦に巻き込まれ、故郷を離れて、思わぬ地に住みつくようになった人の世の営みは、時に戦争が原因したり、或いは事故や天災がきっかけだったりと、繰り返されることを思いながら、今、霧島のそば近くの景色に目をやっています。

 

                     (11月22日、特急きりしまの車窓から)

 

 

 掛川から博多に向かい、新幹線に乗っています。一昨日、96歳の教会員が栃木の病院から天に召されました。その朝はお元気だったのに、容体が急変したようです。無理もない気がします。その方は、昨年3月の大震災に次ぐ原発事故直後、故郷を追われ、そのまま避難先から県外の老人ホームに入られ、徐々に弱られたように見えました。「お元気であったのに」と、正直悔しさも込み上げてきます。老人ホームでは外出がままならず、遂に一度も福島の自宅に戻ることなく、そこから天に召されれました。

 天が最期のふるさととは言うものの、何とも言えない無念を感じます。

 先に触れた、92歳のご婦人も、いよいよ昨日関東の老人ホームに旅立れました。福島に戻った後体調を崩し、一時歩行困難となり、回復はしたものの体力の限界を感じての決断でした。私は静岡にいて立ち合えませんでしたが、福島では涙のお別れ会となったようです。関西や九州にいると、何だか震災が遠い昔の様に、錯覚しそうです。

 震災後1年8か月を経、何も変わってないどころか、震災時の傷がボディーブローのように効き始めています。

 そんな中被災地に建つつばさの教会の十字架は、闇を照らす光となるでしょうか。傷をいやす希望のシンボルとなるでしょうか。

 

                      (11月28日、博多行き新幹線にて)

 

 特急「かいじ」で、新宿から甲府に向かっています。今晩は、山梨県民クリスマスでお話をします。テーマは「震災の中のクリスマス」です。震災後、2年目のクリスマスです。時が経つのは早く、震災後の道のりははるか遠くにまで続いています。今年は教会員の二人が各地から天に召され、多くの福島県人も、故郷を離れてじっと息を潜め仮の宿生活に耐えています。明らかに普通の光景でありません。異様な風景は続いています。

 

                    (12月7日、甲府行き特急「かいじ」にて)

 

 

 旅の途中で、先日亡くなられた、96歳の男性の顔写真が送られてきました。避難先の老人ホームから体調を崩し、病院に運ばれた兄弟は突然天に旅立たれましたが、何と地上に残されたそのご遺体の表情は笑っておられたようだったと言うのです。私も牧師なので、多くの葬式を執り行ってきました。中には、ほほ笑んでおられるように見える、安らかなお顔もありました。けれども、笑っているように見える表情だったとは。

 そういえば、震災後何度か入居された老人ホームをお尋ねするたびに、私の手を握り離そうとせず、「先生、きっと今日が最後だ」と目に涙を浮かべておられました。そして、ほんとうにそこから天に旅立っていかれました。きっと、天でクリスマスにこの世界に来られたイエス様か、懐かしい奥さんと会って笑ったのにちがいないとひらめきました。

 かつて、海軍の将校だった彼は第二次世界大戦に敗れ、アル中のようになり、奥さんは半端でない苦労をしてきました。ある日貧乏の中、シャツを買ってご主人に差し出すと「こんな金があるなら、酒を買ってこい」と投げつけられたこともあったそうです。けれどもその時、奥さんは何とも無体なご主人の前にひざまずき、土下座をして謝ったとのこと。何で奥さんが謝る必要があるかと思いましたが、その時ご主人の心の中に何かが響き、後に奥さんと一緒に教会の門をたたき、洗礼を受けるようになります。

 その後奥さんは亡くなりますが、彼は酒を止め、ヘビースモーカーにも終止符を打って96歳まで長生きし、震災の中生涯を閉じました。朝毎に、奥さんの写真に向かって「おはよう」と挨拶をし、散歩に出かけ讃美歌を口ずさみ、祈りをささげ、農業に精を出しながらの地上の生活でした。きっとあの瞬間、天に引き上げられて、いとしの奥さんと再会し、或いはイエス様や娘さんとお会いして、ほほ笑んだのでなく、間違いなく笑ったのだと、確信しました。

 その時果たして兄弟は、奥さんに向かって「遅くなったけれど、今来たよ」と言って、笑ったのでしょうか……

       

                (12月9日、東海道新幹線にて、岐阜からの帰り道)



その59

巣作り

 四組の家族が、建築中の教会の近くに、中古住宅を購入し、居を構えました。今週は

五組目の家族が、中古物件を購入する予定です。来年に向け新築を考えておられる方もあり、教会の再建に向け、心強く思います。

 私は今、巣作りの最中でしょうか。突然の嵐で、一瞬で吹き飛んでしまった教会やそれぞれの住まい作りを、木の葉や枝などをかき集めるようにして、試みているのでしょうか。教会の方が再び住まいを確保し、閉鎖中の教会堂が新たな形で再建されるのなら、労苦はいといません。

 それにしても、もう悲しみは十分味わったと思っていたのに、悲しいことはいつまで経っても悲しく感じられるものです。避難生活が長引いているせいか、年齢のせいなのか、ここにきて体調を崩される方も多く、その都度胸は痛みます。人生に卒業式が無いならば、悲しみにも卒業はないようです。

 

 旧約聖書のヨブ記には、財産、家族、それに健康までをも失なったヨブが、言語に絶する苦しみの中で、信仰も友人関係も崩壊していくように見える中で、苦しい時期を経て、その後新しい世界に引き出されていく様子が記されています。

 失った財産はすべて二倍となり、子どもたちも息子七人、娘三人に恵まれて、しかも息子の数は、聖書の世界の完全数で、娘たちについては「ヨブの娘たちほど美しい女はこの国のどこにもいなかった。」(ヨブ記4215節)と記されています。彼の後半生は、一瞬にしてそれまで築き上げたすべてのものを失なった後、そのすべてを倍加の祝福をもって回復し、新たなスタートを切るという、劇的なものでした。

 私たちは今回、思いもかけない震災に遭いましたが、被災して1年半が過ぎ、あの苦しみの道を通ったすべての方が、ヨブが味わったのと同じ祝福に与るといいと心から願っています。ひとり一人から「私は半端でない苦しみに与かったけれど、今は失ったものを、二倍の祝福をもって回復しました」と、笑顔がこぼれるのを見てみたいのです。

 

 もちろんかつて経験した悲しみが消えるわけではありません。ヨブも、再び子どもに恵まれたからといって、かつて失った子どもたちが返ってきたわけではなく、悲しみはいつまでも心に刻まれていたはずです。

 にもかかわらず神は、彼の痛みを覆い、大きな祝福をもって彼を包まれました。

 全国に散らされた人たちも、これからもっと恵まれて、いつの日か、涙を完璧に上塗りするほどの、こぼれる笑顔をもって再会したいのです。

 

 何をもって幸せと感じるのかは、それぞれが心の中で決めます。十分恵まれているにもかかわらず、自分は不幸だと感じる人もいれば、何も無くても、自分は幸せだと告白する人もいます。

 先日、教会員同志で恵みの分かち合いをしました。ある方が「実は故郷の自宅が、重荷となっていました。家が古くなるにつれ、修理が増え、維持管理に頭を悩ませていたところ、思わぬ震災に遭いました。やがてはこの家を手放して、町営住宅にでも入ろうかなどと思い巡らしていた矢先だったので、かえってこの震災を通しその重荷から解放され、これも恵みだったと思っています」と話されました。

 別の方は、「今にして思うと、私はかつて仕事中毒のような生活をしていました。けれども今は、そんな生活の場から否応なしに引き離されて、人生を楽しみながら、程良く仕事をするように変えられました。これはこれで、よかったと思います」と。

 他にも、「以前どうしてもできなかった断捨離が、できるようになりました」とか。

 もちろん、自宅を追われ、故郷を失くして、悲しくないはずはありません。けれども、それ結果見いだした世界もあったのです。私たちは、失ったものも大きかったものの、結果得たものも、小さくはなかったように思います。

 かつてのヨブのように、神は半端ではない祝福をもって、これからの私たちをも養い続けてくださると信じます。私の方でも、不動産巡りもし、アパート探しもすることにしましょう。しばらくは、新たな巣作りに精をだします。それぞれの口から、「主は私を打たれましたが、今はこんなにも良くしていただいています」との告白を聞くまでは。

 

 「 ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。」(歴代誌第一4章10節)、と祈り求めたヤベツの様に。

 

あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。

『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。

主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。

主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』

(民数記6章24〜26節)

とモーセに命じられた、大祭司アロンの様に。

 

 私たちは、自分の力によらず、恵みを恵みとして受け取る訓練中でしょうか。

 以前、東京のキャンプ場にいた時、宣教師の先生がこんな話をしてくださいました。「ただで受けるのは、よほど苦しいでしょう。宣教師生活の第一歩も、各教会をまわり支援をお願いするところから始まるのです。自分の力で生きるのではなく、与えられたものを感謝して受け取り、生活することを学ぶところから」。

 私たちも今、そんな生活の勉強中でしょうか。震災で一度はゼロベースになり、神と人々から多くのいつくしみを受け、ただ恵みによって、ここまでたどり着きました。これは、神の国の営みの方程式の、勉強中だったのでしょうか。

 もとより、罪のゆるしも救いの世界も、天の御国に至る道も、一切は神の恵みでしたから。

       

                     (10月5日、あずさ17号にて)

 私は今、長野県飯田線を、飯田市での集会を終えて伊那に向かって走っています。飯田市は、昨年3月の震災直後に福島県相馬の人達を、たくさん受け入れてくださったとお聞きました。有難いと同時に、あの東北の太平洋岸から、こんなに内陸にまで当時避難して来たのかと思うと、あの震災がただの震災ではなかったことを、思いました。まるで、戦争にでも出遭ったかのように、空から爆弾でも降ってきて、一瞬にして四方八方に、故郷のはるか遠くにまで散らされたのだ、と。

  

 震災の爪跡は、想像を超えて広く、傷口は予想異常に深く見えます。

 

 私ごとですが、このように各地をまわる旅烏のような生活も、震災後1年半を迎えそろそろ終期かと考えています。年末のチャペルの完成を機に、一つの教会の牧師として本来の生活に戻る時期か、と。もちろんまだ、すべては異常です。非日常は果てしなく続き、先は見えません。けれども、このような生活をいつまでも続けるわけには行かず、どこかでギヤーチェンジが必要と考えてきました。

 

 震災と一蓮托生(仏教用語ですが)のような旅の生活も、それはそれとして懐かしく、震災がもたらした恵みの一つとして、受け止めています。

    (10月6日、長野県飯田線にて)

 

 昨日、1年半ぶりに長野県に避難している教会員と再会しました。礼拝をともにささげた後、積もる話をするうちに、その方は長引く避難生活の中で、鬱状態に陥った話しをしてくださいました。無理もないと思います。誰であれ、突然我が家を追われ、故郷を失い、訳のわからない中、否応なしに旅から旅生活が強いられたら。

 

 うかつだったのは別れ際、私の意志と関係なく、一瞬涙で顔が曇りかけたことです。慌ててとり繕ったものの、一体いつまでこんな風に自分の顔がコントロール不能な状態は続くのかと、嫌になってしまいました。

 ところでその教会員、震災後は新潟県小地谷市に避難されたとのことです。着いてみると、新品のパジャマから下着までが避難所にずらっと並べられており、出迎えた市長が「どうぞ、好きなだけ持って行ってください。私たちもかつて被災し、その時多くの方々に助けられました。やっと、恩返しをする機会がきました」と話されたというのです。またしても、私の目がしらは勝手に熱くなり、危うくコントロール不能状態に陥りかけました。

 その教会員は、震災後7日間着替えが無かったそうですから、どれ程有難く、身にしみたことでしょう。

 その後、市内の各家庭にホームステイとなり、その方は一週間お寺のお坊さんの所でお世話になったそうです。旅立つ際には、お見舞いまでいただいたそうで、三度私の目がしらは危うくなりました。ほんとうに一体いつまで、悲しくては泣き、嬉しくては泣く異様な状態は続くのでしょう。

                        (10月8日、伊那市にて)

 

 私は今、成田から台北に向かっています。台湾は今年2回目ですが、今回は台北から高雄に南下して、保守バプテストの60周年記念大会で震災話をします。今回は、どんな旅となるのでしょう。

 

 ところで一昨日、姪の結婚式のため、岩手県にあるキャンプ場に向かいました。まず年老いた両親を迎えに行き、直前までどしゃ降りの雨が止んだことにほっと胸をなでおろしたものの、山間にあるそのキャンプ場は思いのほか寒くて、野外で行われた結婚式の間中、直前に体調を崩して参加した両親の健康が心配でした。すると、どうでしょう。子や孫たちが向かい風の前に立つようにして、椅子に座った両親の前後左右を取り囲み、これはまるで南極の皇帝ペンギンのようだと、奇妙な光景を、ひとり思い浮かべたのでした。

 厳冬下の南極で、大事な卵を足の上に乗せて自らの毛でおおい、孵化のその日まで根気強く立ったままに状態で、極寒の間中過ごす皇帝ペンギンたち。皆が少しずつ立ち位置を変えながら、風当たりをも分かち合う、あの光景と重ね合わせたのです。

 もしかすると神も、私たちの旅路の間中ずっと私たちとご一緒くださり、昼は雲の柱、夜は火の柱となって、まるで盾のように私たちを取り囲んでくださっていたのかと、聖書のことばを思い浮かべました。

主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。

ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。

                                         (詩篇18篇2〜3節)

 ( 10月15日、成田〜台北便)

 

 台北で宣教師墓地を訪れ、かつて台湾に宣教に来られた宣教師たちの話を聞きました。ある方は、大学教授になれた道を歩めたはずなのに、宣教師の道を選び台湾に渡り、最期は栄養失調が原因で亡くなられたとのこと。またある日本人宣教師は、少数部族の首狩り族に伝道して、殺害され、復讐を誓ったその息子もまた、最期は台湾への宣教師となられたということでした。

 中でも、とりわけ台湾宣教の歴史に刻まれたカナダ人の馬偕(マカイ)宣教師の話は、心に残りました。彼は生涯をかけて、台湾の山々海辺を巡り、川を渡ってくまなく宣教し、神学校をつくり弟子を育て、その足跡は今では幼稚園から大学まで続くミッションスクールとなり、或いは大きな馬偕総合病院となって受け継がれていると。そういえば、街にマカイ宣教師の銅像や、「馬階ストリート」と銘打った通りまでありました。

 ひとりの人が神に召され、その道は親や姉の死に目にも会えない厳しいものであっても、その残すものがいかに大きいかを思い知らされました。

 

 私たちの故郷も、かつてアメリカ人宣教師が来日しました。田舎伝道を試みて来日したその奥様は、日本の土となられました。そして産声を上げた教会が、今に続く私たちの教会です。

 後の日に、大震災の大嵐の渦に巻き込まれ、流浪する旅を始めたのも、これも不思議な神の国の物語りでしょうか。「ガリラヤから世界へ」と、かつて私たち教会は、その未来を謳いました。けれどその彼方に、まさかこんな物語りが待っていようとは、誰が想像するでしょう。いまだ先は見えず、明日は手探りです。ただ、この様な形で出会ったこともない方々と出会い、海の向こうの人たちともつながりを持つようになろうとは、思ってもみない展開でした。

 石ころからでもアブラハムの子孫を起こされる神は(マタイの福音書3章9節)、吹けば飛ぶような私たちにも目を止めて、ここまで手をひいてくださいました。私たちも間違いなく、神の国の物語の中にいます。

  ところで私は今、台湾の新幹線です。この列車、もしかして日本製でしょうか。今回は、高雄で開かれた台湾保守バプテスト60周年の大会に招かれての訪台でしたが、テレビをつけても、看板を見てもやたら日本の番組や製品表示が目について、親日の暖かい雰囲気を感じながらの旅でした。

 台湾の保守バプテストからは、すでに多くのサポートをいただいてますが、今回は、それに続くものとなりました。感謝します。

 何かとぎくしゃくが伝えられる昨今の国際関係は、必ず変わると信じます。

 

  ところで、台湾のクリスチャン人口はかつて3パーセントだったのが、今では6パーセントに近づいていると聞きました。台北は15パーセントに近いということで、風習が強い田舎は難しいとしても、ならせば5,7パーセントだとか。1000人を超える大きな教会も、今では国内に40以上もあるそうです。

  何ともうらやましい話しですが、「きっかけはありましたか」とお聞きすると、まずは教派を越えて一致した祈りがあったこと、次に現代にマッチした伝道の方法、それから小グループの活動だと教えてくださいました。付け加えてもうひとつ、地震や台風など相次いだ震災の影響もあった、と。それが、震災から10年を経て顕れてきたということでした。

 

 果たして天災は、人の心を神に向けるのでしょうか。

 

 そして日本人の心も、天の神に向くでしょうか。

                   (10月18日、高雄行き新幹線内で)




その58

大海原の海図のように

 韓国上空を飛んでいます。今週私は北海道にいたため、福島に戻ってすぐばたばたと旅支度をして家を飛び出し、危うくパスポートを忘れ電車に乗るところでした。空港が成田でなく羽田であったことも原因したか、飛行時間が2時間だったせいもあったか、すっかり国内旅行の気分でいました。もしもあのまま羽田空港に向かっていたらと思うとぞっとします。近未来の自分に、すっかり自信を失くしています。

 空港では、迷った挙げ句、ソウル行きに搭乗する直前、海外旅行保険に入りました。今晩着いて、明日は日本にとんぼ帰りするのだからと、なしでもいいかとも思いましたが、何が起こるか分からないのが人生と思い直し、加入し搭乗しました。すると、どうでしょう。離陸した飛行機はソウル上空で、普通でない乱気流に巻き込まれ、機体は激しく上下に大揺れに揺れました。

 震災は過ぎ去ったものの、人生明日何が起こるかほんとうにわからないと、改めて思い知らされて旅することとなりました。

                                 (8月31日 金曜日ソウル便にて)

 今私は、ソウルからの帰国便に乗っています。昨晩は金浦空港に着いてすぐ、そのままホテルへ直行し、翌日の午後に、ソウル市内の幾つかの日本人教会と日本語礼拝をもつ韓国人教会合同でもたれた、日本人向け伝道会「東日本大震災支援集会」で、お話をしました。オンヌリ教会礼拝堂が会場でしたが、驚いたのは、先月訪韓した際には礼拝堂内が椅子でびっしりだったはずなのに、今回はまるで礼拝堂が様変わりして、円卓が一面に配置され、韓国伝統のお茶菓子がセッティングされていた点です。プログラムは、日本各地でもたれているラブソナタ集会の、逆輸入バージョンソウル版といったところでしょうか。

 ソウルでこの様な大がかりな日本人向け伝道集会が合同で開かれるのは、初めてとのことで、果たして何人集まるのかわからないとのことでしたが、ふたを開けてみると、ほぼ満席でした。昨年3月11日、日本で起こった巨大震災に、今も海外におられる多くの方々が、関心を寄せてくださることに、感謝しました。

 残念だったのは、先月の訪韓とは違い、国際情勢が緊張感をかもし出していた点です。どこかきな臭い雰囲気の中、政治の動きを横目でながめながら、訪韓しました。ただ、そんな中でもたれた集会名が「きずな」だったことは、何だかこの様な時にこそ、細くて粘り強い民間の草の根レベルの交流が必要なのだと、物語っているようでした。

 

 私たち自身これまで、震災以降、どれ程の方々の心温まる支援に支えられてきたことでしょう。行政からもそうですが、それをはるかにしのぐ頻度とスピード感をもって、有形無形の助けの手が、まるで津波のように、私たちの元に押し寄せてきました。いつ、何回思い返してみても、まるでドラマを見ているかのようです。

 思いもよらないそれらのきずながかけ橋となって、私たちを励まし、絶体絶命の状態で私たちは助けられました。今回の、国家間に横たわる緊張も、もしも数々の民間の間にかけられたきずなが和らげ、網の目のように張り巡らされかけ橋が、危機の回避に一役買うことはないだろうかと、淡い期待も寄せました。天から下られた救い主イエスは、天と地をつなぐ和解の使者となられたのですから。

 

  平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイの福音書5章59節)

                                   (9月1日ソウル〜羽田便にて)

 

 

 昨日、震災で栃木に散らされた2人の教会員を訪ねました。避難生活も1年半にわたると、冗談抜きで持久戦状態です。今回訪問した内のおひとりは、昨年3月の避難命令で、故郷を追われご親戚の元に身を寄せ、御両親共々、子ども連れでの疎開(?)となりました。ご家族を受け入れられたご親続も、きっとお互い大変な日々を送られたことと思います。その後、お母様は長引く避難生活で体調を崩されたとのことです。

 今回お訪ねたもうひとりは、避難先で老人ホームに入居されています。94歳になられますが、震災前は気丈で、お一人暮らしをしておられました。畑を耕し、自炊自立で、少々の運動も、日々の日課でした。けれども震災以降は、突如の避難生活に続く老人ホームへの入居となり、今では、老人ホームの外に出ることもかなわず、建て物の中を、日々4周歩いておられるとのことでした。

 どうしても、かつて故郷の教会で嬉々として通っておられた様子を、思い起こしてしまいます。ひとりで自由に暮らしておられた日常が奪われたことが、他人事ながら悔しくて、別れ際まで、私は内にじくじたる思いを噛みしめていました。ただ、それでもその方はさすが元海軍の将校らしく、激動の中でも自分を保ち、何がどうなろうと「イエス様から目を放さず、天国を目指しここで歩みます」と、気丈に語っておられました。

 とは言うものの、別れ際はなかなか握った手を離そうとせされず、「もしやして、これがお会いするのも最後かもしれない」とばかりに、長い時間まじまじと、私の顔をじっと見つめておられました。その方、実は、私が牧師となった25歳当初から、「この方は、日本一の牧師」と、ところ構わず、穴があったら入りたくなるようなことを宣言してこられました。その都度赤面し、身の置きどころがない気持ちになりましたが、今こうなってみると、それもまた有難く、かけがえのない思い出です。

やっぱり私たちは、引き裂かれたんだと思います。

まさかこのまま、すべてかけがえのない古里での思い出の一つ一つが、セピア色にでも変色し、ほんとうに想い出となって固まってしまうのだろうかと、老人ホームでの別れ際、いつまでも離さないその方の手を仕方なく振りほどいた別れ際、大きな不安や悲しみが塊となって、私の中を駆け抜けたのでした。

福島のアパートに戻った私は、近くの電気店に足を運びました。カウンターで、店員さんに突然声をかけられました。「かつて双葉郡に住んでおられましたか」。お聞きすると、その方は侵入禁止中の故郷にあったかつての電気店に、勤務しておられたとのこと。そういえば見覚えがありました。転居先のこの町の中で、同郷から移り住んだ者同志、互いにかぎわける、顔のどこかにサインでも刻んであるのでしょうか。

 その方は震災直後故郷を追われ、今はいわき市の仮設住宅に入居しておられるとのことで、何とその仮設の前を、直前に通ってきたばかりでした。「あっ、ここにも仮設が」と。そこは新築の家々が並び立つニュータウンの一角の公園の中に、まるで無理矢理割り込むかのようにして、建っていました。

 いわき市内だけでも、この様にして仮設住宅が27か所に立ち並んでいます。町のあちこちに、所狭しと、少しの空き地でも見つけるかのようにして。町の随所で目にするその様な光景は、異様です。故郷は田舎でしたから、多くの人は広々とした一軒家に住んでいたはずです。それが今では、一見長屋のようにも映るプレハブの中で、じっと生活しています。どれ程の、ストレスでしょう。

 ひとり暮らしの方は、仮設住宅では、4畳半です。そこでの生活をある方は、「まるで刑務所のようだ」と表現し、別の方は「収容所」と述べました。

 

 だからでしょうか。ばらばらになった者同志、あの日追われた懐かしい故郷を互に偲び合うかのように、もしくは心のどこかにぽっかり空いた穴を埋めるかのようにして、きっと互いに声を掛け合い、きっと同質の哀愁を漂わせているのだと思います。どこにでもいい、いくつあってもいい、架け橋が至るところに築かれるといい。震災後絆ネットワークがそこここに、まるで網の目のように張り巡らされるといいなどと、韓国から戻ってなお、「きずな集会」にいるのでした。

 

                                  (9月4日、栃木県訪問の帰りに)

 

 いよいよ、教会堂建設工事が始まりました。お祈り、感謝します。建築の許可が下りて、地中深く岩盤にまで到達する、23本の杭打ち工事が始まりました。いわき市は全体に地盤が軟らかいそうで、今まで私たちが行った教会建築で見たことのない、大がかりな基礎工事が行われました。聖書には、砂の上に建てるのではなく、岩の上に建てられる家作りが記されています。今回の教会堂も、今後再び地震が来ても、かえって新会堂の中に逃げ込む位の、頑丈な建て物が建てばいいと、願っています。

 工事はまだ始まったばかりですが、これから、旧約聖書ネヘミヤ記に記されたエルサレムの城壁再建のような、ハガイ書の神殿再建のような、物語が綴られていくでしょうか。

 ところで今私は、北海道上空にいます。福島空港から札幌の千歳空港へ向かい、そこから更に女満別空港へと飛びながら、北の大地を見降ろしています。実は今週の水曜日、栃木から戻ってすぐに、発熱しました。夏風邪だったのでしょうか。木曜日からは、今度は腰が立たなくなり、結局昨日まで2日間、立ち上がることができずに、会堂建設の打ち合わせなど、2つの予定をキャンセルしてしまいました。

 というわけで、今日からの北海道も、果たしてどうなるものやらと危ぶまれましたが、こうして腰に湿布を貼り、上からベルトを締め、何とか向かっています。車で福島空港まで向かう際、家内は「直前まではらしても、いつも出かける時には何とかなる」とあきれ顔でした。私も自分ごとながら、「あんなに家の中で腰砕け状態だったのに、朝になると、こうしてなんとかなっている」と少々あきれています。

 福島空港では腰をくの字に曲げながら、搭乗口にまでたどり着き、こうして、札幌で飛行機を乗り継いだ私は、北見へと向かっています。今回の集会は、ゴスペルコンサートとの抱きあわせで、福島支援チャリティーコンサート集会です。もちろんどの集まりも、ドタキャンするわけにはいきませんが、今回もはらはらとどきどきしたものの、結局神様に抱きあげられるようにして、運ばれています。

                                    (9月8日、札幌〜女満別便)

 

 今日は9月10日、月曜日。北見での震災講演会も、ゴスペル震災支援コンサートも守られて、少々腰をくの字に曲げはしましたが、何とか語り終え、北海道を後にしています。今回も、何人かの方から、「震災以降、ホームページを見ていました」とか、「お気にいりに、入れて見てます」等、有難いお言葉をかけていただきました。「私はクリスチャンでありませんが、ひょんなことからこのサイトに出合い、ずーと追い駆けてました」という方にも出会いました。震災の中で、ネットの時代が生んだ、思いもかけない、絆でした。

 思いがけないと言えば、今週は神社庁から声をかけていただいて、集会に伺います。神主さんやお坊さんの前でお話するのは、初めてです。震災後、ミッションスクールにも随分伺いました。これも震災が体験させだ新しい世界でしょうか。私は今、震災後築かれたネットワークの中を歩んでいるのでしょうか。

 かつて後に伝道者となるパウロの人生を、神は「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」と告げられました(使徒の働き9章15節)。更には、「彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」(16節)とも。そういえば15節に記された「選びの器」は、私が24歳当時、神学校卒業時に取りあげたレポートのテーマでした。今頃になって、そのことばは何だか、まんざら人ごととも思えない不思議な響きを持って、私に迫ってきます。

 ペテロの人生もまた、同様でした。彼の後半生を主は、「 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」と告げられ、同僚のヨハネは「 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。」(ヨハネの福音書21章18〜19節)と解説しました。

 彼自身思ってもいないところへひいて行かれ、最期は殉教の道をたどる、との主イエスのことばは、果たしてその通り、彼の人生に実現しました。あの時点で、彼がわかっても、わからなくとも、です。

 きっと私たちそれぞれのささやかな人生にも、そのような、まるで大海原を導く海図のような、神が引かれた一本の道が、記してあるのだと思います。そして、その道の上を天を仰ぎながら進む時、震えたり、苦しんだりしながらも、要所随所で、神様の大きな御手を感じる仕掛けがしてあるのだろうとも。

                                              (9月10日)

 今日は、9月16日(日)。なのに私は、相変わらず腰が曲がったまま移動しています。今回は10日も経つというのに、長引いています。けれど、そうも言っていられず、今岡山に向かう新幹線の中にいます。

 長引くと言えば、避難生活は1年半も過ぎ、これは本当に異常な事態だと、あるお医者さんがテレビで訴えておられました。

 先日も、あるミッションスクールで講演した時、「何か、私たちにできることはあるでしょうか」と質問を受け、「もしも、お近くに福島から引っ越してこられる方がおられたら、きっと余程のものをかかえてのことと、思いやっていただけるなら、ありがたいです」と、訴えてきました。

 背後に、大きな神の御手と、身近に多くの人々のエールを感じながらも、震災後1年半を迎え、ぎりぎりの旅は続いています。

                                              (9月16日)




その57

流浪する世界

姫路、浜松での講演を終え、日曜の朝に福島に向かっています。日曜日当日に朝浜松を出発しても福島での礼拝に間に合うのは、結婚式場を借りて午後礼拝をしているからです。当初私たちは8月9月のチャペル完成を夢見ていましたが、確認申請許可に手間取り、加えて購入した土地から埋蔵物出土の可能性もあると言うことで、10月完成は更に延び、今では12月のクリスマスに間にあうようにと祈り始めました。

そういえば、時々「素敵なチャペルができましたね」と声をかけられ驚くことがあります。どうやら現在2時間3万円で借りて礼拝している結婚式場を、ホームページなどで目にした方が、そこが新会堂と勘違いされた様です。

山あり谷ありの日々が続いています。今頃は、400年前の器などが間違っても出土しないようにと、祈りをささげています。万が一発掘作業などが始まって、何カ月も何年も、工事が先延ばしになったら大変です。

希望と不安、計画と心配が、交錯する形で毎日が進んでいます。いつの日か、この様な生活から解放される日が来るでしょうか。私たちは、その時までもつでしょうか。

                          (7月1日、日曜日)

                          

今私は韓国上空を、金浦空港に向かって飛んでいます。今日からソウルにあるオンヌリ教会でお話です。この教会はラブソナタ集会を日本各地で開催していることで知られています。今回は、日本に対して普通でない想いを寄せてこられたハ・ヨンジョ牧師の遺言により、「流浪の教会」が韓国語で「奇跡の舞台となった教会」と題しオンヌリ教会系ツラノ出版社から出版していただいた経緯もあって、後任となられたイ・ジェフン主任牧師に声をかけていただく形での、訪韓となりました。

オンヌリ教会からは、多大なご支援もいただいています。私たちはいったい、世界中のどの方角になら、足を向けて寝ることができるでしょうか。

ところでこの飛行機、間もなく空港に到着します。その後すぐに、今晩本堂で開かれる水曜集会へと直行します。果たして神様は、今回の訪韓を通し、どのようなドラマを用意しておられるのでしょう。少しどきどき、どこかでわくわくしながら、これも震災に遭ったからこその恵みと受け止め、感謝して訪韓することにします。

                         (7月18日、水曜日)

8日間のソウル滞在を無事終えて、私は今、帰途についています。予感はしていましたが、結構びっしりのスケジュールでした。その間パソコンに向かう時間はなく、今こうして機上で打っています。オンヌリ教会は、信徒約6万人で、日本の教会と余りの違いに圧倒されるばかりでした。けれども、昨年3月の震災以降、その渦の中にどっぷりと漬かり、流されて行くようにも感じていた私にとって、ちょっとしたショック療法か転地療法にもなったでしょうか。

今回は特に、家内と共に初めて、時間を見つけ北朝鮮に相対峙する38度線に行くことができました。板門店の緊張の中に身を置きながら、そういえばオンヌリ教会のハ・ヨンジョ先生のご家族も60年前起こった朝鮮動乱の際、南へ難を逃れて来られたことを思い出しました。その時の苦しみは、いかばかりだったろうと思います。韓国訪問は今回で8度目ですが、この度は不思議に私たちの関心で、この地でかつて人々が経験した苦しみへと向かいました。

DMZと呼ばれる38度線をまたぐ形で続く中立平和地帯は、皮肉なことに現在世界中で絶滅の危機に瀕している野生動植物の、貴重な宝庫となっているそうです。そういえば、今も立ち入り禁止の私たちの故郷も、原発事故により突如として人が消え、一年半の歳月が流れ今となってはダチョウや牛、豚などがすっかり野生化して、ところ狭しと走り回っています。もしかして私たちの故郷も、ひょんなことから出現した、現代版DMZと言えるでしょうか。

それにしても今回は、見聞きするものいちいちが、心がひっかかり、何だか人ごととも思えなくて、気がつくと足を止めている場面が多かったように思います。北朝鮮をかなたに臨む境界線には、「望郷」と刻まれた石碑がありました。昨年の出来事に続く今年のせいか、古里福島をはるかに臨んでいるような不思議な気持ちにもなりました。急に目がしらが熱くなったり、韓国で、思いもかけない自分に出合ったようです。

かつてこの地で繰り広げられた朝鮮半島分断の悲劇が、私たち夫婦の心にこれほど響くとは思いませんでした。300万人もの人が亡くなり、1000万人も北から南へと故郷を追われ、流浪したというのです。動乱の中で親とはぐれ、孤児もたくさん生まれたと聞きました。レベルははるかに異なりますが、家と故郷を失ったという点で、似たものを感じたのでしょうか。

今、福島県内に約9万人、県外に約6万人、計約15万人の人々が、家と古里を追われて避難生活を送っています。ある人は家族がばらばらになって、皆仮の宿でじっとしています。あの日以来、信じられない光景が目の前に繰り広げられているという点で、似ていたのかもしれません。

人は、心と体で体験したことは、忘れないそうです。私たちも、忘れないと思います。忘れようとしても忘れられないし、また、忘れてはいけないとも思っています。

先日、ある教会のご婦人が、昨年の震災に続く原発事故直後、避難所から、すぐ戻れると考えて首輪につないできたままの愛犬たちを迎えに家に戻ろうとし、故郷への入口で止められた時の、悲しい出来事を思い起こしておられました。それは非情な、家族同様愛して止まない愛犬たちとの別れでした。

「犬たちが首輪につながれた状態のままで、家で待っているんです」と訴える彼女は制止され、「今戻れば、放射能を浴びて、あなたも死ぬかもしれないんですよ」と帰してもらえなかったとのこと。あの無念さは一生忘れられない、と話しておられました。

今回の訪韓は私にとっても、民族分断の地に立って初めて気づく、自分自身との出会いだったでしょうか。震災後、微妙に変化している、自分で気付かない自分自身と向き合う時だったでしょうか。聞いたからといってわからず、見たからといって理解できない世界があることを知りました。

そうだ、帰国後新たな気持ちで、数字や映像で伝わらない震災体験談を、生の声として伝えようと再び決心しました。証言する使命があることを、自覚させられました。

人にはそれぞれの、戦争体験や家族を失う等、耐えがたい苦しみがあると思います。それは、しばしば突如襲いかかる火のようです。そして、そこで経験した痛みは、その人がその後どれほど恵まれた経験をしたからと言って、消えたり相殺されることはないようです。それどころか、心に封印された深層の傷は、時にうずき、フラッシュバックするでしょうか。

にもかかわらず、新たな人生の旅立ちはそこからが始まるのだと信じたいです。「その経験がなかったら、今の自分は無かった。こんな世界は、来なかった。」と言える未来が、きっと待っている、と。また、あの体験がなかったら真に共感できなかった世界を知ることができた、という意味でも。

やがて冬は過ぎ、春が巡って来るように、この世界は、長くて苦しい試練の後に、新たな世界が到来することを物語っているのでしょうか。

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119篇71節)と告白します。

(7月25日ソウル〜成田便、)

お盆休みも終盤にさしかかりました。私は今、琵琶湖を左手に眺めながら、JR湖西線を走っています。実は、昨日の大雨で土砂崩れが発生し、快速電車は終日運休となり、そのことも知らずに駅に着いた私は、急きょ各駅停車に切りかえ京都駅に向かっています。果たして予約した京都発東京行き新幹線と、東京駅での待ち合わせスケジュールに、間にあうでしょうか。

人生は、日々はらはらドキドキの連続です。

ところで、今回のダイヤの乱れの原因は、先ほど述べた昨日の大雨です。昨年起こった大震災ほどでないにしても、何だかこのところやたら自然の猛威が目につき、人間世界が右往左往する日が多いような気がします。昨年震災に遭ったばかりなので、意識のしすぎでしょうか。それともこのところ自然が荒れる頻度が、日本や世界各地で頻繁になったでしょうか。

そういえば、昨年の大震災前夜、3月10日の夕焼けが普通ではなく、西の空を溶かすかのようで、私たち夫婦はぎょっとしたという話は以前紹介しました。最近、その三日も前から、東北地方の上空に、異変が起こっていたという話を聞きました。大気の温度が急上昇し、東北地方一体から何らかの物質が大空高く舞い上がっていたというのです。

天と地はつながり、造られた世界は連動し、その日万物はうごめき、自然もうめいていたのでしょうか。

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」(ローマ書822節)。

話は全く変わりますが、我が家も明日から、ちょっとした夏休み気分です。愛くるしくも、時に小獣(?)のようにも見える孫たちが、一泊での里帰りします。里帰りと言っても、家も故郷も失ってしまったため、現在借りている小さなアパートへとやってきます。

こうなってみると、侵入禁止のあの故郷は、山あり海あり川までありの、自然豊かなこの上もない古里でした。孫たちに向かって、「あなたのお母さんはね、この土地で生まれて、あの公園で遊んで、あの学校に通ってね」と方って聞かせられないのが、残念です。孫たちの記憶に、母親のルーツが実体験として刻まれることは、ないのでしょうか。

小学生になったら、おじいちゃんとおばあちゃんの家に里帰りして、野山を駆けまわり、川魚を取ったり、蝉やかぶと虫を手にして、麦わら帽子姿で汗を拭き拭ききっとスイカも食べたことでしょう。私たち夫婦はお爺さんお婆さん役を立派にこなし、偉そうに「あなたのお母さんが子どもの頃はね」と、話して聞かせたに違いありません。

いつまで私は、失われた未来をいとおしんでいるのでしょう。

そうだ、そんなことを言っている場合ではありません。最近私が、一向にブログを更新しないため、もしかして福島に戻って、うつ状態になっているのではないかと、心配する声があるとも聞きました。

 私は大丈夫です。ですが、本当に大丈夫かどうかは知りません。確かに、以前のように更新できないのも、集中力が切れてきたのか、今頃疲れが出てきたのでしょうか。

だから明日こそは、飛び跳ねながらやって来る孫たちの来襲を迎え、果敢に応戦し、力尽きるまで闘い抜き、密かにみずみずしい命のエネルギーを吸収して、元気の源とすることと致しましょう。

 

PS

 先ごろ、NHKETV特集でビクトル・フランクル著「夜と霧」の解説番組が流れていました。我が家のどこかにも、地震後のそのまま本棚から崩れ落ちた本の山のどこかに、「夜と霧」は埋もれています。

 フランクルは、第二次世界大戦時にアウシュビッツ収容所に入れられたオーストリアの精神科医で、収容所の中で次々と人が死んでいく光景を目の当たりにしながら、人間や人生を鋭く洞察します。番組の第1回で取り上げられたのは、彼が極限状態で見た祈りと希望でした。

 彼は、一見屈強そうに見える人が強いのではなく、祈りをささげる人や、どんな状況下でも希望を失わない人の中に、いのちの強さを発見します。過酷な状況下で、ひたすら自分中心になっていく人々にも出会いましたが、逆に自分の食料を、弱った他の人に与える不思議な人々にも出会いました。人間には心の中で祈りをささげたり、希望をかかげる自由があり、それは、ナチスも他の何者も奪い去ることはできないことを知ります。

 また、どんな時も希望を失わないことが、命の原動力であることも。状況に、そのまま支配されることのない人間の幸、不幸。「最悪の不幸でないとならば、不幸とは言えないのではないか」、というのも、極限の状況下で見い出す、希望やしあわせのとらえ方かもしれません。

 

私も、気をつけましょう。自分の心の、コントロールに。

 

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4章23節)

 

                               815日)

 やっとの思いで、8月も末の今日、再び韓国へ出発の直前に、アップします。遅くなって、すいません。お祈り、感謝します。

                          (831日  佐藤彰)



その56

持久戦

何を考えるでもなく、今私は電車に乗っています。最近少しは、新聞にも目を通すようになりました。このぼーっとして過ごす何気ない時間も、大切だと聞いたことがあります。確かに旅の道中は、電車でも飛行機の中でもひとりだけの空間でした。この移動式プライバシーが、めまぐるしい激動の日々を支えたでしょうか。自分を保つため必要不可欠な、合いま合いまの一呼吸となり、細切れに挿入された安息であったかもしれません。

最近の列車は、座席の下や袖の所にコンセントまで付いていて、重宝しました。加えて、被災後高速道路が無料化になったことも、助けとなりました。震災直後には、原発からの逃避行に加え自宅や教会への一時帰宅、更にはちりじりになってしまった全国各地の教会員を訪ね歩く道のりでも、どれほど有難かったことでしょう。私たちは一体この間、東京・福島間を何回往復したでしょう。半端な距離数ではなく、恐らく、異常だったでしょう。

とは言え、一旦は現代社会への警告か、はたまた突然の急ブレーキで、いきなりのシフトダウンを課せられたかのようにとらえていた一連の震災であったはずなのに、気がつくと相も変わらず現代文明の力に乗っかり、電車や飛行機ではコンセントにパソコンをしっかりつなぎ、ちゃっかり居心地の良さは享受して、うっかりすると次なる便利さまで要求しかねない、現代病に(?)すっかり染まりきった、少し危うい、震災前と相も変わらぬ自分自身がいるのでした。

話は変わりますが、先日講演先で、同郷から避難しておられる方にお会いしました。その方は、とにかく悔しくて悲しくて、もう故郷には戻れないと話しておられました。涙で顔がくしゃくしゃになったこともある、と。そういえば、旧約聖書の哀歌にも、悲しみが余りに深く「私の目は涙でつぶれ」(哀歌2章11節)ましたとの表現があります。

当時は、悲しみの預言者と言われたエレミヤが活躍した時代です。国は外国に攻められ、荒らされました。ついには異国に捕らわれの身となって、亡国の憂き目を見たのです。三回にわたる捕囚の最期となったゼデキヤ王は、両目をえぐり出され、ユダ王国からバビロンへと連れて行かれます。

もちろん今回お会いした避難中の同郷の方の場合は、もちろんそれほどの苦しみではなかったでしょうが、大切な我が家に野生化した豚が入り込み、手塩にかけ育ててきた田畑も一年放置されるとすっかり荒れ地と化し、信じられない光景の前にただ呆然と立ち尽くし、目が張れるほどに泣きはらしたというのです。事ここに至っては、そんな我が家を見たくもないし、もう帰宅しないと宣言されたのも、分かるような気がします。余りの苦しみです。長年の大切な思い出がぎっしり詰まったマイホームが獣たちに荒らされ、故郷を追われて一年が経ち、すっかりゴーストタウンと化した信じられない光景を目の当たりにして、果たしてこれをどう受け止めるたらいいのでしょう。

余りに甚大な悲しみや痛みのコスト計算は、いくらにはじき出されるのでしょう。大体、そのような損失の計算は、成り立つのでしょうか。

 私たちの教会員も全国各地に散りました。その現実に直面するたびに、いたたまれない感情にさいなまれます。みんなやっとの思いで生きています。ある日突然、そのすべてを負い切れなくなって、何とかつないできた命までをも投げ出してしまうことになりはしないか、との懸念を抱いていると思います。

 一年にわたる避難生活の疲れは、とうの昔に峠越えをして、今はかろうじて旅路のコース内に留まっているというところでしょか。長引く仮住まい生活は、限界点をはるかに越え、もしかしたら私たちは今、伸びきったゴム状態に達しているかもしれません。こんな状態で、同郷の人も私たちも、ほんとうにこれから先何年もつのでしょうか。杞憂ですか。杞憂ならいいのですが。

新築のチャペルはもちろん、自宅や、学校から病院が立つ街並みに至るまで、教会に集っていた人々も、すっかり消えてしまいました。その喪失感と哀しみはただ事ではなく、重苦しい空気となって心の中を覆っています。これは、持久戦ですか。私たちの耐力は、あとどれ位残っているでしょう。もしかするとこのけだるさは、気が抜けて、景色からは色が抜け落ちて行くような、危うい世界にスライドしたサインでしょうか。

それとも、ただの疲れでしょうか。                              (5月14日)

 昨日、結婚式がありました。これまで全国各地をまわっていて、震災がきっかけで結ばれたカップルに2組ほど出会いました。今回は私たちの教会員同士の結婚式でしたが、これもまた震災が生んだ結婚式と言えるかもしれません。震災以降、景色も生活のリズムもすっかり変わってしまいました。激震は思わぬ情景を奏で、生活のリズムやスピード感も変えたと思います。

 ところで今回の結婚式、うれしいはずなのに、どこかに哀しみをたたえていました。というのも、これは震災前の教会ではないかと思えるような、教会同窓会さながらの光景を再現したからです。結婚式場で久しぶりの再会を果たした教会員は、懐かしくて嬉しくて、そこには震災で壊れてしまう前の、幻の教会がつかの間であっても再現されたかに見えたのです。ただ、その夢のようなひとときも、まるで花火のようにたちまちのうちに別れの時を迎えました。

 まるで我が家の孫が、大好きな内の家内に向かって(私ではない?)「おばあちゃん、もっといて。ずーっとここに、いつまでもいて。あと50回は泊って」とせがむように、「どうしてみんな、また散っていくの。ずーっと、一緒にいようよ」とすがるような心境だったでしょうか。

震災後、初めてお会いする方もいました。その席は今は幻となった、さながら故郷の教会で開かれたイースター祝会やクリスマス会のようでもありました。嬉しそうで、懐かしくて、だけどそうであればあるほど別れの時は、寂しかったのです。

どうしていつものように「じゃあ、また日曜日に会おう」と言って別れられないのか。「次はいつ会えるでしょうね」と声を掛け合って、東京から埼玉、栃木、千葉などへと、それぞれの仮の宿に向かって帰って行かなければならないのでしょう。行くも寂し、見送るも哀しで、慶びの結婚式の下敷きは、深々と横たわる、厳しい被災の現実でした。北へ南へ散って行く教会員の背中と、それを見送る人たちのひとみの中には、それぞれの涙をたたえる物語がありました。

気には止めませんでしたが、もしかしたら私たちを見つめる夕焼けも、涙色だったかもしれません。                (5月9日、奈良にて)

宇部空港上空を飛んでいます。下関の大学での、講演の帰り道です。お祈り、感謝します。この震災日記、なかなかアップできないまま、遂にここまできてしまいました。震災後1年3カ月が過ぎ、私の中にじわじわとダメージが現れてきたでしょうか。こんなに長い間、ブログに向かわなかった日々は、ないでしょう。「生の声」として震災体験談を綴るはずが、これではすっかり腐りかけです。もしかして、精気が無くなってきたのでしょうか。気力が続かなくなったでしょうか。それとも、ただの疲れでしょうか。

疲れと言えば、ある人は会うごとに周りの人から震災話を訊かれ、くたびしまったと話しておられました。別の人は、他人に震災の話をしても一向にピンとこないので、話すのを止めた、と言いました。他の人は、被災者に歩み寄ったら「あなたには帰る家があるからいいわね」と嫌味ともとれる言葉を言われ、怖くて近づかないようにした、と話しておられました。震災を通し、それぞれが心に負った傷の形は違い、1年3カ月にわたる歳月がもたらしす亀裂は、いよいよ混迷の度を深め、ある種異様な風景をかもし出しています。 

何だか、私がブログを打てなくなった理由づけばかり探していますが、やっぱり家を失い、故郷が消え、生活基盤を根こそぎ奪われていまだ漂流生活を続ける旅ガラス状態は、異常なのだと思います。

いったい、この出来事は何だったのでしょうか。きっとすべてがすっかり落ち着いて後、しばらくの時を経てからわかるような気がしています。今はまだ震災後で、道半ばです。ダメージが効いてブログに向かえなくなくなったとか言っている場合でありません。すべてを暗く考え、自ら落ち込み自滅していくパターンを免れるためにも、そんな自分に流されないようにしましょう。

先日は、故郷に一時帰宅したあるスーパーの経営者が、自殺したというニュースが流れていました。インタビューを受けた同郷の方は、この事態にあっては、誰が衝動にかられ自らのいのちを絶ってもおかしくない、と話しておられました。きっとその方は、これまで築きあげてきたスーパーの中に立ち、改めて崩れて腐り果てた商品を目の前にして、途方に暮れたのではないかと思います。

そして確かに、事ここに至っては、いつ、誰がそんな心境になってもおかしくないかもしれません。いのちの、厳しい持久戦に入ったでしょうか。
                                          (6月13日、宇部空港発羽田便にて)

悲しい話を、し過ぎたように思います。実際に、悲しいからしょうがないとも言えますが、最近私は講演でも、放っておくとどうやら悲しい話ばかりをし過ぎる傾向があるようです。基本的に、悲しい歩みに違いはないのですが、悲しい中にも神様のいつくしみと人々のやさしさにもちゃんと出遭っています。これも書かなければ、公平ではないでしょう。

先日、東京の病院で避難中の教会員が、90余年の人生を閉じました。もしも震災に遭わなければ、故郷の教会に通い、まるで違った天への旅立をされたはずです。思いもかけない、最期となったでしょうか。

ところが、です。集中治療室で病状が急変した際、ちょうど私はお見舞いに訪れており、意識がないように見える彼女に話かけ、お祈りしました。医師の話では、もう意識は戻らないだろうとのことでしたが、その後彼女は意識を回復し、後に私が訪問したこともわかったとの報告がありました。

召される前日までご家族と会話をし、その翌日の召天となりました。家族葬は、日曜日となりましたが、私は講演のため他県におり、副牧師は福島の教会でのメッセージで、その日ちょうどスケジュールが空いていた伝道師が、急きょ東京に向かい司式をしました。その式が、ご家族の心に沁みてすばらしかったとの報告が入りました。後でお聞きすると、その式を担当された葬儀社の方も、クリスチャンだったそうです。

避難先で旅立つ際にも、神様の御配慮があったことを知りました。

そもそも彼女の一年にわたる避難生活をご家族にお訊きすると、まずお一人暮らしの福島で震災に遭い、直後に近くの教会員が彼女を訪ねて助け出されたところから始まったとのこと。彼らは避難用のバスに彼女をお乗せし、以後関東地方に至るまでずっと旅路をともにし、お世話くださったとのことでした。

その後は、東京の娘さんの所に身を寄せ、自らの足で階段を5階まで上り降りし、それがかえって足腰に良く、以後毎日のように近くの接骨医に通い、福島に残した自宅にも防護服を着て3回も一時帰宅し、生まれ故郷の北海道にも旅行して過ごされたとのこと。震災前はおひとり暮らしで、体調を崩し、周りも心配していたはずでした。信じられません。

東京は、彼女が結婚して福島に来られるまで過ごされた、いわば青春の思い出が詰まった懐かしい土地だったでしょう。そういえば東京の御家族は以前から、御主人を亡くして後独り身となって弱さを覚えるお母様の身を案じ、東京に越して来るようにすすめておられました。

図らずも今回の震災に出合い、彼女はかつて過ごした東京の娘さんのお宅に身を寄せるようになり、御家族に見守られながら、妹さんを見舞ったり、昔馴染みの方々と親交を温めたりしながら、健康も強められ、北海道から福島まで旅をされていたとは。思ってもみませんでした。

もしかしたら姉妹は、しあわせな一年を過ごされたのかもしれないと、思いました。神様は彼女の晩年に、思いもよらない震災に出合わせ、渦中にあってはしっかり彼女の手を握り、寄り添って旅路をともにされ、加えて最高の一年を用意されていたのだ、と。

だったら私も、疲れたとかもうだめかもしれないとか言わないで、哀しみの情景にも色を染め、温もりのラッピングをした後に、あたたかい言葉を散らしながら足場を固め、一見不条理にも見える事柄の中にも神様の御手がしっかりあると告白して、歩んでいくことにします。

ふーっ、久しぶりのこのブログ、何とか少しは前向きに終えることができた、かな……

                        (6月15日、福島にて)



その55

動じる人、動じない人

新幹線から、震災1年後の桜の花を眺めています。3月の慌ただしい引っ越しから2週間が過ぎました。福島県に越してきても、思ったほどのわくわく感がなかったと以前書きましたが、それでも今少しずつ、一年ぶりに福島県に戻ってきたことを実感し始めています。今までは、どこへ身を寄せても避難民でしたが、ここでは、地域全体が被災者です。

地方紙の紙面に、いまだかつてない程目を通している人も多いと思います。刻々変化する原発関連被災情報等が仔細に載っているからです。故郷そばに身を寄せながら、じっと故郷の行方をうかがっている私たちは、もしかしたら草むらにそっと身を潜め、我が家の様子をうかがっている猫のようであるかもしれません

ただ大きな変化とすれば、その日以来東京・福島間をピストンする必要もなく、また、個々に程良いプライバシーを確保したという点でしょうか。振り返ると、よく一年もの長きにわたって東京・福島間を行き来したり、共同生活を続けたものだと驚いてもいます。誰が事故を起こすこともなく、起こしたっておかしくない半端でない回数、距離数だったのに、と改めて薄氷の上を歩いていたのかもしれないと、自動車事故のニュースを見てはぞっとしたり、守られてきたことをしみじみ意識したりもしています。

電車からふと車窓に目をやると、海岸端の家々が破壊され土台のみが残る、被災地の光景が拡がっています。紛れもなく私は、被災地に戻ってきました。

現在、日曜日の礼拝は、結婚式場を借りて行っています。お年寄りや体調不良の方々のアパートは何とか完成したものの、チャペルの方は未だ着工に至らず、あちらこちらを転々とする形となっています。第一目の回の礼拝は、市内の教会をお借りして午後の時間に。二回目からは結婚式場のその日開いている部屋で行っています。これはこれで、流浪の礼拝と呼べるでしょうか。

旅ガラスのような浮遊の生活に慣れることはないにしても、さすがに年配の方は、動じる様子なく、年季が入っていて違うと感心しています。旅しながらも道々楽しみ、まるで震災を手玉に取って、最大限享受してしまっているようにも見うけられます。少々のことでは揺るがない、人生の荒波を越えて来られたたくましさと安定感にはほとんど脱帽です。教会の宝かもしれません。

全国に散りじりになってしまった教会員を思うとき、言いようもない寂しさが皆の心を覆います。心の涙は乾く間なく、そのままぬかるみとなって、足場を危うくしているでしょうか。幾種類もの悲しみが込み上げてきて、震災の一筋縄ではいかない手ごわさを、思い知らされています。

相手が、これ程しつこく厄介であったとは。いい加減もう勘弁して解放して欲しいと願うのは、私ひとりでないでしょう。

                 (4月14日土曜日大阪行き、新幹線で)

激動の日々は続いています。福島に来たら、少しはゆっくりと思っていましたが、別の種類の慌ただしさに追われています。東京・福島間の往復こそ無くなりましたが、新しい土地での生活をスタートするに伴う種々雑多な出来事と、東京から戻ってきた人たちが落ち着くまで煩雑な手続き等に、追われています。

原発事故に伴う賠償手続きや、チャペル建設に伴う諸手続き等も、結構エネルギーを費やす作業です。道のりはまだ遠く、次なる着地まで、幾多の気が重くなる事柄に直面し、乗り越えていかなければいけないことを予測しています。福島に戻ったら、少しゆっくりしようと考えていましたが、どうやら違った種類の重荷が待ち受けていたようです。

今私は、早朝六時の電車に乗り、高松に行く途中です。家内は、体調を崩している父の所に、同じく今朝出かけました。行きがけにナビの検索ルート違いで、高速道路にのるはめになったようで、今まで、高速の運転ができなかったはずの家内が、しょうがなく高速に乗ったとは。

私もひょんなことに励ましを得て、差し迫った事柄にたじろがないで、乗り切ることにしましょう。あの家内がどうやって、たったひとりで高速道路を運転したかを思ったら、できないことはないような気がして、「成せばなる。何事も」と、何だか本当に水の上も歩けるような気がしてきました。追い込まれたら逆に、切羽詰まるほどに自分の能力を越えた神が迫り、「私は私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」とパウロの告白を自分の信条のように横取りして告白しましょう。もともとこの事態、叱咤激励しなければ、呑み込まれ流されてしまい、たちまちのうちに後退して行く様を、直感しているのですから。まだまだ気は許せないと、引き締めましょう。

話は変わりますが、先日こんな話を聞きました。あるアメリカの企業のクリスチャン会長が、夢を見たそうです。そこにはイエス様が現れ、「あなたの会社は、日本に進出し大きくなったのに、それにもかかわらずあなたは、一体どれ程の恩返しを日本にしたのか」と。夢から覚め、いてもたってもいられなくなった会長は、あるキリスト教関係の団体に多額の寄付をして、震災から一年が過ぎた今年になって、再び日本の復興支援のための多額の献金の申し出をされた、と。

私の体験し、知りうる情報はごくわずかで、神はかつてから今に至るまで、大きくもまた細やかにも、自在に働いておられることを改め知らされる思いでした。もっと強く著しく、神よ、私たちの世界に臨んで、暗雲いまだ立ち込めるこの世界と私たちを、お救いください。

(4月25日水曜早朝、高松行き列車内)

 「わからない多くの事柄の中で、わかる幾つかのことを手繰り寄せ進んでいくと、神に出遭う」と、口癖のように唱えるようになりました。私たち人間には大半のことは隠されていて、許されているのはいつもわずかなことであるけれども、それを人生の道しるべ、手掛かりとして進み行くと、神が立っておられるように思う、と。

多くの情報は、助けにもなりますが、混乱を誘発する要因ともなります。

 

以前見たドキュメンタリー映画「アレクセイと泉」は、チェルノブイリ原発事故その後の、放射能の線量が半端でなく高いある寒村で、巡る季節の中懸命に生きる村人たちの姿を色眼鏡で見ることをせず、ありのまま素のままを描いた、ほのぼのとし命の意味を考えさせるものでした。当時、世界から押し寄せて来る人々がまるで判で押したように、放射線量の数字がどうだとか、怖くないかとか、同じ質問ばかりするので、村人たちはいい加減うんざりし、「それより、もっと大事なことがあるのではないか。かけがえのない今日を、おどおどして台無しに生きることなく、与えられ許されたこのいのちを精いっぱい生き、小鳥のさえずりや草花にいちいち感動し、喜んで生きているかを問うことの方が」と、逆に質問をし返したという、後日談もお聞きしました。

 多くのことは、私たちの目に隠されているように見えます。けれど、許された小さな出来事の中で、諦めず、投げず、少しことを手掛かりに進んでみるなら、きっと神は、その真中に立たれるのだと思います。つぶやきの中に悪魔を感じ、前向きの流れに中に神を意識しながら、神はどこにおられるのかをアンテナとして、混沌の世界を信仰によって旅していきましょう。

                       (4月30日常磐線、佐藤彰)




その54

男の本懐

サンフランシスコを後にしています。6日で11回の集会がありました。着いてすぐ、胸に痛みを感じ牧師先生に話すと、内科のお医者さんがホテルに駆けつけて下さいました。翌週日本に帰国される予定の、教会に通っておられるクリスチャンで、すぐに診てくださいました。そういえば昨年末も、年内最後の奉仕先で腰が立たなくなり、その教会におられた整形外科のお医者さんが、まるで私を待ちうけるかのように治療してくださいました。有難い話です。サンフランシスコ滞在は、一事が万事この出来事が象徴するようで、お会いする方々によくしていただきました。

一つ心残りとすれば、どこに落としたのか忘れたのか、ネクタイが一本なくなりました。このところ出かける度に、何か一つ置き土産をする傾向があり、これも震災後遺症の一つかといぶかしがっています。まるで愛犬が散歩時にマーキングをするかのようだと笑い飛ばそうとしたり、得るものが多いからしょうがないかとうそぶいたり、とにかく素知らぬ顔でやり過ごそうとしています。

帰国便では久しぶりに、映画を観ました。映画を観切る力が出てきたのでしょうか。それとも、内容が私を引き込んだでしょうか。

その映画は2007年制作の「アイアムレジェンド」で、当時の2年後にあたる2009年の近未来に起こる人類滅亡の危機を想定したSFです。内容は、遺伝子操作をしたはしかウィルスをがん患者に注入すると、完治するという夢のような話が一変、まるで狂犬病にかかったかのように人々が凶暴化し、人類絶滅の危機に直面するというストーリーです。

アメリカは国家非常事態が宣言され、ニューヨーク市も大混乱となります。空気感染の恐れまで生じ、人々は待ったなしの避難を強いられます。一刻を争って脱出をはかり、我先にと混乱を極める町の様子は、昨年私たちが体験した大震災時の避難時と余りに酷似し、ついつい食い入るように見入ってしまいました。5年も前に上映された映画であるはずなのに、まるで昨年私たちが直面した出来事を予告するかのようで、ぎょっとしました。

「これは天災でなく、人災だ」のせりふも、もしも地震と津波だけならば、私たちもこの様に我が家と故郷を後にして、流浪の旅を続ける必要はなかったと、今更のように今回起こった原発事故を、考えさせられてしまいました。あの日大半の人は自宅には問題がなく、怪我もしていませんでした。しかし、サイレンは鳴り響き、有無を言わさず7万人が家を追われました。その後それぞれが各地を転々とし、いまだに流浪の旅を続けています。これは、歴史上人類が直面する初めての出来事でしょうか。

ただエンディングは、復活の希望を抱かせるものでした。主人公の米軍の科学者は、妻子と別れひとりニューヨークに残ります。感染者が回復するよう研究を続けるためです。やがて彼は、凶暴化した人間に襲われて死んでいくのですが、死ぬ直前、感染者が免疫を得る臨床実験に成功します。

幼い娘と妻が夫と別れる際には、妻がひとり残る主人のために祈る場面もありました。「神よ、どうか夫に、困難を乗り越える力をお与えてください」と。思わず「どうか、困難に直面している多くの日本人に、困難に負けない力をお与えください」と祈りたくなりました。

ああ私の中に映画を観切る力が生じたのではなく、この映画の余り展開にぎょっとさせられたのだと、気づきました

               (3月21日サンフランシスコ〜成田便にて)

無事日本に帰国しました。私は、成田空港から車でそのまま福島に向かい、アパートの竣工検査を終えました。思った以上にいい建物になり、結構のわくわく感です。なかなかお洒落な佇まいで、これはうなだれる私たちへの、神様からのプレゼントでしょうか。

聖書に登場するヨブは、財産と子どもをなくし、自ら言語に絶する病に打たれます。けれども最後は、新たな神との出会いの経験と、かつての2倍の祝福でした。私たちにももしかしたら、その様な結末が待っているでしょうか。それとももうすでに、2倍以上の祝福を受け取っているのでしょうか。

新築のアパートを見た人が、「私も入居できないでしょうか」と問い合わせをしてきます。住まいを失くし被災者があふれていることが原因ですが、このアパートに住んでみたいと思われることは、うれしい悲鳴です。

竣工検査を終えた私は、その後夜中に車を走らせ東京へと向かいました。奥多摩で、約3時間ほど仮眠した後、早朝沖縄へ向かい、今は、その沖縄からの帰りの便で、那覇発羽田行きに乗っています。帰国後の綱渡りスケジュールが、ここまで守られ感謝します。

いよいよ明日は、一年間お世話になった奥多摩バイブルキャンプ場での最後の礼拝です。

キャンプ場の皆様や奥多摩福音キリスト教会の方々と、地域でお世話になった人達とみんな一緒に「ありがとう、さよなら礼拝」をささげます。この旅路で9人目となるサラリーマンの男性の洗礼式もあります。昼食時の感謝会は、あるケイタリング会社からの私たちへの、お寿司とオードブルのプレゼントです。

一年分の感謝と思い出がぎっしりと詰まった礼拝となりそうです。激動の一年の締めくくりの、涙と笑いが混ぜこぜの、わけのわからない一日となるでしょうか。

                  (3月24日(土)沖縄〜羽田便にて)

 

今私は、JR常磐線特急の新型スーパーひたちに乗っています。座席袖にコンセントが付いていて、新幹線に乗っている気分です。上野から、被災した福島県太平洋岸に向かう列車なので、少しでもエールをと、特別に新型車両にしたわけでもないでしょうが、故郷の直前で突如分断された私たちにとっては、力となるものなら何でも必要な気がします。

今週、あるテレビ局の取材を受け、津波で流され家の土台だけが無残に残る海岸にお連れしました。絶句しておられました。

それにしても、一年ぶりとなる懐かしい常磐線特急スーパーひたちです。本来は、仙台から上野までつながっていたはずですが、故郷が遮断された状態で、故郷の南約50キロからの乗車です。常磐高速道路にしても、もう間もなく仙台までつながるはずでした。その矢先の分断、ふるさとの直前での急ブレーキとなりました。

昨日自宅に一時帰宅したある教会員は、ゴーストタウンと化した故郷を再び目の当たりにして、もう何回も目にしてわかっているはずなのに、絶句とため息で帰ってきました。荒れた自宅の玄関を開ける度に、悲しい現実と対面し、肩を落とし戻って来ます。

先週末から4日間にわたって密着取材をしたテレビ局の人たちは、一年ぶりに福島に戻ったにしては私たちが浮かない表情なので、少々驚いたと話されました。もう少し歓喜の表情を撮れるものと予想していたようです。映像は真実を物語るかもしれません。

関東から車を走らせ、一年ぶりに福島県の土を踏みましたが、そこはホームタウンではありません。我が家はいまだ、遠く彼方のゴーストタウン化した故郷の中です。

映像が捕らえた肩すかしの表情は、私たちのそんな複雑な心境をそのまま物語っていたのでしょう。ここがホームタウンで、旅の終着であれば、どんなにか喜んだでしょう。しかし現実は、相も変わらぬ避難生活の延長で、ここからまた新たな仮の宿の生活が、一からスタートします。まずはこの土地に馴染むところから始め、郵便局や病院を探して、新生活に必要なものを一つずつそろえていきましょう。この土地に適応する努力も必要です。そんなに甘くない新生活の再スタートを意識して、自ずと身が引き締まったのだと思います。

福島県に戻れるのはうれしいけど、自宅でないから悲しくて。悲しくてうれしいから、ここでもやっぱり悲うれしいですが、この複雑な心境を映像は収めてくれたでしょうか。

ところで、「ありがとう、さよなら礼拝」は感動でした。200名前後集われたでしょうか。故郷から突然投げ出されたものの、行き着いた先で何度も抱きかかえられ助けられてきた私たちの一年の締めくくりとなる、ひと時となりました。

礼拝では、洗礼式に加えキャンプ場の責任者であられる宣教師からのお言葉、遠くから届けられたお便り、新しい旅立ちへのエールとなる演奏などがあり、どれも心のこもった神様からの贈り物でした。

礼拝に続いての感謝会は、クリスチャンが経営するケイタリング会社からのお申し出で、お寿司を握っていただき、まるで結婚式のレセプションのようだと感動の声が聞こえました。一年前、何もかも失ってくたくたになり奥多摩の地に転がり込んだ私たちを、こんなにも豊かな自然が包み込み、次々と雲のようにたくさんの人が現われては私たちを取り囲み温もりを与え、寄り添ってくださいました。

そんな奥多摩を「東京の田舎」だなんて副牧師が、礼拝時にポロリとこぼして皆を笑わせたかと思ったら、次の瞬間涙声になんかなっているから、今日は泣かないとあれほど決めたはずなのに、私まで泣いてしまったではないか、とすべてを副牧師のせいにするには無理があり、いかにも見苦しい弁明となってしまいました。メッセージの最中も途中で訳が分からなくなってしまう始末で、やっぱり私もはじめから普通ではなかったのだと知りました。

しかし翌月曜日は、それ以上でした。朝食後、ばたばたと引っ越し作業をし、大掃除の後、宣教師の先生から旅立ちのセレモニーをしていただいて、さあ出発という時です。車に乗り込む直前、互いに最後のあいさつを交わすと同時に、皆崩れ落ちました。「いまこそ別れ目、いざさらば」のはずでした。飛ぶ鳥後を濁さずのはずが、どうしても飛びきれず、せきを切ったかのようにそこここで抱擁と号泣が始まり、止めどなく溢れ来るものを抑えることができませんでした。

別れの切なさに加え、わけがわからない激動の一年の中で渦巻いていた思いの丈が、悔しさやいとおしさ、誰かにすがりたい気持ちや怒り、感動やずたずたに切り裂かれた心の傷跡などが、うずいたり、もがいたり、うめいたりしながら、波のようにのたうちまわるようにも感じました。ああ、本当に重い一年の峠道を、皆で越えてきたのだと、苦楽をともにしてきた戦友たちと、涙の別れの挨拶を交わすように、私も心の中でずっと震えていました。

悲しいときには泣けばいい。叫びたいときは、叫べばいい。それはそうですが、そんなに簡単に、解説しないでほしい。ことばにならない幾層もの思いが、湧いては消え、織りなしては押し寄せて来るのを感じていました。

東北人は、感情を抑える傾向があったはずではないかと、ふと頭をよぎりましたが、それも何もかも粉々にして余りある、1年分のたぎる思いが、突き上げてくる瞬間でした。そのありのまま素のままを、果たしてテレビ局の方々はカメラはとらえたでしょうか。後でお聞きすると、あの時クル―の方々も、涙を流しながらカメラを回しておられたそうです。

旧約聖書の当時、遠くバビロンに強制移民住させられた聖書の民は、70年も流浪の歳月を重ね、その果てに念願の祖国帰還を果たしました。それほどの長きにわたって温め続けた望郷の念は、故国帰還の際、どれ程のさく裂をみせたのでしょうか。

詩篇126篇に描かれている通りでしょうか。うれしいのか悲しいのかとうの昔にわからなくなってしまった私たちも、悲しみと感謝に暮れ、涙と笑いが混ぜこぜの、すっかり自分がわからなくなってしまった状態で、このまま進むほかないでしょうか。

主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。

そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなされた。」

主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。

主よ。ネゲブの流れのように、私たちの捕われ人を帰らせてください。

涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。

種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。

(詩編126篇)

日曜日の朝、30年近く私たちの教会に寄り添い、いくつものチャペルを設計してこられた設計士と、電話で話す機会がありました。その中で、以前から私たちの教会を見つめて下さったこの設計士は、この一年間の私たちの教会の激動の歩みを振り返って、かつて朝鮮戦争の際、突然の中国軍越境で壊滅状態に追い込まれた韓国軍のある部隊が、本陣を失い多くの犠牲を出しながら、最後まで闘いつつ撤退したという話を例に出して、ねぎらって下さいました。福島第一の教会のこの一年もそのようであった、と。この教会だから、そうなったのだ、とも。

ありがたいお言葉でした。涙声でした。

私の手は震えました。涙が、止まりませんでした。

あの田舎の地にかつて教会が立ち、親睦を深め幾つかの伝道所を建て、壁に直面しながらも宣教のチャレンジを繰り返してきたのは、すべてこのときのためであったのか。突然震災の渦中に置かれ、もがき苦しみながらも生き延びて、起きあがり、神の国の物語を心震わせながら体験するためだったのか。

だけど神様、ほんとうに私たちは、死力を尽くしたのでしょうか。突然、本陣を失い投げ出され、瀕死の状態から立て直しをはかり、攻勢に転じたのでしょうか。多くの犠牲を出しながらも涙を拭いて、敗残兵が寄り添うようにして、前進を試みたでしょうか。

もしもあなたが、その通りだとおっしゃってくださるなら、本望です。最早、何の悔いもありません。

あなたの御腕の中に、安堵します。

                (3月30日いわき発上野行き常磐線にて)




その53

 脱皮して天上人となるか

震災から一年目の3月11日を迎え、越しました。1年間をこうして生き延び、今私はサンフランシスコの上空にいます。多くの人が私の健康を心配して下さり、感謝します。当初私の中には、震災のその後まで生き延びようという考えがありませんでした。けれど1年が過ぎ、時の流れを感慨深く受け止めています。大げさに言うと、これで果てても悔いはない、と考えていました。そう言い聞かせなければ、この震災は乗り切れないと直感したのです。千年に1度の震災を、その渦中に置かれ、捨て身の覚悟もなく生きることは叶わない、と。けれども今、私はこうして震災後の1年目を迎えています。そして道は、まだ半ばです。

やるだけやったような気もします。この1年で10年分も生きたような。がんの1つや2つ、できていておかしくないような気もします。きっと、私に限らず震災を乗り越えてきた人たちは、みんな寿命を削ったと思います。

先日ある学校で、震災体験談を話しました。その学校にも、福島から転校してきた生徒がいるそうで、ある時こらえていたものが突然溢れ出て、大泣きをした話を聞きました。無理もないと思います。突然ふるさとを追われ、有無を言わさず一人ぼっちで転校を余儀なくされたのです。よくここまでがんばった、と思います。震災の中、生きてきただけでご苦労さまと。

アメリカのレストランにも、福島県浜通りにお姉さんがいて、今回の大津波で流され亡くなられたという方が、働いておられました。爪跡は大きく、広く、はるか海の向こうの人々の心の奥底まで深くえぐり、傷跡を残していました。

これほど涙を流したのに、もしも震災前後で、何も変わらないとするならば、余りに悲し過ぎます。あの震災は大したことなかったとか、忘れたとか、言ってはならないと自分に言い聞かせています。震災から1年が過ぎ、人々の記憶から次第に薄らいでいく中、神様なのか、いのちを落とされた方からなのかわかりませんが、心に迫って来るものがあります。

いずれ涙は風化し、忘れ去られる日も来るでしょう。それでもかつて、聖書が時代を書き記し、後世に語り伝えるように促されたように、だから今、私たちがこうして出エジプトやバビロン捕囚の物語を知り得るように、私たちもこの震災の中を生きた者として、語り継ぐ使命を感じています。

ところでならば私の場合はと問われると、震災前後で果たしてどこか、変わったでしょうか。生き方や考え方、聖書の読み方や神への信頼等。せっかくあれ程の火のような試練をかいくぐったのに、まさか何ほどの手負いの獅子のような気迫も、お話の中からにじみ出て来ることはなかった、とすれば悲し過ぎます。

この際、古い自分を脱ぎ捨てて、思い切り脱皮しましょう。震災の中をかいくぐった者として、化けてみましょう。聖書に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」 (Uコリント5章17節)、とあるのですから。

震災後こうして一年目を迎え、悲しみが静かにおおっています。あの時、駆け抜けざまに傷つき、気付かないでいた痛みも、今頃になってうずいたりしています。かつてモーセは、エジプト脱出の後に お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」(民数記11章15節)と叫びました。限界点をはるかに超え旅を続けていたのだと思います。

預言者エリヤも故郷を離れ、一仕事を終えて逃げ延びた先で、こう告白しました。自分は荒野へ一日の道のりをはいって行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」(列王記19章4節)、と。

 

今年の3月11日は、日曜日でした。私の誕生日でもあったその日、私は朝から震災記念礼拝と震災セミナーとそれに続く夕べの記念集会を終え、フィリップ・ヤンシーとの雑誌の対談をもって、一日を終えました。確か夜10時を廻っていたと思います。それから方向音痴の私は、何のことない電車を乗り間違えて、おまけに電車の中ですっかり寝入ってしまい、結局ホテルに着いたのは、午前0時でした。

問題は翌日の12日朝です。目覚めると朝7時40分で、あわてて起きた私は、8時までミッションスクールに着く予定なので10分間で支度をし、ホテルを飛び出したのでした。何とかお話には間に合ったものの、冷汗をかき、震災後もあいも変わらない自分と対面するはめになり、深くため息をついて、震災2年目をスタートしたのでした。

ふー。震災をくぐっても、何も変わらないか。

けれども、それくらいのほうが、よかったかもしれないとも考えました。悲しみとじっくり向き合い過ぎず、悲しかったことや苦しかったことを、時を駆けながら蹴り上げた土ぼこりにいいようにまぶして煙に巻き、一気にその日を駆け抜けてみて、かえってそれで、よかったのだと。交錯する情報や雑踏の中で神様の気配を感じ、必死に追い駆けてはしがみつき、お母さんを発見したら迷わず一目散に駆け寄る子供のように、私も目の前に繰り広げられる震災ロードを駆け抜けてみたいものです。

この一年の旅路のそこここで、神様はやさしく姿を現わしては、かつてないほどに見いだされ、駆け寄って来て抱きついて欲しいと願っておられるのではないか、と思いました。まるで聖書に描かれたあの放蕩息子のように、すべては、そこに向かって流れているのではないかと。

そういえば昨年も、ふるさとの孵化した鮭は稚魚から大きく育ち、渾身の力を振り絞って、故郷の川を目指す最後の旅に出、帰ってきたそうです。すべては、そこに向かって呑み込まれていくのでしょうか。

私たちのこの旅は、ふるさと福島をはるかに超え、天の故郷に向かって昇る天路歴程でしょうか。この道は、地上から引き剥がされて天上人となる、地上の旅人の特別コースでしょうか。

夏になると、抜け殻を後にしてすっかり脱皮した蝉たちが、一斉に全身を揺らし、鳴き声を奏で始めます。私たちも思い切り脱皮して天上人となり、精いっぱいのあかしの歌を全身全霊で奏でましょうか。

だけどそれは、この夏のことでしょうか。

            (3月13日、サンフランシスコの空の上で。佐藤彰)

誕生日はひと足早く、すでに台湾でケーキをもってお祝いしてもらいました。もう一つ、嬉しいニュースがあります。震災の日の3月11日(日)に合わせる形で、「続・流浪の教会」がいのちのことば社から出版されました。昨年、震災ほどなく出版していただいた「流浪の教会」に続く続編です。今回は表紙がグリーンで、前回は赤文字でした。原発と十字架のデザインが、続編では故郷に向かって翼を広げ、飛び立とうとする9月に完成予定の新会堂がしっかり描かれています。今回も、売り上げの一部は被災地の教会にささげられます。手にしていただけたら、うれしいです。私たちにとっては、震災を忘れていないとの、サインのように映ります。私たちにとっての、大きなエールです。

震災から一年が過ぎ、急速に人々の関心が薄れつつある中、あの時私たちがどれ程震え、打ちひしがれ、そこからいかに脱出の道を見いだしたかを知って、寄り添っていただくことは、慰めです。道々、私たちがどれほど神様と人々に良くしていただき助けられたかを知ってともに喜んでくださることは、力となります。

なぜかあの日、私は今日綴らなければ明日になったらもう書けないと思い、何かににせかされ誰かに押されるかのようにして、まるで憑かれたかのように震災日記を書き続けました。そして多くはそこから、不思議なストーリーが生まれました。その震災ダイアリ―と、各地でもたれた震災講演会メッセージ、そして旅路の途中で私たちをお世話下さった命の恩人の方々の証言や幾人かの証集が収められています。

ほんとうに、路頭に迷い途方に暮れたあの激動のはじまりから、まさか一年の長きに渡り流浪の旅を続け、一年後にアパートやチャペル建設に取り組むようになろうとは、ゆめゆめ思いもしませんでした。

すいません、ちゃっかり宣伝しています。宣伝ついでに、韓国でもこの3月7日にデュラノ出版から「奇跡の舞台となった教会」のタイトルで出版されました。もしも韓国にお知り合いがおられましたら、お知らせください。

最後にもうひとつ、先に紹介した「続・流浪の教会」出版に併せ、今回「新しい旅立ち」が新装再版されました。なぜ今併せて「新しい旅立ち」出版なのかについては、以下前書きを転載します。お読みください。

               (3月17日、サンフランシスコのホテルにて)

「新しい旅立ち」はじめに

福島第一聖書バプテスト教会礼拝堂で語られたメッセージを、かつて一人の姉妹が要約し、毎週週報に載せて下さっていました。そのいくつかをまとめる形で出版した「新しい旅立ち」が、この度字が大きく読みやすくなって再版される運びとなったことを、感慨深く受け止めています。    

というのも、これらのメッセージがかつて語られていた礼拝堂は、去る3月11日に起こった東日本大震災以降、閉鎖されたままだからです。実は新しい旅立ちは、私たちにこそ必要です。突然襲って来た地震と津波、それに続く原発事故は、一瞬にして私たちからほとんどすべてを奪い去っていきました。そして今なお私たちは、その日から9か月目も過ぎたというのに、うなだれて途方に暮れています。新しい旅立ちを必要としているのは、他ならぬ私たちです。

随分以前に出版していただいたこの本について、「長い間傍らに置いて、繰り返し愛読していました」とか「再版はいつですか」等ありがたいおことばを、かねがねいただいていました。ここにきて再び目を通してみると、古くて新しいしい聖書のお言葉が、悲しみに暮れる私たちに新鮮に語りかけてくるような気がします。まとめるのに難い私のメッセージエッセンスを、よくぞここまでコンパクトに綴ってくださったと、改めて当時の教会の姉妹に感謝するとともに、あの頃当たり前のように育まれていた幻の教会の営みが、ひどく懐かしく、いとおしくよみがえってきます。

思いもかけず散らされた教会は、その後二度と同じメンバーで集まることは叶わないものの、新約聖書時代に離散した初代教会が神の国の拡がりの大きな歴史の渦の中で、幾多の困難を乗り越え新しい旅立ちを繰り返していったように、私たちも与えられた旅路の一歩一歩を涙を拭いて踏みしめたいと願っています。

 苦悩に満ちた人生の道のりを、それでもめげず天を見上げ、前進しようとしているすべての勇気ある人々に、この本を贈ります。

                   2011年12月11日(日)新幹線にて

                                   佐藤彰

直線上に配置
|戻る|